荷台
気づけば、荷台の中に座っていた。
はっとした心地で辺りを見渡す。
四方には蛇腹をもっと折りたたんだような表面が取り囲んでいる。
一番下の面からは微かに振動が伝わってくる。
車は移動中のようだった。僕を乗せた荷台を引きながら。
向かい側を見ると、何に気を撮られているのか運転席側を見ている男が僕と同じように座っている。
僕が相手を見ると、相手も僕を見つめ返してきた。
黙っていると、男の方から口を開いた。
「やっと気づいたんだ。具合はどう」
男は僕を心配しているようだ。だが、警戒してかからなければいけないだろう。
僕は相手を少し睨むことで返答とした。
男はわずかに口元を緩めるような曖昧な表情を浮かべた。
「ここはさ」男が言った。「どこかの車の荷台みたいなんだが、さっきから運転席近くを叩いても、気づいてくれないんだ」
「だったら」僕は言った。「荷台の入り口が開かないか、試してみたら良いだろ。運転している人が気づかないなら、荷台を開けて脱出するしかない」
僕は荷台の入り口を見た。外側から頑丈に鍵をかけているようで、どう見ても内側から開けられる様子ではなかった。
僕の提案を聞いても男は動きもしなかった。
少々苛ついた気持ちで僕は蛇腹の壁に背をもたれた。荷台の中には電灯がなく、男の側に置かれた携帯がほの白い光を放っているだけだ。
そんなことしたら、携帯の充電がいつか切れるだけなのに。
何のためにそんな無駄なことをしているかわからず、僕はますます苛立つ気持ちを何とかして抑えなければならなかった。
振動音が止まった。車がどこかの信号前で停止したのだろう。
男はふいに立ち上がると、運転席の方へ向かった。
そのまま、片手でどんどんと叩いたり、足で何度か蹴ってみたりもした。
車は突然動き出し、男はよろめかないよう、蛇腹の壁に両手をつけてバランスを取った。
大丈夫かと思ったが、僕は何も手出しはしなかった。
男は這うようによろよろと僕の対面する位置までやってくると、ため息を吐いてから壁にもたれて座った。
荷台の外からは人の声や走行する車の音が何も聞こえない。
どこを走っているのかわからないが、信号で止まることはあるらしい。
田舎か、それとも山の奥深くを走っているのかもしれない。僕はたまらなく不安になった。
荷台の中を見渡しても、荷物は一切積んでいない。
ただ、僕ともう一人の男が荷台の中にいるだけだ。
運転者もそのことがわかっているのは当然と考えるべきではないか。
僕の不安は、急速にどす黒い、運転者に対する憎悪の感情へと塗り替えられていく。
なぜ、僕をこの荷台の中に放り込んだのか。
運転者は――相手は僕の知っている奴なのか、それとも知らない奴なのか。
これは犯罪だ。僕を誘拐して、荷台に押し込んで、一体何が目的だ。保険金か人質か。
僕の苛立たしい気持ちは、今や抑え込むこともままならない。
運転者――誰かは知らないが、車がどこかに停まり、荷台が開いた瞬間に殴りかかってやる。相手が武装していようが何だろうが、そんなことはお構いなしだ。
相手がその気なら、こっちも迎え撃つ。
僕は拳を握りしめた。
荷台に放り込まれる直前の記憶は、祖父母の家からの帰り道で急に睡魔に襲われ途切れている。
僕には母方の祖父母しか存在しない。
父親は僕が子どもの頃に家を出て、どこかに行ってしまった。
母は父親の行方を一時は懸命に探していたようだが、諦めたのか、父親のことを話題に出すことは一切しなくなった。
僕は捨てられたのだ。母も。あの男に。
それからというもの、僕は大人の男性を見ると無性に腹が立って仕方なかった。
人は簡単に裏切る。父親のように。
母方のおじいちゃんは大人の男性だが、僕に優しくしてくれ、しかも僕を裏切らない。
老齢の男性には敬意を持っている。だが、僕と母を捨てる父親、これはダメだ。
僕の中にはいつも、いつも――ああ、ダメだ。父親のことを思い出してしまったら。
何か他のことを考えないと。でなければ、気持ちの置き所がない。
