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日本史 / 月読命と出雲族の謎

こんにちは、TOYOです。
古代日本に渡来し、巨大な勢力を持って日本を治めたとされる「天孫族」「月読命」「出雲族」。
彼らは一体何者だったのでしょうか?

今回は、「月読命」と「出雲族」の謎について考察していきたいと思います。
「天孫族」については、また別の機会に考察したいと思います。


古代日本の3大勢力

まず初めに、かつて日本には巨大な3つの勢力がありました。
それは、天孫族である「アマテラス族ヤマト王朝)」、
もうひとつは「古代出雲王朝」、そして「秦一族・ツクヨミ王朝」です。

「秦一族・ツクヨミ王朝」は、海洋民族であり、奈良の盆地と阿蘇、霧島、高千穂までの辺りで力を持っていた勢力。
「古代出雲王朝」は、その反対側(裏側)の地域で大きな勢力を持っていました。

この2つの王朝が手を取り合うために、出雲王朝の「素戔嗚 (すさのお) 」という王に秦一族から「神大市比売 (かみおおいちひめ) 」という女性が嫁ぎます。
そして、スサノオとの間に2人の子供ができます。
大年神 (おおとしかみ) 」と「宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) 」です。
宇迦之御魂神は伏見稲荷神社の御祭神です。

大きな勢力が九州にあったことが大和朝廷側、つまり「アマテラス」にも知れ渡っていました。
そのために、まず婚姻関係を作るか、政略するか、攻めて西海に出るかという思惑があったと思われます。

この3つの勢力、「アマテラス」「スサノオ」「ツクヨミ」という神を藤原不比等が「古事記」と「日本書紀」に編纂したというわけです。

沖縄、つまり太陽側である南から登ってきたのが「アマテラス」と解釈できます。

秦氏は月読命(月氏)一族

インド北部・大月氏

三大勢力の一つ、「月読命 (ツクヨミ) 」とは一体何者だったのでしょうか?

ツクヨミは「月弓 (ゆづき) 」とも書かれているとおり、「月氏 (げっし) 」と呼ばれていた遊牧民でした。
王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺(現在のインド北部)へ逃れて「大月氏 (だいげっし) 」となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって「小月氏 (しょうげっし) 」となりました。

※イシク湖周辺に逃れてきた月氏の残党「大月氏」は、もともとそこにいた塞族の王を駆逐してその地に居座ったようです。
「釈迦一族」もこの大月氏出身です。

このツクヨミ系の月氏族が「秦氏 (はたうじ/はたし) 」です。

第73世武内宿禰を継いだ竹内睦泰さんによると、「かつて日本を出たツクヨミの支族は、ユダヤ人と呼ばれる存在となり、その一部は秦氏という名前で日本に戻ってきている」と語っています。

『正統竹内文書』では、古代日本は「大和族」「出雲族」「ユダヤ(秦氏)」の三部族が融合して出来た国だと伝えています。


三つ巴紋と三つ葉葵紋

三つ巴紋や三つ葉葵紋も、それら三部族を表しており、それぞれ「アマテラス」「スサノオ」「ツクヨミ」とも言い換えられます。

「ツクヨミ」の支族は日本列島を出て世界中に散らばり、その中の一部はユダヤ人となり、失われた10支族の一部として東を目指し、秦氏となった後、日本に戻ってきたということになります。

「出雲」の語源

島根県・美郷町

出雲国は、かつて「出芽の国 (いずめのくに) 」と呼ばれていました。
後にこの発音は変化し、「出雲の国 (いずものくに) 」となったと言われています。

しかし、出雲 (いずも) の語源がもし日本語ではなく、ヘブライ語だったとしたら、また違った意味となります。
ヘブライ語では濁点が取れて「イツモ」となり、これは「先頭」「最先端」「最果て」といった意味になります。

そうすると、ここから推測できることは、ユダヤから先頭として先にやって来たグループが「出雲族 (いずもぞく) 」になった可能性もあります。

素戔嗚 (スサノオ) 

素戔嗚 (スサノオ)

