「霊視調査 ~マギ ルミネア編~」 #13
第四章 一
樋口探偵事務所の中、樋口と日奈は二人きりで部屋にいた。窓から見える天気は曇り、日の光は弱くなっていた。
そろそろ雨が降るのかもしれない。そう、樋口は思った。湿った、肌寒いような空気が何となく、外から漂っているようにも思える。
部屋中央で日奈が、おごそかな声を上げた。
「臨兵闘者、皆陳裂在前」
日奈が掌印を結び、しばし目を伏せる。
樋口はその様子を見ながら、黙ったまま、近くに立っていた。
ややあって、日奈が掌印を解き、腕を横にする。
樋口の方をふり返ると、相手を気遣うような表情を見せた。
「その様子だと、除霊は終わったと見て良いのかな」
相変わらず、樋口は日頃の飄々とした、気さくな態度を崩してはいなかった。直前の物々しい雰囲気も何とも思っていない。まるで、大したことないと言う様子だった。
「樋口さん、相手は中々の手練れです」
「そう思うかい」
真剣さが混じる口調で言う日奈に、樋口はいつもの調子で返していた。
「これは個人で行っているわけではなく、組織で動いている気がします。おそらく、樋口さんが事件を調査していることを快く思わない人達がいるのでしょう」
「まあ、こういう商売をしていると、そりゃあ恨みも買うけどね」
樋口は両手を横に広げた。
「まさか、呪いのかかった不気味な人形を送りつけられるとは、夢にも思わなかった」
日奈の目の前には、古い木を使ったような人形が箱の中に横たわっている。一人の人間を模してつくられ、麻の生地でつくったような服を着せられていた。全体的に人の手が細かく入っていることが感じられ、それが一層不気味だった。
表情も描かれてはいないが、誰を意図して送り主がこれを届けたかは明白だった。
箱は、事務所の入り口前に置いてあり、一番に発見したのは樋口だった。開いたまま置かれ、一目で中身が見えるようになっていた。
樋口はすぐさま、検査機器を持ち出して木の内部にあるものを調べたが、別段変わったものが含まれている様子はない。そこで、箱を部屋中央に移動させ、日奈を呼んだと言うのが、現在までの経緯だった。
「事件の進捗状況はどうなんですか」
日奈が言うと、樋口がすぐに答えた。
「もう終盤だよ。あと一歩と言うところだ」
「では——」
「そこまでの心配は要らない。本当に、君の渡してくれた御札で助かった」
ニッとした笑みを見せて樋口は言った。それでも、日奈の心配そうな表情は中々変わらない。
「何かあったら、俺に言ってくださいね。こういうときでしか、俺は樋口さんを助けられませんから」
「わかっている。当分の間は事務所に寄らず、姿を隠すよ。部下にも伝えておく」
樋口は日奈を見ると、穏やかな表情を浮かべた。
その表情は、窮地の中にあっても常日頃と変わらない、優しさに満ちたものだった。
第四章 二
闇が帳を降ろしたように、近寄って来ていた。
目をつむった感覚もない。だが、気づけば一面の闇の中に真木は一人で立っていた。
周囲を見渡しても、何もないどころか、誰もいない。
その場に立ち尽くしていると、聞き覚えのある声がしてきた。
「真木君——?」
不思議そうに言う声。間違いない。この声は落居の声、中学生のときの声だ。
目の前に、落居の後ろ姿が現われる。
長い髪に、ぱっちりとした目が印象的な顔立ち。
真木の目には、あのときの落居の姿はかなり背が低く見えていた。
落居はこちらに顔を向けたまま、何かを聞いている様子を見せた。その後、少し顔をうつむけさせる。
「そう。真木君も、あたしと同じだったんだ——。でも、もう」
落居は、顔の横側に垂れた髪を耳にかけた。
「いいの。あたしに関わると真木君まで何か言われる。ううん、真木君は人気があるから何も言われないかもしれない。でも、真木君に告白できただけで、あたしは気分的に吹っ切れたし」
落居が、急にこちらを見る。驚きに目が丸くなっていた。
「あたしを、守ってくれるの? 本当にいいの……?」
真木は、そこまで聞いて、足を一歩後ろに引いた。
間違いない。これは過去の記憶だ。
あの頃の、『マギ ルミネア』での記憶。
急にさっと腕をつかまれる。背後から伸びた腕だった。
真木は、すぐさま後ろをふり返る。
誰もいなかった空間。そこに、唐突に人間が現われていた。
