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解釈の主人公は誰のもの?〜ゲルハルト・リヒター展〜

ゲルハルト・リヒター展に行ってきました。
電車の中吊り広告で目にしてから、絶対行こうと思っていた企画展。
平日休みをとり朝イチで行ったのに、大盛況でした。

展示はなかなかユニークで、展覧会によくあるテーマの章立てや順路がなく、気の赴くまま自由に見てちょうだい、というスタイル。
今回の企画展にあたり企画構成にリヒターも携わっていたらしく、リヒターの多様な表現スタイルもあいまって、自由で気楽な感じがただよう。

見ているものが本人に見えているもの

リヒターは、「本人が見ているものが、見ているものだ」というような言葉を残していて、わたしは個々人の解釈や色眼鏡によって、見たいように物事を見て認知しているということ、それをアートとして表現しているのだと受け取りました。
今回の展示でもっともそのことを痛感したのがガラスの展示。



最初は自分の姿やほかの鑑賞者に意識が向いたのだけど、少し視野を広げるとほかの展示の反射や、展示を照らす照明の光なんかにも目が行く。

一瞬にして、自分の視野が切り替わる感覚を感じることができ、リヒターの意図が分かったような気になりました。

ほかにも、アブストラクトペインティング、フォトペインティングなど、見る者の解釈に委ね、作家としてのエゴを薄い展示が多くあり、それだけ自由度が高い。だからリヒターの絵画は対話型鑑賞にうってつけだと感じました。どの展示に惹かれるか、さらには「きょうは」この展示に惹かれる、など、人どころかその日の気分によって受けとる印象が変わってくるのではないかと思います。

見たいように見ることを許さない


それでも、2点だけ、見たいように見ることを許さない展示がありました。 

最初は、抽象画の一つだと思い込みました。水色にグレーの太い2本の線、指でこすりつけたような線。

でもタイトルをみて、ああそういうことか、と意識が切り替わりました。だまし絵でも見たような気分で、それからはもうその9月の出来事の絵としてしか見られなくなってしまう。いわば、意識が狭まってしまう。

それから、もう一つは代表作のビルケナウ。
電車の中吊り広告で目にしたのは、これでした。

実際は4枚あるのよ


シックな抽象画だなぁ、きっとこんなテキスタイルのような抽象画がいっぱいあるんだろうなぁ、なんて思っていました。

でもこの絵には、説明がわりにアウシュビッツ収容所の4枚の写真が先に展示されているのです。

そのあとに、巨大な4枚のビルケナウの絵を目にすると、シックな抽象画なんてイメージは吹き飛び、鮮烈な赤は、差し色なんてオシャレなものではなく、飛び散る血の度ギツいイメージ、そして大部分のグレーの重圧感。
隠された意味の重さに、急にひんやりとうすら寒くなるというか、息苦しくなるというか。抱いていたイメージとのあまりの落差に、意味の重さに、立ちすくんでしまいました。

他にもあるアブストラクトペインティングとは一線を画し、タイトルやら4枚の写真仕掛けに作家のメッセージ性やエゴを強く押し出し、ここにリヒターの確固たる意思表明、本気さをガツンと感じました。

あれだけ自由にみることをゆだねていながら、この絵に関しては解釈の手綱、主導権を渡さない。そこに、人間リヒターのプライド、倫理観が貫いてると感じました。

やっぱりアートは楽しいなぁ。哲学だなぁ。
発信者のエゴは、どうしても拭いされないよねぇ、人間だから。そんなことをぐるぐると考えました。


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