ジャン・コクトーの詩「シャボン玉」について
ジャン・コクトーを知っている人は多いだろう。
国語の教科書で「耳」などの詩がよく紹介されている。
コクトーは詩人としての才能があっただけでなく、小説家、劇作家、映画監督など多くの分野でその才能を発揮しており、1946年には初の映画版「美女と野獣」の監督にもなった。
今回はそんなコクトーの、私のお気に入りの詩と堀口大学の訳を紹介する。
詩の紹介
この詩の解釈
私は小学生の頃、この詩を教科書でふと目にした。
シンプルで不思議な詩だと思ったが、さらに印象に残ったのはその解説文だった。
それはこの詩の中の「シャボン玉」を「人の心」、「庭」を「他人」に読み替えてみて、というものだった(…ような気がする)。
すると、どうだろう。ちょっと口語的にして読んでみよう。
こうして読んだとき、小学生ながら何か心に残るものがあった。
それは抽象的なものとして今に至るまではっきりとしていなかったが、このnoteを書くにあたって少し具体化・言語化してみようと思う。
人の心というシャボン玉
人の心の中には入れない
どれだけ近くても遠くても、他者は他者である。
友人同士でも、恋人同士でも、夫婦でも、兄弟でも、親子でも、その心の内を覗くことはできないし、相手が考えている事なんて分からない。
ましてや、本当の意味で人を変えることなんてできない。
よく例えとして、「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という言葉が使われることがある。
どれだけ動機を与えようが、環境を整備しようが、本人の心が動かなければ、その人を変えることはできない。
私にできることと言えば、ただその人の心が動くまで何か言い続けたり、待ったりするのみである。
人の心に映る風景として
私はただ、人の心というシャボン玉に映る風景として、その周りをくるくると廻り続けるしかない。
その逆も然りで、他者が私の心の中に入ってくることはできず、私の周りを廻っている。
人間関係というのはすべてそのようなものだ。
時に、思いが一方通行になるのも、相手の期待通りの反応ができず落ち込ませたり怒らせたりするのも、相手の心がシャボン膜に包まれて見えないからだ。
その中をのぞき込もうとしても、せいぜい反射して映る自分が見えるだけだろう。
小学生の私はその切なさを強く感じたのか、今に至るまで覚えていた。
一見シンプルでユニークな詩だが、多くの示唆に富んでいて面白い。
実家に帰ったら国語の教科書を探してまた読んでみようと思う。
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