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09/挑戦は、しばしば滑稽に映るものだ
ツイッターで#いぐちの1日1ポエムと称して、日々の気付きを投稿しています。その「ポエム」の意図などを、備忘録的な意味と、共感してくださるひとがいたらいいな、という目的で書き残していきます。はじめたきっかけなどはこちら
つよい決意を持って、なにか新しいことに立ち向かう。チャレンジする。そこにはどんな秘めた想いがあるだろうか。温めつづけたアイデアだろうか。その行動がなにであれ、たぶんすごく勇気をふりしぼってはじめるのだと思う。
なのに、それは、まわりの人に滑稽に映ることがある。
決意の行動はときに、ひとには滑稽に見える #いぐちの1日1ポエム
— 井口陽介(いぐち)/クリエイティブのひと (@toysleft) February 27, 2020
この現象って、たぶん身近な人に顕著で、いつも通りのその人じゃないことが、なんか滑稽に見えるんじゃないかと思うのです。まわりの人たちも、けっして笑いものにしたいわけではない。足をひっぱりたいわけでもない。ただただ違和感が滑稽さとして目に映ってしまう。
さもありなん、と思う。
勇気を振り絞ってやるそのチャレンジは、たぶんいままでのじぶんからは大きく逸脱しているだろう。だからこそ覚悟がいるし、勇気がいる。それがチャレンジたるゆえんだ。いままでのじぶんとの決別なのかもしれない。
必死であればあるほど、いままでとの相違はより顕在化し、チャレンジが大きいほどにそれは目立ち、滑稽さとして映る。
意外にも、じぶんのもっとも身近なファーストコミュニティよりも、そのもうひとつ外側にあるセカンドコミュニティのほうが、そのチャレンジを評価してくれたり、意義を理解をしてもらえることが多いように思う。
よく知らない、ということは、ときにちょうどいいリスペクトを生むのかもしれない。
おわりに
そしてそれはいつか逆向きのベクトルになり、ファーストコミュニティに向かって影響を及ぼすと信じている。そうであってほしい。ほんとうに意義のあるものであれば、必ずいつか評価されうる。なぜならいちばんの仲間たちは、いちばん心配性で、いちばんの理解者のはずだから。
そんな正の影響が、起きることを信じて、続けることしかできない。