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作家が生きているうちの評価はノイズ 【「誰がやったか」が重要な風潮が嫌いです】

質問:現代美術の何が行われているかや何が書かれているかより誰がやったかが重要になっている風潮がとても 私は嫌いです。
その作品のみで判断されることをバンクシーは望んでいたのかな と思いますがメディアに囃し立てられバンクシーもバンクシーがやったことで意味が出てくる作品が多くなったと思います。完全に匿名で現代アートを評価している場はあるのですか?

回答:
コンペとかが一応匿名で評価される場なのかなあ、と思います。最初は誰でも無名なので、作品から評価するしかないような気がして、そういう意味では匿名の評価なんじゃないかと思います。それがだんだんと名が売れてきて、評価が本人とセットになってくると、なんだか奇妙になってくる。「誰がやったかが重要」な現代美術の特性については、僕もあんまり好きではないですが、「現代」美術なので仕方がないとも思います。例えばゲルハルト・リヒターという現代美術の巨匠とも言える作家がいます。彼の近作には鉛筆によるスケッチ群があり、東京国立近代美術館でも展示されていましたが、正直言って謎でした。謎でありつつも、興味を引いたのはやはり名の知れているリヒターによる作品だったからだと思います。それを馬鹿馬鹿しいといってしまえばそれまでですが、僕は現在進行形で制作を続けるリヒターの考えていることが気になります。気になるのは、リヒターのこれまでの制作物と仕事の姿勢を知っているからでしょう。すごい作品を作った人の動向が気になるのは割と自然な反応である一方で、そんな人の新作が、必ずしもすごいかどうかは、全然別だとも思います。すでに評価が定まっている人の作品が評価されやすいのはどうしてもありますが、その評価はあくまで「現代」の評価であり、100年後200年後どうなっているかとは関係ないでしょう。歴史を見ても、当時は相当にチヤホヤされていた人も、今や誰も知らない名前となっていたりします。現代美術の住人たち(評価する人々)は、スーパースターだけ取り上げても存続できないから、なるべく色々な人を大事に取り扱っている節もある。しかしそれは現代の業界の生存戦略に過ぎません。時の試練は厳しいんです。村上隆の言葉を借りれば、「作家が生きているうちの評価はノイズ」です。彼はノイズである作品の評価が、時の試練を経て歴史に残るまでのプロセスを想像して制作をしています。あくまでもそういう人がいるという一例として。

バンクシーについては僕はあまり知らないんですが、個人的にはメディアをハックする確信犯的なイメージがあります。ストリートグラフィティをやる人は自己顕示欲がだいぶ強い印象です。ただしそれが強いからと言って特に問題はなく、彼の残すペイントはクールなメッセージ性があって好きです(これが消費的な態度に他ならないのかも知れませんが)。オークション会場で突然シュレッダーが作動して紙の作品が下半分裁断されたやつありましたけど、あれもだいぶ用意周到で、種明かしとしてのムービーがインスタグラムに上がっていたのを覚えています。作品に込めた意味や効果はともかく、かなり賢いやり手であることは間違いなさそうです。『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』というバンクシー監督による映画が面白かったです。

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