天を治める「天照大神」、月と冥界の支配者「月読命 (ツクヨミ) 」と並び、大海を守護する神として誕生したのが「素戔嗚 (スサノオ) 」。

『記紀神話 (ききしんわ) 』では、最初に出雲に来たのは「スサノオ」です。
秦氏も渡来人ですが、出雲族・国津神スサノオは秦氏以前(紀元前)に日本に来ています。

スサノオはヤマタノオロチを退治し、現地の娘の「櫛名田比売 (くしなだひめ) 」と結婚します。
二人の間に出来た娘の「須勢理姫 (すせりびめ) 」と結婚したのが、「大国主 (おおくにぬし) 」です。

大国主は婿養子であって、スサノオとは別の民族と考えられます。
大国主の「富家 (とみけ) 」は、インドの州であるクナ国から来た「ドラヴィダ族」といわれています。
スサノオは、失われた10支族である本当の「出雲族」となります。

※天孫族であるスサノオは天照大神の弟であり、同族です。

出雲王朝

奈良・大名持神社

この出雲の国の王は「大名持 (おおなもち) 」と呼ばれ、初代大名持は「八耳王 (やつみみおう) 」という人物でした。
この八耳王には「稲田姫」という妃と、2人の皇子がいました。
この2人の皇子に出雲の国の東西の領地を与え、それぞれ「出雲東西王家」として、「二王制」の統治国家が成立しました。

東の王家は「富家 (とみけ) 」、西の王家は「郷戸家 (ごうどけ) 」という王家で、この2つの王家が出雲王国を統治しました。

両家の当主のうち年長者は主王の役職である「大名持 (おおなもち) 」の称号を冠し、若いものは副王の称号である「少名彦 (すくなひこ) 」の称号を称していました。

大国主命

大国主

出雲王国は、8代目大名主「八千矛 (やちほこ) 」の時代に最盛期を迎えます。
この八千矛が「大国主 (おおくにぬし)  」と呼ばれた王でした。
大国主は "官職名" であり、本名は「ナムジ」と言います。

スサノオから国造りを受け継いだ「大国主」でしたが、「天照大神 (あまてらすおおみかみ) 」の命を受けて、天孫族の「瓊瓊杵 (ににぎ) 」に「国譲り」をしたとされています。

しかし、実際は国を譲ったのではなく、ニニギ に奪い取られたのです。
大国主の軍隊とニニギの軍隊が戦ったのですが、大国主の軍隊はニニギの圧倒的な勢力にあっさりと負けたのです。

その後、ニニギは初代天皇となる「神武天皇」を名乗りました。

味耜高彦根

長岡市・高彦根神社

大国主には息子がいました。
この息子は「味耜高彦根 (あじすきたかひこね) 」 と言われていますが、本名を「ツノミ」の言います。後の「賀茂氏 (かもうじ/かもし) 」です。
このツノミは黒い顔をしており、「八咫烏 (やたがらす) 」というあだ名で呼ばれるようになります。

このツノミの弟は「事代主命 (ことしろぬし) 」と言います。この事代主が「恵比寿 (えびす) 」様と呼ばれている人物です。

徐福

徐福

紀元前、日本に渡来したのは「徐福 (じょふく) 」でした。
徐福は、秦の始皇帝の命により、東方海上の三神山(蓬莱山)にあるという "不老不死の薬" を求めて、3000人の童男童女を引き連れて日本にやって来たとされている人物です。

徐福は秦国に滅ぼされた「(せい) 」の国の出身ですが、始皇帝と同じ「 (えい) 」の性を持ちます。つまり、秦の始皇帝とは同族です。
そして、徐福は2度目の渡来で、日本から秦国へは戻らなかったのです。

この徐福の一派もまた「出雲族」となりました。
中国の仏書である「義楚六帖 (ぎそりくじょう) 」には、富士山に徐福がやって来たこと、徐福の子孫たちが "秦氏を名乗っていた" ことが記されています。

秦国が滅びた後、秦国にいた人々もまた次々と日本に渡来してきます。
そして、これらの人々もまた「秦氏」を名乗っていたのです。
彼らはみな "イスラエル系のユダヤ人" でした。

また、この時期に大量の渡来人がやってきて、「ヤマト王権」が確立したことは間違いないようです。


最後までご覧いただき、ありがとうございます。


このブログを作成するにあたり、
哲理学作家さとうみつろう『神さまとのおしゃべり』チャンネルの
「秦氏のトップが語る日本の起源と地球の未来とは?!」
QPJ VISIONさんの「なるほど日本」
を参照させていただきました。



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