長い黒髪で、ぱっちりとした目が印象的な——大人になった落居が、そこに立っていた。
「そう。好きでもないのに、あたしを守ってくれる。真木君は、いつもそう」
大人になった落居がしなだれるように、真木の首に両腕をまわす。間近で見ると、化粧の映える、芸能人のように美人な女性だった。
「頼りがいのある人間。そう思われたいんでしょ。それとも、同じ『野育ち』でも、あたしとは違うって言いたい?」
落居の顔が近づく。もう少しで相手の吐息がかかりそうなくらいだった。
真木は、とっさに声を上げる。早く、この場を離れたかった。
「やめろ、やめてくれ! 落居は、こんなことしないし、言わなかった。俺の記憶を書き換えようとするのは止めてくれ!」
必死の思いで落居を引き離すと、彼女の腕の力が弱まる。
一瞬、落雷のように辺りが真っ白になる。真木は、すぐさま後ろをふり返った。誰かが背後にいる。そんな気配がしたからだった。
だが、背後には誰もいない。その上、いつの間にか、落居の姿もなくなっていた。
真木の後ろには、見たこともない風景が広がっている。
葉の付いてない、焼け焦げた木々が何本も続き、平坦な土地が水平線まで見えていた。辺り一面、火事があったかのように焼野原だった。
「ここは……」
周囲を見渡しても、人影はない。真木以外に生き物の姿は、全く見えなかった。
それどころか、生命の息吹さえも感じられない。
空は黒く曇っていて、一条の陽光をも目にすることはかなわない。
雲の多い空を見ていると、心理的にも気が滅入りそうなほどだった。
「また会ったね、真木君」
突然の人の声に、真木は音のあった方に顔を向けた。
焼け焦げた木の上。そこに、チェシャ猫が座り込んでいる。枝の上に横座りしながら、こちらを見ていた。
「チェシャ猫、君は——!」
「ここは夢かな? それとも夢ではないのかな?」
歌うようにチェシャ猫は言う。
真木には、何とも答えようがなかった。だが、先ほどの落居の姿から察するに、彼女が落居の姿を使って精神的な攻撃を加えてきたのは明白だった。
「俺の記憶を使って、一体、何がしたい——」
「それは、どう見ても明らかでしょう。あたしはね、真木君。君のことが許せないんだよ。どうして事件を探るようなことをしたの」
「それは——」
真木は、ぐっと奥歯を嚙み締めた。苦々しい思いでチェシャ猫を見つめる。
「当然だろう。『マギ ルミネア』、すべてはあの学校に関係している。俺にしかできないことがあれば、俺はただ、実行するだけだ」
チェシャ猫はわからない、と言った風に両手を広げ、首を少し左右に振った。
「ナンセンス。理解できない。そんなことを言えるということは、真木君には罪悪感の欠片もないと判断する」
「何のことについてだ」
噛みつくように言う真木に、チェシャ猫は何も答えなかった。
いつの間にか、うっすらとした微笑みを浮かべている。
「だからね、真木君にはお別れを言いたい。ここで、いろんな思いと一緒に」
耳障りなザァッとした音が、どこからともなく聞こえる。
真木は周囲を見回した。
「——何の音だ?」
耳をすましていても何の音か、よくわからなかった。砂が大量に落ちる音に近いような気がしたが、視界には砂浜など見えなかった。
「真木君、泳ぐのは好き?」
チェシャ猫が嬉しそうに言った。
何の話かと、訝しげに真木は思う。その直後だった。
足に急激な衝撃が背後からあり、真木は前によろけた。
地面に手をつこうと、手で支えようとした。だが——。
急に背中を後ろから押される。ごぼっと、気泡が視界の横を通り過ぎて行った。
真木は、目の前に広がっている光景に信じられない思いだった。
そこは海の中で、魚もなく、珊瑚もなく、ただ、底なしの闇が奥に続いている。海の中に投下された記憶はない。先ほどまで、真木は地面の上に立っていた。水など、辺りには少しも見えなかったはずだ。
なのに、今、自分は海の中に十分な酸素もなく、沈んでいる。
ごぼっと、また空気が口の端からもれて、海上へと上がっていく。
海面までは三、四メートルはあった。泳いで上がれない距離ではない。だが、服を着たままだけではない、手を容易に動かせないほどの重みが体にかかっていた。
気泡が、また口から海上へと上がっていく。
息ができなかった。体も良くは動かせない。
死ぬ——。息苦しさに真木はもがいた。必死で、海面へと上がろうとする。
