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私にはダウンタウンやとんねるずを批判できない

ここ数か月で、「とんねるずやダウンタウンの笑いは良くない。」という内容のツイートをよく見かける。具体的にいえば、保毛尾田保毛男の件しかり、ブラック・フェイスやベッキーのタイキックの件であるのだが、この件でテレビやとんねるず、ダウンタウンを批判する人たちを見ながら、私は胸を痛めている。

まず前提としては批判している方々の理屈はわかるし、至極真っ当な意見である。音楽ジャーナリストの柴 那典‏ 氏が『「笑ってはいけない」と「笑えない」ということ』の話の中で語っている通り、これはいじめの構造であるし、テレビを見ていた側の人間が傷ついている以上、それは咎められて然るべきである。

でも私は傷ついた立場に立って同じように批判することは出来ない。

そもそもお笑いはどこか差別的な構造をはらんでいる。以前、2017年10月12日放送「ハートネットTV」で西条昇氏がこんな事を語っていた。

 もともと、お笑いっていうのは、どこか差別的な部分っていうかな。そういうことをネタにすることが多くて、狂言なんかにも身体の不自由な方なんかが登場して、それを真似するネタとかね……そういうのもあったりして。“人の不幸は蜜の味”っていうような言葉もありますけど、それと通じる部分とかもあるのかもしれませんね〔…〕そういう問題を扱っているんだけども、誰も傷つかないようにするとか。やっぱり、そこが逆にいえば、芸人の腕の見せどころのような気もしますけどね。(土曜深夜の視聴覚室 芸人のDVDについてなんやかんやいう「お笑い評論家ほどお笑いから遠い人いないですからね」より孫引き

だから昔のバラエティーはボケたことをしたらハリセンで頭叩いたり、アツアツのおでんを無理やり食べたりすることが面白いと思えた。でもこれもまた、やりたくない事を強制的にやらされる、いわゆる「いじめの構造」である。また保毛尾田保毛男も子供の頃は笑いながら見ていたし、ボキャブラ天国で河合俊一をホモだといじり、ネタにしていたのも笑っていた。

いじめは良くない。僕自身、小、中学校の頃はイジメられていた立場の人間であるから、出来れば無くなってほしいと思う。でも僕はテレビで繰り広げられている「いじめの構造」で笑っていた。そんな笑っていた自分が「これは差別だ!ありえない!」という理論で傷ついた立場に立って同じように批判することが出来るだろうか。

ダウンタウン、とんねるずのやっている事は昔も今も変わっていない。むしろ浄化されているくらいだ。でも、こんな事を言うと

ある人は言う。「時代が変わった。」と。
ある人は言う。「自分が変わった。」と。

でもそのような言葉で今までをリセットして、バラエティを批判していいものだろうか。『いじめの構造』で今までさんざん笑っていた私たちが言葉1つで過去を清算して、手の平を返して今まで笑っていたバラエティを批判して良いのだろうか。今までそんなテレビで笑っていた私たちは断罪されない人間であるのか。

そもそもそんなテレビを作ったきたのは聴取者である、私たち自身ではないだろうか。

私は真っ当な正論を振りかざして、今のバラエティに対して批判をするツイートを見ながら、胸を痛めている。

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