ウィークエンドけそ(第24回/2021 .1.29号)
くずざんぽー。けそです!
皆さんは、どちらで、いかがお過ごしでしょうか?
今週のウィークエンドけそのお時間がやってまいりました…って、すっかり深夜ですけど!ちょっと文字数書いてたらすぐこれよ!!
この番組では、今週けそがビビビと来た、SNSの話題・ラジオで聴いたもの・YouTubeで観たもの等の中から、特に皆さんにお伝えしたいものを紹介していきます。
ということで、今週の最初の部門!
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(いわゆる)マイノリティの人々が出てくる作品を、「普遍的な物語」という言葉で褒め(ようとす)ることの危険性について
先日、『ジョゼと虎と魚たち』のアニメ化バージョンに不安があるよ、という話をつぶやいた。
上記つぶやきでリンク貼った記事から考えたことを、今日はもう少し広げてみたいと思う。
※だいぶ前の作品ではあるけど、実写版『ジョゼ』のネタバレがあるので、ご注意を。
実写映画の『ジョゼと虎の魚たち』の途中までのストーリーは、以下のようなもの。
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大学生・恒夫は、ひょんなことから、足が不自由な女性、クミ子と出会う。
クミ子は祖母と同居しているが、祖母はクミ子を「壊れ物」と呼び、彼女が人目に触れることを恥だと考えて、早朝の人が少ない時間に彼女を乳母車に乗せて散歩する以外、外に出ることを許していなかった。
(「ジョゼ」はクミ子の自称。クミ子は祖母が拾ってくる本を読むことを趣味としており、恒夫と初めて会ったとき、読んだ小説に出てきた登場人物の名「ジョゼ」を借りて名乗った)
ある日恒夫は、祖母の目を盗んでジョゼを外へ連れ出す。それまで明るい太陽の下で散歩したことがないジョゼにとって、それは初めて見る世界だった。
それまで「そんなうまい話があるわけない」と疑って公共の福祉サービスを使うことを嫌がっていた祖母も、恒夫に言い含められて、自宅のバリアフリー工事の支援を受けることにする。
その後、ある出来事をきっかけに、祖母にジョゼとの交流を禁じられてしまう恒夫。ジョゼを忘れようとしながらも、忘れられずにいた。
しかしある日、人づてにジョゼの祖母が亡くなったことを知る。
心配した恒夫がジョゼを訪ねると、「(役所の)福祉の人が助けてくれてるからなんとかやってる」と彼女は言う。「乳房を触らせてくれたらゴミ出しすると近所の男が言ってきたから、触らせてゴミ出しを依頼している」、とも。「そんな、ゴミ出しなんて福祉の人に頼めばいいじゃん」という恒夫。「ゴミ出しは朝早くにしないといけない、福祉の人が来る時間はもっと遅いから間に合わない」と、ジョゼは感情を爆発させる―。
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で。やっと記事の話に戻るのだけど。
記事によると、アニメ版では、この「乳触らせてくれ」って言ってきた男の人の存在が、消されてるらしい。
本作(けそ注:アニメ版の『ジョゼと虎と魚たち』のこと)は総じて、社会の側の歪みをジョゼ個人の「甘え」や勇気の問題に回収する姿勢が目立つ。勿論その方向性自体は仕方ない。クリスマスにわざわざ障害者問題を考えに映画館に行くカップルなど居ないのだから(けそ注:本作はクリスマスに公開された)。
それでも、ジョゼと同じアパートに住み「お乳房さわらしてくれたら何でも用したる」と言い寄る男だけは絶対に残すべきだった(注2)。彼は恋愛や性という『ジョゼ』の根幹を成すテーマに直接関わる存在だからだ。原作や実写では厳然と存在した彼が消された本作では、ジョゼが外の世界で立ち向かわねばならない恐怖の輪郭はひどくぼやけ、その象徴たる虎も抽象的な存在に成り下がった。
