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やっぱりぼくは感情の人間だから
この記事は、ぼくがstand.fmで配信している音声コンテンツを書き起こし、修正・編集したものになります。音声配信もぜひ
こんにちわ、こんばんわ。井口です。
今回も以前のツイートを深掘りして行きます。
感情を否定し、理性を称賛し、それでもやっぱり感情に引きずられ、大きい声で、泣いたり笑ったりしながら、いつからかじぶんってこうだなってわかるようになってきた#いぐちの1日1ポエム
— いぐち | デザインと言語化とゲーム🎮 (@toysleft) September 16, 2020
ロジカルでありたかった
以前のぼく、若かりし大学時代ですが、ぼくはとてもロジカルでありたい、という欲求がすごく大きくありました。
理性こそすべて。説明のつかない、コントロールできない感情や感性なんてくそくらえだ!ぐらいに思っていました。
でも生きていくなかで、実は、じぶん自身はとても感情の生き物であると気づいたんです。逆に言えば、ロジカルにすごく自分を律して生きることはできなかったんですね。
理性的に生きようとしたところで、その程度の人間なわけです。限界がある。
そう気づいたときにときに、「理性的であることが重要であり、感情的・感覚的であることは悪いことである」となっていることは結構しんどかったんですよ。
感情的であることを許す
ただその後、そういう感覚的な部分を持った人たちとの出会いが多かったりして、それがまたすごく刺激的でした。説明できるようなことばっかりやってても面白くないよね、なみたいな。
もともとの「理性的でありたい」という希望に対して、それは叶うことがなく、じつは「感情の生き物であったじぶん」を守るための、カウンター的な考え方なんだとは思うんです。
でもそんな価値感の変化を経て、やっと感情的なじぶんを認めてあげれるようになりました。かなり生きやすくなったなって思います。
感性とロジカルのゆりかご
とはいえ元々、今でもそうなんだけど、「なんでなんで」って理由を求める性格ではあるんですよね。ほんとうにロジカルなひとには到底かなわないんですけど、ある程度それを求める力はあるようです。
ぼくのわずかに残るロジカルさというのはここに源泉があります。「なぜ?」と出てきたこたえに対して、それはさらに「なぜ?」って、こうずっと重ねていく。これを積み上げていくとロジックになるんですよね。
こうして、ある程度ロジックのようなものができたうえで、感性や感覚を大事にするような思考をしているようです。いったり来たりしている。
結局ね、ロジカルに考えて理詰めで作っても面白くなかったり心動かされなかったら意味ないわけです。そういう意味で「感性」っていうのはとてもだいじです。だから「感情で人って動いてるよね。少なくともぼくは動いてるな」って思ったのは、すごく大きかったなって思います。
感性をだいじにすると生きやすくなった
そう気づいてから、デザインの際にも、「こういうとき、人ってどう感じれば購入してくれるのかな」とか、「このタイミングで、○○っていう感情を起こすのはどうかな」とか、そういう【感情】のニュアンスを求めるようになったんですよね。
広告を見たときに、それを説明できる、言葉にすることも大事やけど、感覚として表現することも大切にする。
それもまぁ言葉にはしてるんだけど、感覚として表現するっていうのをやるようになって、ちょっと見える世界が変わってきたような気がします。
自分ができないことを、できるんじゃないかって肩肘はって生きるよりは、いまの自分が好きと思うものを好きと言って、(ぼくは若かったから無理してたわけだけど)、嫌いなものは嫌いと明言できないまでも、うまく避けながらやっていくようになって、ぼくは幸福度が上がったなって思っています。
なので、ぼくはそういう生き方をすすめてるし、デザインにおいても、イヤイヤながらにやっても絶対いいものは作れないと感じてます。
負荷をかける努力はする必要あるけれども、どうしても嫌な事はしなくてもいいとぼくは思うんです。そういう側面からでも、自分の感性、感覚、感情を大切にしてあげるのが大事だなって思っているのです。
ー<いぐちMHzはこちらから>ー