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理想と執着

過去の写真をふと眺める。
そこには私がかつて所属していた学生団体の活動の様子が写っている。

企画者として実施した夏合宿の時の写真や、その他のプロジェクト活動の時の写真をスクロールしていくと、楽しかった記憶だけでなくその時の辛さや苦しさも同時に湧き上がってくる。

この辛さや苦しさの原因が何だったのか、今一度考えてみたい。

叶わない理想

結論から先に述べると、「理想」を手にしようともがき続けてきたことにあるだろう。

先に述べた夏合宿も、理想ではもっと多くの人に参加してもらいたかったしコストも抑えたかった。だが、私の力不足でそれは実現しなかった。
プロジェクト活動も他のメンバーと自分との意識の差に、もどかしさを覚えることがあった。

理想と自分との差分が大きければ大きい程、心はより暗くなっていった。

理想への執着

「執着(しゅうじゃく)」、この言葉は仏教用語で「事物に固執し、とらわれること。」という意味を持つ。これは苦しみの原因の一つとされている。

考えてみると、私の苦しさの原因は理想への執着にあるのだろう。

理想という言葉の意味は、「人が心に描き求め続ける、それ以上望むところのない完全なもの。 そうあってほしいと思う最高の状態。」である。

その意味を踏まえて考えてみると、理想の実現なんてほぼ不可能だ。
物事が自分の思うように進んでいくことなんて、まずあり得ない。そのあり得ないものを手に入れようと執着していたのだから、そこに苦しみが生まれるのは当然である。

理想とどう向き合うか

それでは理想を捨て、流れに任せて物事や人生に取り組んでいくべきなのだろうか。
しかし、それでは自己を貫く軸を失ってしまい、自分の人生を生きているという実感が得られず、自身の実存を失ってしまう。

大事なのは、「結果に執着せずに理想を目指すこと」だと思う。
未来の自分を理想に同化させようとするのではなく、理想をあくまで理想として持ち、そこを目指して歩み続ける。そのような考え方が望ましいのだろう。

たとえ理想を手に入れられなかったとしても、それを目指して行動した結果に満足する。そのために後悔がないように最後までやりきる。

上手くいかなくても、理想を目指して進んだ時間や道のりは、理想を持たない状態に比較して、遥かに充実しており大きな距離の差をつけることができるはずだ。

そう考えると、理想とは目的地ではなく道しるべのようなものだ。
かつてのミクロネシアの人々が星を目印にして航海したように、理想という星を目指して私は歩み続けたい。どれだけ進んでも決して辿り着きはしないだろうが、そのきらめきは暗闇の中を導いてくれるだろう。

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