女性障害者が性犯罪の格好の標的とされる状況は今も変わっていない。今年、視覚障害者の女性が相次いで盗撮される事件が起きたが、その中には自宅まで侵入してカメラを仕掛けられた例もあった。ジョゼが悪意の気配に敏感なのも性被害を抜きには語れない。「女性である」ことと「障害がある」ことの複合的な困難の一端はNHKのサイトにまとめられている。
女性障害者達は恋愛や性の領域で次のようなジレンマを抱えていると考えられる。一方では桁違いに高い性被害のリスクと、そこからの「保護」を口実にした生活への厳しい管理・介入。他方で「恋愛や性では障害を言い訳にせず、もっと主体的にならないといけない」という規範圧力も根強い。
注2……田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』(角川文庫)p.192
文春オンラインの記事「名作『ジョゼと虎と魚たち』アニメ版は“純愛推し”だが…消された「性被害」の重み」より引用。太字はけそによるもの。
ジョゼの性被害のことも、ジョゼのパーソナリティも、ジョゼが障害者であることと切り離して考えることはできないのだ。
が…、アニメ版の監督・タムラコータローさんは、インタビューでこう語っている。
確かに車椅子は作品の重要なモチーフであることは間違いないですが、同時にこれ(原作)は障害者の物語ではないと思います。この作品の焦点は足の不自由さではなく、心の不自由さ。ジョゼはいわゆる引きこもりの生活をしていますが、それはジョゼの家庭の話で、僕が取材させていただいた車椅子の方の中には非常にアクティブな生活をされている方もいらっしゃいました。きっと田辺さんも、ジョゼを障害者の代表として書いたわけではないはずです。
生い立ちによって出来てしまったジョゼの心の不自由さ。それを表現できるのであれば、ジョゼには足の障害ではない、別のなにかを課してもよかったわけです。社会的メッセージを持った作品にすることももちろんできますが、それは今回僕が読み解いた作品感、描こうと思ったものからは離れてしまいますね。
WebNewtypeの記事「『ジョゼと虎と魚たち』タムラコータロー監督インタビュー『実写の俳優さんを起用したのは生身の人間の持つ生々しさを伝えたかったから』」より引用。太字はけそによるもの。
この監督の発言に対して、文春オンラインの記事の書き手・ダブル手帳さんは、「『心の不自由さ』と障害とは明確に切り分け可能な事柄であり、後者は前者のための取替えのきく道具である、という考え方だ」と述べている。
監督の言いたいこと、わからなくもない(たぶん)。
「障害者の話」という括りになってしまったら、「自分とは関係ない」と思っちゃう人がきっといると思うけど、そうじゃないんだよ、「あっち側の人のこと」って境界線を引かないで観てほしいって、そう言いたかったんだよね?(たぶん)
でもさ、でもさー…。
少なくない当事者が経験している負の側面を、「この映画は社会的メッセージを持ってるタイプの作品じゃないから」「自分が取材した当事者は明るく暮らしていたから」って、なかったみたいにするのはさー…。
24時間テレビで、前向きに頑張りまくってたり、「心が美しい」っぽい障害者を称賛する構造と、同じじゃない?
…と思ってたところ、同じところにぶつかるインタビューだ、と感じるものを読んだ。『愛がなんだ』の今泉力哉監督の作品・『his』に出演した、藤原季節さんへのインタビュー。
――同性愛カップルが主人公ですが、恋愛にしろ、家族愛にしろ、普遍的な感情が描かれていると感じました。
藤原季節(以下、藤原):同性愛の物語を描く映画って、海外にはたくさんありますし、そうした作品はもともと好きでした。いつか僕も同性愛者の役を演じていたいという漠然とした思いを持っていたので、お話をいただいたときはすごく嬉しかったですし、役者としてチャレンジできるという気持ちでした。
本作は同性愛であっても、登場人物は普遍的な感情を抱いていると思っていたんです。でも、実際に同性愛者の方々と知り合ったり話したり調べたりしていくうちに違うと感じるようになりました。
――違う?