だが、次第に視界は薄れ、闇に覆われていく。
助けてくれ。声を出そうにも、苦しさの中、言葉すら紡ぐことはできなかった。
助けて、くれ——。
薄れゆく意識の中、真木が思い出したのは、吊り橋のそばにいた母親の姿だった。
海面のそばに立ち、水中をのぞきこむように、その人物はしゃがみこんだ。
涙のプール。
『アリスの不思議な世界』で、アリスが飲み込まれる場面とそっくりだった。
流した涙に比例した量の、涙の海。
その中に呆気なく沈んで行った真木の姿を見ると、チェシャ猫の心の中には、退屈な気持ちばかりがあふれかえった。
「あーあ、つまんないの。まさか、あんな風に沈んで行っちゃうなんて。少しは抵抗してくれるかと思ったのに」
チェシャ猫は立ち上がり、肩の上に乗った髪を後ろに払った。
「まあ、いっか。あたしにくらべたら、あのくらい——。ううん、もっと重い罰でも、くらべものにならない」
頬を人差し指でかいて、弾むような声でチェシャ猫は言う。
「これからは、どうしよう? ああ、そうだ。あの小うるさい探偵を探し出したら、涙のプールに沈めて——」
「そんなことは、させない」
ふいに、チェシャ猫の右肩に力がかかった。
さっと、彼女は顔だけでふり返った。
そこには、ずぶ濡れのまま、真木が立っている。表情には、決意がみなぎっていた。
「そんなことは、絶対にさせない。教えてくれ、一体、何でこんなことをするんだ」
「離して。そんなこと、あなたに関係ないでしょ」
キッと睨みつけて、チェシャ猫は言った。
「どうやって戻ってきたの。あのまま、おぼれていたはずだったのに」
真木の表情が一瞬だけ穏やかなものになった。
「子どもの頃から、死後の世界を夢に見たことがあったんだ。そこでは、境界の目印として、桜と夏みかんの木があった。だが、君の言う涙のプールには、境を意味する目印が全くない。ここは夢ではないかもしれないけど、それでも、夢と似ている部分が多くある。目印がないのならば、引き込まれる恐れもないと言うことだよ」
あっ、と声を上げてチェシャ猫は顔をこわばらせた。そのまま、真木の顔から目を離せないでいる。
ふと、真木の目に優しげな光がよぎった。
「やっぱり——君は子どもじゃない。子どもがする目つきや表情をしていないと、思っていたんだ」
真木を見上げ、チェシャ猫は苦々しい顔で言った。
「何のこと?」
「いいか、君は大人だ」
目線を下げるために、真木は地面にしゃがみこんだ。
チェシャ猫の両肩に手を置いて言う。
「俺は今まで絵を描いてきたから、わかる。君は子どもの目なんか、まったくしていない。大人の目をしているんだ。教えてくれ、何でこんなことを——君の名前を教えてくれ」
「あたしの……名前?」
「そう、君の本当の名前」
その瞬間、チェシャ猫は激痛に耐えるように、顔をしかめた。なぜか辺りを見渡し、何者かの姿を求めているようにも見えた。
「どうしたんだ」
真木が、チェシャ猫の肩から手を離す。ただ、彼女は怯えたような表情で周囲を見回した。片方の耳に手を当てる。
「名前、名前……何で、そんなこと。止めて、話しかけるのは。名前が、一体、どうしたって——」
「チェシャ猫?」
呼びかけるように真木が言った。だが、当のチェシャ猫は何も聞いていない素振りで、独り言を言っていた。
「違う違う。あたしは、ずっと子どものまま。こんな未来は違う。守護霊さまが言っていた未来と全然違う——」
「落ち着いて。誰も、そこにはいない。存在していない人と、話をするのは今すぐに止めるんだ」
「違う、これは、あの忌々しいウンディーネが! それか、ニンフたちのせい! あたしのせいじゃない。あたしのせいじゃ——」
「チェシャ猫!」
真木は落ち着かせようと声を上げた。だが、一瞬後に、チェシャ猫の体は急速に、引きずられるように四方からやって来た波に巻き取られる。
「チェシャ猫、手を!」
彼女の手を取ろうと、真木は右手を伸ばした。
だが、何もかも遅く、水流が一気に彼女の体を押し流し、水の中へチェシャ猫の体は落ちていく。
何もできないまま、真木は彼女に必死に呼びかけた。
「チェシャ猫! チェシャ猫、早くこっちに!」
どこかで、『真木君』と言う小さな声を聞いた気がしたが、潮が引くように辺りは闇に染まっていき、生命を感じさせるもの一切が視界から消え去っていた。