21/他人の決断の奴隷にならない
ツイッターで#いぐちの1日1ポエムと称して、日々の気付きを投稿しています。その「ポエム」の意図などを、備忘録的な意味と、共感してくださるひとがいたらいいな、という目的で書き残していきます。はじめたきっかけなどはこちら
決断という行動は、それがどんなことであれ、ぼくたちが持つ数少ない自由です。
人生は決断の連続で作られていく
今日なに着る?
今日なに食べる?
今日どこ行く?
まいにちいろいろな決断をしながら、ぼくたちは日々を過ごしています。決断こそ、みずからの意思表示。こうしたい。ああしたい。そういった想いの結晶こそ決断だと言えるでしょう。
つまり、じぶんの人生とは、じぶんの決断の連続で紡がれるもので、またそうであるべきだ、とぼくは考えています。
決断を他人に委ねてしまう
ところが、ときどき、ぼくたちはその決断するチャンスを手放してしまうっことがあります。
「これどうしよう?どうしたらいい?」
なんていうふうに、だれにだって迷いはたくさんあります。だれかにアドバイスを求め、それを参考にすることもあるでしょう。
でも「□□さんが言ったから」っていう決断をしてませんか?もらったアドバイスを決断の根拠にしてしまうことありませんか?ぼくはあります。
でも、いちど決断を他人に委ねてしまうと、そこから派生するあらゆる結果を受け止めることができなくなります。
それはよい結果でもわるい結果もそうなのです。心のどこかで「□□さん」の手柄だってわかってしまうのでしょう。
お仕事も決断の連続
プライベートなことであれば、この決断のたいせつさはわかりやすいのですが、意外とお仕事になると、決断を避けてしまうことがあったりします。
「これどうしたらいいですかね?」
こうやって上長やクライアントに聞いてしまうことないですか?きっと相手は、ふむふむなんて素直なやつだ!なんて思いながら、「こうしたらいいよ」「こうしていただけると助かります」なんて具体的なアドバイスをしてくださいます。
でもこれって大きな落とし穴なんです。以降あらゆることが、この決断を元に行われる。「決断の権利」がその相手に移ってしまっているのです。
たとえばですが、
「この部分の色は赤と青どちらがいいですか?」
と決断を委ね、「赤」を選んでもらったとします。
そうすると、もし今後この「赤」を変更したい場合、その決断者の意向を無視して進めることが難しくなります。これは良くも悪くも、「じぶんの判断でないものをないがしろにする傲慢さ」を持つ人は少ないからです。
こうして以降の口癖は「やってみましたがいかがですか?」になってしまう。
ぼくはこの現象を「他人の決断の奴隷」と呼んでいます。
決断は、責任を取るひとの特権か?
でも決断は責任がないと難しい。そう考える方が多いと思います。「えー、じぶんではちょっと決められないなぁ」なんて。でも本当にそうでしょうか?
これはみなさんが、決断と責任がセットだと勘違いしているのです。
仕事における決断は、おおよその場合、実行までの間に「承認」が必要になります。この決断と実行までのスペース、つまり「承認」を行う人こそが責任を取るのです。それは部長なのか社長なのか。はたまたクライアントなのか。
そうでないと、商品が売れる売れないの責任を代理店や制作会社が負うことになってしまいますよね。
だから、ある意味守られている状況であるわたしたちだからこそ、この決断をできるだけじぶんで、じぶんたちで行う。どれを選ばれても納得できる選択肢だけを用意する努力をする。それが両者にとっての誠実さだと思うのです。
そうしないと他人が決断した時点で、その仕事は、本質的にはじぶんの手から離れてしまうのです。本気になれなくなるのです。
思考停止こそがいちばんの敵
商流的に抗えないことがあることはもちろんあります。上長が事前の確認を求めてくる、そんなこともあると思います。
でもそういった状況で思考停止し、お伺いを立てるのがお作法だ、となることが一番よくない。本気の仕事ができなくなります。
おわりに
ケンカしろとか、上司やクライアントに食ってかかれ!と煽っているわけではないです。
本当にじぶんで決めることができないか?ほんとうにお伺いを立てる必要があるか?そう立ち止まることが大切だというお話でした。