藤原:普遍的な感情というのは、僕らの視点からであって、彼らのなかにはある意味存在していないと思うんです。自分たちが同性愛者だという前提を、なくすことはできない。あくまでも、同性愛者だからこそ抱く好きという気持ちと、そこで直面する壁や苦しみを描いた映画なんだと、今は思っています。
bizSPA!フレッシュの記事「ゲイカップルを演じた藤原季節『これは“ただの”同性愛者の映画です』」より引用。太字はけそによるもの。
あと、少し前に読んだNOISIEのインタビュー記事「フェミニズムで必須の概念『インターセクショナリティ』、なぜ日本で知られていないのか【フェミニズム研究・飯野由里子】」のことも思い出した。
※後に引くインタビュー箇所の前提となる問いなので、まず、記事の冒頭の導入を引く(↓)。
フェミニズムやブラック・ライヴズ・マター、そしてフェミニズム内部でのトランス排除問題に関連して耳にすることが増えてきた単語「インターセクショナリティ」。しかしその意味を詳しく知っている人は意外にも少ないのではないか。
「交差性」とも訳されるインターセクショナリティだが、なぜフェミニズムを学ぶ上で必須の概念なのか。
ここから、飯野さんへのインタビュー内容からの引用。
私たちの社会にはジェンダーをはじめ、人種や民族、国籍や階級、障害の有無や性的指向など、社会的カテゴリーとして認知されている差異がありますよね。
「インターセクショナリティ」はそうした差異が別々に存在しているのではなく、互いに結びついたり、交差したりして存在している事実を指す概念です。「インターセクショナリティ」の考え方を使うと、これまでのフェミニズムの中でどういったことが見過ごされてきたのか、それらをどんなふうに考えていくべきかを捉えることができるんです。
〔中略〕
女性を同質的な集団と想定してしまうと、ある事柄が様々な属性の女性にとってどのような意味を持つか、その違いも見過ごされてしまいやすいと思います。たとえば、「結婚」が持つ意味とか。
――「結婚」が持つ意味にも、違いが。
フェミニストにとって「結婚しない」という選択は社会のジェンダー規範に対抗する抵抗的なあり方だと理解されている向きもあると思います。
しかし、社会に結婚することを期待されていないどころか、「結婚してはいけない」という禁止を強く受けてきた障害女性にとっては、結婚するということが抵抗として捉えられてきた側面があります。
――なるほど。
似たようなことは1970年代〜1980年代の黒人フェミニストも言っているんですよ。当時の白人女性中心のフェミニズムでは家族は女性を縛り付けるものとされることが多かったんだけれども、黒人女性にとって家族を持つことは抵抗の手段でもあった。
ですから、表面的に見えている現象だけをとりあげて、マジョリティの目線で、それはメインストリームに取り込まれている、取り込まれていないと “判定”するのには問題があるわけです。複雑な物事を理解するには、複雑な問いを立てなければならないということですね。
(太字は原文ママ)
私自身の昔の経験についても振り返りながら、これらを読んだ。
私はかつて、発達障害を持つ人と付き合っていたことがあって、その人に「あなたは自分の悪いところを、全部障害のせいにしてる。それってほんとに障害のせいなの?性格のせいだってこともあるじゃん」って言ったことがあるんだけど。
(相手の障害について、理解が足りていなかったところも多分にあったと思うけど、)そもそもどこからが『性格』の話で、どこからが『障害』の話かって、はっきり分けられると思ってたのが、間違ってたんじゃないかな…。
自分とは違う境遇に立っている人について知ろうとすることは、大切なことだと思う。「違うように見えて、自分と共通する点もあるんだな!」って感じることや、相手の立場に立ってみようと試してみることも。
でもそうして世界を眺めているのは、「やっぱり『自分』の目でしかない」ってことは、忘れちゃいけないんじゃないかな。
私がまだ知らない現実も、死ぬまで知る機会が訪れない現実も、文化や属性や、もっと言えば、人間の数だけきっとあるわけで。
もちろん、実体験がすべてじゃない。「実際に経験してないことは、まったくわからなくて当然」って、あきらめたくはない。想像も大切だ。疑似体験もまた経験。
だけど、私が想像している世界は、「私のフィルター」を通さずにはいられないこと、その外側があること、そういうことは忘れたくない。
その複雑な外側を、「理解しづらいから…」とか「自分の経験に照らして…」とかって、無理やり丸めたり切り離したり、なるべくしないようにしたいな。
難しいけどさ…。
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続いては
ウィークエンドミュージック
のコーナー。
実写版『ジョゼと虎と魚たち』の音楽はくるりが担当しててそれがまたいいんですよ…。ドライで明るくて、季節の変わり目の風みたいに揺らいで…。
ということで、くるり繋がりで行きますね。
くるりで『リバー』。
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続いての部門!
『凪のお暇』に出てきた、ロール白菜を作ってみました!
1月も終わりですが、まだ白菜のシーズンということで。
当初、↑こちらのレシピを参考にトマト煮の方から作りました。めんどくさがりなので白菜の下茹でしなかったんですが…過程をショートカットしてるのに、やっぱり巻くのがめんどくさかったです(ロール〇〇向いてない人間)。ちなみにつまようじの代わりにスパゲティを折って使いました。
続いてクリーム煮にも挑戦。
もはや巻きませんでした。
白菜と豚肉を切った後、そのまま鍋にINしました(ずぼら飯)。
かなり時短になってストレス減ります。笑
上記記事のオリジナルレシピは牛乳になってるんですが、豆乳で作ってもおいしくできました!
(ハプニングでナツメグ多く入れすぎたが、それによって深みが出た説がある)
白菜が余ったら、ぜひお試しあれ~。
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最後の部門!
蛇革ってこんなに伸びるんですか…?
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今週の『ウィークエンドけそ』、いかがでしたでしょうか?
この番組では、皆様からけそへの、褒め言葉・人生相談・質問をお受けしております。
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