19/「期待」という、わがままについて
ツイッターで#いぐちの1日1ポエムと称して、日々の気付きを投稿しています。その「ポエム」の意図などを、備忘録的な意味と、共感してくださるひとがいたらいいな、という目的で書き残していきます。はじめたきっかけなどはこちら
これはビジネスの取引とはちがう場面で、たびたび起こる問題です。こちらがつごうのよい解釈、期待をして、ほかの人とすれちがうことがよくあります。
誠に勝手ながら「がっかり」したりしてる
対象がぼくが思ったとおりの行動をしないことに、なんかがっかりする。そしてそれをぼくたちは「期待どおりでないな」とかなんとかいって、えらそうに評価したりするわけです。
たしかに「期待どおりでない」は、ぼくの中にかぎっては事実ですが、それを評価することは、もう、傲慢であり不遜です。
そもそも、その対象がぼくの期待にこたえてあげる義務なんてないのです。その人はその人の人生を精一杯に生きている。(繰り返しますがビジネスにおける金銭が発生するような取引は別です)
他人は他人という当たりまえ
だからぼくたちは、まずその「他人はぼくのために生きていない」という当たりまえに立ったコミュニケーションをしなければなりません。
相手はこちらの無言の意図なんて汲み取ってくれない、相手はやりたいようにやるし好きなようにふるまうんだ。そう考えれば、こちらの意図や期待することを、事前にしっかり明確にしようとするはず。きっとコミュニケーションの精度・密度が上がります。
期待とはじぶん勝手な感情である
「期待」とは、まるで「信頼」に近い感情で、なんかポジティブな響きすらあります。「期待してるよー」なんてかるく言っちゃいますよね。
しかしその実際は、とてもじぶん勝手な感情です。対象の存在があまり関与しない、じぶんだけで完結する感情であり行動です。
期待は、結果を度外視する、見返りを求めない限りにおいてはポジティブですが、それらを求めだすと、期待する側の責任も求められると理解すべきです。
改善点を自らの中に見つけよ
だからこそ期待するより信頼する。信頼はすべてを相手に委ねる性質があります。心から信頼できれば、結果がどうあれ納得できるものですし、そうである必要があります。
もしその結果が「期待どおりでない」「がっかりする」のであれば、それは信頼するのではなく、確かなコミュニケーションをもって正しく「依頼」するものであったと理解すべきです。勝手に人のせいにしないことです。
おわりに
「期待はずれ」が起こったのなら、その相手に原因を求めるんじゃなく、どこにコミュニケーション・ロスがあったのか、こちら側の改善点を探るべきです。
それが「他人が、他人の人生を歩んでいること」を認めることであり、同時に、このじぶんが影響しうることだけに集中することが、「わたしがわたし自身のために生きてゆく」ということを実現する唯一の方法なのです。