システムを内包するアートをどう捉えるべきか問題
前回の記事は実際の着想のところから話したせいか、内容がふわふわしてしまった。改めて書き直してみる。
我々がアートを鑑賞すると言う時、基本的に作品、つまり何かしらのモノを鑑賞することになる。このモノは作者が制作している。作者が制作する、ということは作者が判断してモノを作っている、作者の責任によって作られ、作者の責任によってそこに存在している、ということだ。
しかし、一部の作品、とりわけメディアアートにおいては必ずしもそうでない作品があるように思う。作者がシステムを作り、システム自体が判断をしてモノを作り出す場合だ。システム自体も作品の一部として展示していれば良いのだが、そうでない場合も多分にある。また、展示されていてもインターフェースが与えられておらず、ほぼ鑑賞者からは観測不可能になっているケースもある。AIを使ったアートなどはまさにこれにあたる。
『でも画家が特殊な絵筆作ってても絵筆はわざわざ展示しないじゃん。システムだって一緒じゃん。』という反論も予想される。ただ、自分は『システム』と『絵筆』は明確に異なっているという認識を持っている。絵筆は作者の身体の延長である。判断は利用自体の可否も含め、その一切を作者に依存する。完全な主従関係だ。右手を使って描くか左手を使って描くか、のような話と同じレベルだ。
一方、システムの場合はそうではない。システムは判断を委任されている。システムは作者に委譲された裁量を持つ。当然、システムがしていることは作者の意識に登らない。判断を行わない。あえて言うならシステムを作ると言う判断、委任自体が判断だ。システムはテクノロジーを使わないものも多い。
例えば民主主義。民主主義のシステムに我々は判断を委任してるが、身体の延長とはいかないだろう。また、我々の持つ無意識も最も身近なシステムだ。無意識の所作を制御することは意識しない限り不可能だ。つまり無意識というシステムは無意識のままコントロールはできない。あるのは権限の委譲や剥奪のみだ。なので絵筆とシステムは異なる存在だ。
つまり、システムを作ったメディアアートは、展示されているモノとしては『作者とシステムの共作』となっている。これは作品の価値としてはどうなんだろうか。アートはアーティストが作るものだとすると、作者はアーティストだとして、このシステムもアーティストなのだろうか。当たり前だがシステムは作品のテーマを理解しない、与えられたインプットを機械的に処理してアウトプットするだけである。システムと共同で作品を作ることがコンセプトやフレームの再定義が重要な今日の現代アートにおいてどれだけ価値のある行為なのだろうか。
こういった思考の結果、自分は最近、メディアアートは現代アートやスペキュラティブなプロダクトとは根本的に食い合わせが悪いのではないか、という仮説を持っている。勿論全てではない。
例えばシステムを作ったメディアアートでもユーザインタラクションに重きを置いているものは鑑賞者の身体を延長するためのシステムであり作品であるうえ、システムのインターフェースも十分に提供しているように思われる。
ただし、基本的にテクノロジーを利用したシステムはそれ自体が問題となりやすく、作品のコンセプトと異なる方向で自己主張を始めるように思えてしまう。少なくとも自分からは現代アートたろうとしているメディアアートはコンセプトが二つあるキメラのような存在に見える。手段がコンセプトや伝えたいことを補強していないのだ。
追記
この手の類の考えを扱った書籍を見たことがないため、参考文献も一切ない文章を書いてしまったが、メディアについて勉強すると何かしらヒントが得られそうだ。今後の課題だ。おすすめの本があれば是非教えて欲しい。