形への執着 ピチカート・ファイヴから現在まで
※この文章は以前、音楽だいすきクラブにて渋谷系特集 #2 「ピチカート・ファイヴから現在まで受け継がれてるアイコンの話」というコラムを2016年に加筆・修正した物であります。
2015年の4月に『アイドルばかりピチカート -T-Palette Records ×KONISHI yasuharu-』というアルバムが発売された。T-Palette Records所属のアイドルグループがピチカート・ファイヴの楽曲をカバーするという内容であり、小学生の頃にテレビで「東京は夜の七時」を聴いてファンになった僕は発売日にCDショップへ行き購入したのだが、その時にこんなことを思った。
「ピチカートってどんなバンドだったんだろう。」
解散してから15年以上も経っているので、若いリスナーにはピチカートがどんなバンドか分からないという人もいるかもしれない。僕も頭の中で、おしゃれミュージックの代表、渋谷系の開祖、バート・バカラックへの敬愛、ヌーヴェルバーグからの影響、制作ではなく編集するバンド、様々なキーワードが頭に出てきたのだが、ある言葉がしっくりと当てはまった。それが“形への執着”である。
ピチカートは“形”に対し異常なほどのこだわりを見せ、音楽界のそれまであった“形”を刷新してきたバンドであった。有名な話だとCDケース。それまではCDトレイは白か黒が通例であったのだが、1989年の『女王陛下のピチカート・ファイブ』にて世界で初めて透明なトレイを使い、これによりバックインレイに有効なデザインを施せるようになった。他にもPVでは自分たちの音楽の持つ華やかさやレトロな雰囲気に相違が出ないような映像づくりを徹底していた。例えば画面を敢えてモノクロにして古い時代の歌番組のパロディをやったり、時には過去の映画やドラマの動画をそのまま使用するという事もあった。そして、ピチカートが特に形への執着を見せたのがボーカル野宮真貴であった。
ピチカートを知っている方なら、誰しもが思い浮かべるのがファッションショーのモデルがそのまま歌ってる様な野宮真貴のあの衣装、髪形である。そのこだわりはライヴでも見られ、お色直しは軽く10回は超えていた。野宮真貴は時にファッションショーにモデルとして呼ばれることもあり、その際にはプロのモデルよりも短時間で着替え、なんなら早く着替える指導をモデルに行ったという逸話もある。さて、ここで考えたいのは「なぜ、野宮真貴がこれだけファッションにこだわったのか?」という事である。結論を言えば、ピチカートのメンバーであり、プロデュースを行っていた小西康陽が野宮真貴という人物を単なる「歌い手」ではなく「ポップアイコン」としたかったのではないだろうか。
ポップアイコンというと、大衆文化おけるその時代を代表する人物像のことを指し、音楽界で言うとプリンス、マイケル・ジャクソン、マドンナ、最近だとレディー・ガガもこれに当てはまる。これらのアーティストに共通する特徴の一つとして“世間の目を引くファッション”というのが挙げられ、野宮真貴もこれに当てはまる。しかし、ポップアイコンには“自分自身をコーディネートする人”と“他人にコントロールされる人”の2種類に分けられる。野宮真貴がピチカートでやった事は後者であり、完全にコントロールをしていた人物こそ小西康陽であった。そもそも、ピチカートは様式化されたロック・カルチャーへの反抗として作られたバンドであった。小西康陽はロックの「俺が、俺が」とエゴを押し付ける事へ嫌悪感を持ち「より匿名的な音楽を」という気持ちから、野宮真貴をフロントに立たせて、彼の思想を前面に出せるスタイルを作り上げた。その結果がピチカート・ファイヴだった。
さて、ここで疑問になるのが「アイドルとピチカートがやったポップアイコンは違うのか?」という事である。アイドルというのは〈自身が持つ初々しさ、可愛さを生かすというコンセプトで動かす〉のだが、ピチカートがやっていたのは〈“その人らしさ”を消して、プロデューサーのパペットとして動く〉ということを重要視していたのだと思う。そのためには衣装はもちろんのこと、小西康陽の楽曲を彼の思うがままに歌える存在が必要であった。ちなみにカラオケで歌えば分かることだが、ピチカートの曲を歌うには相当の技量が必要である。一音のズレもなく完璧に歌え、小西康陽の要求をすべて受け入れた人物。それが野宮真貴であったのだ。
さて、ここまで形への執着を見せていたピチカート・ファイヴだが、2001年3月31日、突然解散してしまう。これに関して小西康陽は
