「霊視調査 ~マギ ルミネア編~」 #16
エピローグ
研究室からは、時折、波音がしていて耳を傾けると、海の中にいるような気がしてくる。
彼我戸は研究室の椅子に座り、目の前にある窓を先ほど開け放ったところだった。
手元には、いくつかの折った紙飛行機が置いてあり、彼我戸は、その一つに手を伸ばした。
ふと、机の横に置いてある卵型の鏡に目を留めた。
やや明るめの髪色を、肩口の近くで切り揃えた髪型。
白衣を着た女性。
中学の制服を着ていたときなど、まるで、ついこの前のようだ。
昨日、家に帰ったときにテレビに映ったトップニュース。
『マギ ルミネア』の同級生。
彼女が昨年夏に起こった殺人事件に関わった。
インターネット上やSNSでは、すごい騒ぎになっている。
だからと言って、不思議と興味はわかなかった。
彼女のことを忘れていたわけではない。
だが、事件の詳細を追ったり、彼女が行方不明になった間、何をしていたかなど、彼我戸には実際、どうでも良い話だった。
どうやっても、証拠など見つけられはしないだろう。
彼我戸がこれまで歩んできた道のりも、同じように人為的・作為的なものなのだから、彼らからすれば、事件の推移も、ある程度見えているはずだ。
これまでと同様に、彼我戸はただ、現実を見守っていれば良い。
何も臆することはなく、ただ、じっと眺めていれば良いだけ。
彼我戸は持った紙飛行機を少し引き、さっと開け放った窓の奥へと飛ばした。
窓の奥は空地の上、土を固めたような防草土が敷いてあるため、後で紙飛行機を回収すれば誰にも何も言われない。
紙飛行機は彼我戸の指を離れ、ふんわりとした軌道を描いて飛んだ。
彼我戸は椅子から立ち上がり、軌道の先を見つめた。
紙飛行機はあまり遠くへは飛ばず、失速した後に地面へと着地した。
彼我戸は、もう一つの紙飛行機に手を伸ばす。
ふいに、ドアをノックする音が聞こえて、秘書が部屋の中へと入ってきた。先ほどまで、誰かと英語で話をしていた様子だった。
手には、彼我戸宛ての郵送物をいくつか抱えている。
「へえ。博士も、紙飛行機なんて折るんですね」
秘書は言うと、にこりと笑った。
とても自然な笑みではあった。
だが、彼我戸は秘書に片手を出して、郵送物を渡すよう暗に示しただけだった。
秘書は、わけがわからないと言った戸惑いの表情を見せながらも、郵送物を渡すと、すぐに立ち去り、部屋を出て行ってしまった。
郵送物の差出人をチェックするが、特に重要な人物の名前は見つからない。
彼我戸は内心、小さな溜息をつくと、届いた郵送物を机の端に寄せた。
別に、特定の名前を郵送物の中から見つけたいなどと、思ったわけではない。
気になっているわけではない。寂しいと言う気持ちとも違う。
ただ、あのとき、なぜ荒々しい物言いで言葉をぶつけられなくてはいけなかったのか。
彼みたいに、人の注目を集める人間から、傷つけるような言葉をぶつけられたのは初めてだった。
彼我戸は小さく頭を振った。
周囲の人間が言うように、自分は間違ったことなどしていない。
彼のように、反発心を見せる人間が悪いだけだ。
彼我戸は側にある本棚に目を留める。
本棚の中には、海洋生物に関する日本語や英語など諸言語で書かれた本が収められている。
棚の一隅には、ポストカードの入った小さな額縁が飾られている。
彼我戸は、その額縁を手に取った。
そこには、冬の白銀世界が描かれている。
だが、凍った湖と思しき世界の中に大きなひび割れが現われており、その一つから、黒い瞳孔を持った顔が、目元だけでこちらをのぞいている。
いや、こちら側がのぞきこんでいるのかもしれない。
のぞいた顔は、うっすらと水面奥に映り込んでいるかのような、一種、独特な描き方をされていた。
異彩の若手画家、真木路惟の『夢の目覚め』。
彼我戸は、額の透明なプラスチックを軽く指でなぞった。
彼は、ずっと絵を描いて、その才能を社会で活かしている。
彼の絵を見る度、彼我戸の心にわずかな自尊心と言うか、満足げな気持ちが芽生える。
同級生と学んでいた、あの懐かしい気持ち。
『マギ ルミネア』。
彼我戸の脳裏に過去の記憶がよみがえった。
中三の卒業も間近と言う二月。
