日々、自分に嘘をつく
ドストエフスキー著、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるのだが、気になった文章があるので紹介したい。
この文章は、ゾシマ長老という修道院の長老の言葉である。
私の生活を振り返ってみてみると、このセリフに当てはまることをしてしまっているように思う。このセリフの内容を基に生活を振り返りたい。
自分につく嘘と「怒り」
どうでもいいような些細な言葉であったり間違いだったり、そんなのにイラっとするのも、多くは「自分が被害を被った・キズつけられた」と思い込む、つまり自分に対して嘘をつくことが始まりだろう。冷静になると、わざわざ腹を立てることのほどでもないし、そもそも怒ったところでしょうがない、という場合が大半である。
腹を立てる時、人は心地良さを感じる。感情を露わにしたり、人に厳しく指摘するのは快楽を伴うからだ。
だが、これにはもちろん副作用がある。
第一に、周囲との関係性の悪化だ。そのような態度を続けていると、付き合いにくい偉そうなヤツ、として他人から忌避される。
第二に、自分の心がどんどん狭くなってくる。怒りの快楽に憑りつかれると、怒りの対象となる範囲が気が付かないうちに広がっていく。みなさんの身近にも、こんな状態の人物はいるだろう。
自分につく嘘と「逃避」
これが一番多い自分につく嘘だろう。一日何十回も唱えているかもしれない。
それは「でも」だ。
もちろん「でも」という言葉がプラスに働くことだってあるだろう。だが、日常では逃避としての文脈で使われることが多い。
・課題がたまっている、「でも」休日にはyoutube見てダラダラ過ごしたい。
・部屋が汚くなってきた、「でも」まだ掃除するのには早い。
こんなのは日常よく思うことだが、だがその小さな逃避が人生に影響してしまうことだってある。
いつまでも逃げ続けていたら、自分の力を発揮できず、そのままくすぶり続ける人生を過ごしていくだろう。
そしてそんな人に限って、まともに自分に向き合ってこなかったから、悪い意味で自分の限界や能力値が分からず、「まだ自分はやれるはずだ」とか「自分は過小評価されている」などと弁明し続け、その結果、他者を貶める権限がまるで自分にあるかのように振る舞う。
長期的に見ると「でも」で逃げずに、目の前のやるべきことに取り組んだ方が幸せだろう。
噓をつかない生き方
まとめると、
冷静に自分を俯瞰し、自分が嘘をついていないか見つめて生きていくのが大事だ。
自分への被害を勝手に妄想したり、誇大にして腹を立ててはいないか?
自分の純真な思いに沿って行動できているか?逃げてはいないか?
その問いに対して嘘をつかず、yesと答えていけるようにしたい。
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