「辞め時をずっと探していたのもある/『さ・え・ら ジャポン』が今までで一番いい。じゃあ今やめなきゃ。」(2013年 川勝正幸『ポップ中毒者の手記 2(その後の約5年分)』 河出文庫 より)
と言っている。結成から16年、長いと言えば長いのかもしれないが、あまりに突然の幕引きであった。これ以降、ピチカートの残した財産は音楽界に反映され、特に彼らの“形への執着”はゼロ年代以降にある人物に引き継がれ、さらに飛躍する事になる。それが中田ヤスタカである。
中田ヤスタカがやる“自分が裏方に回りプロデュースする女性をフロントに立たせる”というやり方は音楽のジャンルは違えどピチカートと同じだったのではではないだろうか。さらに中田ヤスタカが進化させたのは声の補正技術をうまく活用した事である。先ほども書いたがアイコン化するには他者を完全コントロールしなければならないし、そのためには歌声を思うがままにできる人物じゃないと成立しない。ゼロ年代に入り音声技術が進化し、声を思うがままに操れる事に目をつけた中田ヤスタカはその技術を使い、一つのアイドルをアーティストに変えてしまった。それがPerfumeである。
Perfumeは元々、広島のアクターズスクール出身のアイドルとして活動していた。中田ヤスタカと組むようになってもしばらくは可愛さあふれるポップナンバーを歌い続けてきたが、メジャーデビューの際に近未来的な衣装に身を包み、アイドルの中で一番大事な声にロボットのごとくフィルターをかけてしまったのだ。これに関して中田ヤスタカは
『この子たちはアイドルだからアイドルソングを作ろう』みたいなおざなりな感じで、アイドル風にやっても『誰が聴くの?』ってやっぱり思ったんですよ。/そうじゃなくて『Perfumeだけの持つ価値観を作ろうよ』って思ったんです。(2007年 MARQUEE Vol.64 「capsule 中田ヤスタカの描く最新型ポップカルチャー」より)
“Perfumeだけの持つ価値観”それはアイドルの持つ可愛らしさを廃してポップアイコン化するという事であり、Perfumeはアイドルからアーティストに変化させる手段としてピチカートの方法を活用したのではないだろうか。その結果、現在では日本でドームコンサートを行えば即日完売し、大晦日の紅白歌合戦にはほぼ毎年のように出演。近年ではアメリカやイギリスなど世界各国でコンサートを行う国民的アーティストになった。そして、さらに時は進みピチカートやPerfumeのようなアーティストを誰もが作り出せる時代へとやってくる。それが初音ミクの存在である。
初音ミクはキャラクターボーカルシリーズの第一弾として2007年に登場した。当時はビジュアルと年齢、身長、体重くらいしか決められていなかった初音ミクだが、ニコニコ動画の影響もあり、その存在は瞬く間に世間へと拡散されていった。しかし、初期の頃はいわゆる萌え系の曲が多く、時にはネギを持たされて描かれる事もあった。しかし、発売元のクリプトン社が「ピアプロ」という投稿サイト開設し、キャラクター使用に関してのガイドラインを作った。さらに3DポリゴンCGツール「MikuMikuDance」ができ、これにより2次元の絵であった初音ミクは音に合わせ踊り始めたのだ。そして、supercellのサウンドコンポーザーにもなったryoがニコニコ動画に投稿した楽曲「メルト」により商業音楽としても耐えうる、高クオリティーの楽曲を作成が出来ることを証明。これにより世界中の人間がピチカートになれる権利を得たのだ。以降、初音ミクだけでなく、「○○P」といったプロデューサーにも目を向けられ始め、誰もが手軽に使え発信できるポップアイコンはここに完成した。以降、初音ミクは日本だけでなく世界でその人気は拡散され、パリ・シャトレ座で公演やレディー・ガガのオープニングアクトとしてライヴ行ったのは記憶に新しい。
中田ヤスタカ、初音ミクといったように、ピチカート・ファイブが行ってきた“形への執着”というのは後世にも伝えられているという話を進めてきた。このように考えると小西康陽がやってきたことが、いかに後の音楽界に影響したか、その重要性が分かってくる。もし、ピチカートがいなければ、小西康陽のやり方が大衆に受け入れられなかったら、初音ミクも中田ヤスタカも世に出なかったのかもしれない。
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