彼我戸は理科の教員の手伝いをした後、教室のごみ箱を校舎裏のごみ捨て場まで持ってきていた。
蓋を開けてごみを捨てた後、人の気配を察して、彼我戸はふり向いた。
そこには、二組の田塚真加が立っていた。
彼我戸は何も言わず、田塚を見た。
田塚は言った。
「あたしね——」
手で弄ぶように長い三つ編みを触った後、嬉しそうに彼女は言った。
「守護霊さまが見えるようになったの。突然、すべてのことがわかるようになったのよ」
彼我戸は何と返して良いかわからず、その場に立ち尽くした。
田塚は、なおも言う。
「本当よ。あなたがなぜ、総代をしているのかもわかったし、それに、そう——中一の頃に男子寮に通じる通路から煙が上がったこともあった。その事件もね、昨日、守護霊さまに全部教えてもらったのよ」
薄笑いをする田塚に、彼我戸は黙っていた。
「嘘だって思っているでしょ。でもね、そう言われると、あたしは最初からわかっていた。とにかく、事件の全容は、こう。
この学校には、ある宗教団体の信者達が潜んでいる。
事件のあった日、保護者二人が学校にやって来たけれども、その宗教団体でのお金の貸し借りで言い合いになり、二人は喧嘩をして通路の床に血が流れた。まだ生徒が校舎内にいた時間だったから、床の血痕をふき取って掃除する時間がなかった。だから、消火器を使って小さなボヤが起きたように生徒に錯覚させた。
どう? 合っているでしょう」
そう言って、田塚は、この学校に来て初めてではないかと思えるほど、自信に満ちた表情を見せた。
彼我戸は無言のままだった。
だが、実際は驚きで何も言えない、というのが実情だった。
田塚の言っていたことは全て純然たる真実で、どう推理したのかは知らないが、実際、その通りだった。
このことを知っているのは、教員のごく一部と、彼我戸のみ。口外する者などいないから、どこから内部情報が漏れたのか、わからなかった。
彼我戸は鋭い視線で田塚を見つめた。
田塚は嬉しそうに言った。
「あたし、この学校に来て本当に良かったと思っているわ。才能のない、何の取り得もないあたしでもね、できることはあったのよ。しかも授業や部活動では図れない、学校の誰も図れない、あたしだけにしかわからない霊感。どう、守護霊さまに聞きたいことはあるかしら。あなたが将来、研究者になって一人寂しく研究に人生を捧げているなんて、守護霊さまは言っているけれど。どうなのかな、本当なのかしらね」
彼我戸は意識を現在へと戻した。
あのとき田塚から言われたことは全て教員に伝えた。その後のことは、自分には関わりのないことだ。
けれども、彼女の言ったことは大きく未来に波及する結果となった。
彼女の才能が思ってもみない形で発現するなど、誰も予想できないことだった。
彼我戸は視線を机の上に向ける。
あのときから随分時間が経ち、田塚は長い時から目を覚ますように、その姿を突然にして現した。
昨日から、『マギ ルミネア』卒業生であれば、皆、驚いていることだろう。
彼我戸には、その驚きを伝えに来る者はいない。だから、彼らが本心から何を思っているのかは、わからなかった。
ぼんやりと、視線を机の上から、手に持っていた小さな額縁へと移す。
当然のように、彼も行方不明事件の新たな真実を知ったことだろう。その上で、どのように思ったのか。
面倒見の良い彼のことだから、今頃、田塚が無事だったことを知って泣いているかもしれない。
それが本当かどうか、自分には知る由もないが。
彼我戸は視線を窓の奥へと移す。
小さな額縁を机の上に置き、紙飛行機を手に取った。狙いを定めて一つ、窓の奥に飛ばしてみる。
紙飛行機は、ゆらゆらと揺れて、ついには気流を味方につけ、揚力に乗って中空を遠くへと飛んで行った。
捕まえ手のいない紙飛行機。それは、どこまでも漂い、青空を背負って遥か彼方へと飛んでいく。
「また会いましょう、真木君」
風にのせて、そっと、つぶやく。
彼の耳に届かなくても。彼の心に響かなくても。
遠くない未来で、彼とはまた会える。そんな予感がしていた。
晴れた空の中を、紙飛行機は飛んで行く。
枷もなく、嘘もなく。自由になって、どこまでも。
(了)