一本道をまっすぐ進むか、道を横切り続けるか
「あの頃はてっきりとらみなさんが僕と同じで、詩に熱中してると思って毎日語ってしまいました——」
noteのサポートと共に添えられたそのメッセージに、ふとあわててカレンダーを遡る。あれから一年が経ったのだ。
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英治さんと初めて言葉を交わしたのは、約一年前のこと。
はじまりは、このnote。言葉を使った作品を創る時、人はどういった風景を心の中に描くのかを知るために、自分の場合を文章にまとめた。そうしたら、英治さんが文章を読み、感想を届けてくださった。それが去年の三月下旬。
あれから一年。彼は詩作活動をまっすぐ続けられ、今年の二月に第三詩集を出版された。
一方私は、英治さんの詩集の帯文を二回担当させていただいたものの、今は詩作そのものを主軸に活動していない。
「あの頃はてっきりとらみなさんが僕と同じで、詩に熱中してると思って毎日語ってしまいました。が、詩のことについて知りたければ、今の方が良く知ってるので、その時は語りますよ」
一年前は、お互いが同じスタートラインに立っているような感覚であったと英治さんはいう。私自身もそのような心持ちであったが、どうやら今はそれぞれ違う場所に立っているようだ。
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一本道をまっすぐ進むか、道を横切り続けるか。
何かを習得するペースは、人によってさまざまだ。ひとつのことに集中して突き詰めるタイプもいれば、色々なことをつまみながらゆっくり進むタイプもいる。
例えば、この絵の中央の山頂が「詩作活動」だとする。英治さんはこの一年、詩作活動の道をまっすぐひたすらに進まれた。毎日のように詩を作られ、さまざまな方が書いた詩に触れ、そして詩集を紡いだ。つまり英治さんはこの一年で、山の麓から一本に続く道を、よそ見をせずに登り続けられたのである。
私の場合は、どうだったか。頭の中に浮かんだのは、複数の道を横切って、ジグザグと歩く自分の姿であった。確かに一年前は、二週間に一回は詩作活動を行っていたこともあり、英治さんと詩についてよく語り合っていた。しかし段々と自由律俳句をつくる時間の方が多くなり、詩に向き合う時間は少なくなっていった。そのまま自由律俳句に舵を切るのかと思いきや、長い文章を書くことに熱中したり、イラストをはじめてみたりと、寄り道し放題な一年だった。
英治さんの進んだ軌跡と私の進んだ軌跡を合わせると、なるほど確かに、詩のことについては今の英治さんが断然お詳しい。同じ一年でも、こんなに違いが出るのかと驚く。
私はこのままで良いのだろうか。さすがに寄り道しすぎてはいないだろうか。noteで毎日何かしらを公開することに明け暮れて、詩も自由律俳句もその他のやりたいことも、休みすぎてはいないだろうか。
そう自分自身に問いかけながら、英治さんと私の軌跡をもう一度眺めると、二つの線が交差している地点が目に留まった。
もし私が一年前に完全に舵を切り、詩作活動から完全に離れていたとしたら。おそらくではあるが、英治さんの第二・三詩集の帯文に携わることもなかっただろうし、今こうして英治さんの詩集に関する文章も書いていなかっただろう。道を横切り続けることで、見える景色もあるようだ。
とはいうものの、詩作活動の道を登り続ける英治さんから時折届く風景写真を目にしては、尊敬の念を抱くし、素直に憧れる。
次に私が詩作活動の道まで辿り着いた時には、今度はすぐに横切らず、少し上まで登ってみようか。
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