振動音が再度止まった。
僕は弾けるように荷台の入り口を見た。
荷台横から聞こえる足音の後に、騒々しい金属音が入り口から聞こえてきた。
誰かが荷台の入り口を開けようとしているのだ。
僕は獣のように臨戦態勢を取った。
しゃがむように座り、いつでも駆け出せるようにした。
ガシャ、と金属音が急に止んだ。
入り口から徐々に光が漏れてくる。
僕の体の中を血流がいつもより早く廻り、心臓の鼓動が高鳴った。
光の中から、ほっそりとしたしなやかな腕が現われる。僕は姿を現した人物に目を細めた。
荷台の入り口に立っていた人物。
それは一人の女性だった。
僕はあまりのことに拍子抜けし、肩から力が抜けるかと思った。
ショートカットにTシャツ、ジーンズというカジュアルな服装。
今までに会ったことのない人物だったが、僕は拳に込めた力を緩めた。
「こんなところに閉じ込めてしまってごめんね」
謝罪の言葉を述べる彼女に、僕は何が起こっているのかすら、わからなくなってきた。
「ある人に言われているの。荷台から叩く音が聞こえても車を停めないで、って。ただし、蹴るような音が荷台の下の方から聞こえたら、それは、あなたが起きた合図だって」
僕は後方にいる男を、じろっと睨んだ。
男はまた何を考えているのかわからない曖昧な表情を浮かべた。
「外に出てくれる? 会わせたい人がいるの」
女性に促され、僕は、暗い荷台の中からやっと陽光の下へと足を降ろすことができた。
そこは山の奥深くに建てられた一つの洋館の前だった。
入り口は黒い鉄製のアーチを描いた門扉で閉じられ、奥に見える洋館はツタが屋根の一部を覆い、屋敷側には広い庭と温室を目にすることができた。
「こっちに来て」
女性は門扉を少し開け、隙間から邸内へと入っていた。僕と男も彼女の後に続き、女性は屋敷ではなく温室の方へと足を進めた。
ビニール製の天幕が全体を覆い、中は少し蒸し暑かった。
女性は既に温室の中へ入り込んでおり、そこには一人の初老に近いような男性がいた。
彼は、僕にとっては不気味としか思えない造形の洋蘭を手に取り、何らかの確認を取っているようだった。
男性は僕を見ると、呆けたような表情でじっとこちらを眺めている。
だが、男性の目の形と言い、耳の形と言い、どことなく僕と似ているような気が段々してきた。年齢は遥かに違えど、大きくひび割れた鏡に自分を映し、一つ一つを見ているような気持ちだ。
男性はゆっくりと僕に近寄った。
そのときには、僕にもその人が誰だかはっきりとわかっていた。
僕は掠れるような声で言った。
「父さん――」
「おかえりなさい。遅かったわね」
家に帰ると、母が居間にいてテレビを見ていた。
僕は母の言葉に少しうなずくと、そのまま自室へ行こうと足を踏み出しかけた。
「どうしたの? その花束」
母は一瞬ぎょっとした表情で、僕の抱えた包みを見た。
僕の腕の中には、白い紙で綺麗に包まれたいくつもの花々があった。
花束を手にし、僕は言った。
「あげるよ。父さんからもらったんだ」
「えっ――」
母は驚くような声を上げた。
「父さんって、まさか。一体、どこで会ったって言うのよ」
僕は何も言わずに母に花束を手渡した。それは、ピンクの胡蝶蘭で手毬のように束ねられた花束だった。
調べたところによると、花言葉には「あなたを愛しています」という意味がある。
「ねえ、待ちなさい! あの人にどこで会ったって言うの」
母は勢いをつけるように僕に駆け寄った。僕の腕をつかむ。
僕は母をふり返る。そのとき、どんな表情をしたのか、僕にはわからない。ただ、言った言葉だけは覚えている。
「父さんは言っていたよ。本当に起きたことは違うって。僕はずっと父さんのことを誤解していた」
僕はすっと目線を床へと下げた。
「父さんを捨てたのは、実は母さんだったんだね。僕は今までずっと誤解していた」
母の目から涙が溢れる。母の表情を見ていることが僕にはできなかった。
優しい裏切り。優しい嘘。
僕は荷台を出るまで何も気づくことができなかった。