
少女の性欲は有害なのか? フェミニストによる少女マンガ批判に寄せて
彼のことをいったいなんと呼んだらいいだろう? そして何から語ったらいいというのだろう?
〈彼〉は私だけをいつも見ていた。彼はつねに孤独の中にあるが、意に介すことはなく、むしろ最大の誇りとしている。彼は他人の承認など必要としていない……ただひとり私をのぞいて。
全身からオーラのように絶対の自信をたちのぼらせている彼は、この世に恐ろしいものなど何もないように見える。世界の帝王のようだ。道徳も秩序も彼には関係がない。法律なんかよりも自分が正しいのだと言わんばかりの薄笑いを口に浮かべている。
強く、気高い、この言葉が誰より似合う。
要するに彼は私に無いものをすべて持っている。何十年ものあいだ、私から片時も離れず、いつもぴったりと寄り添い、守り続ける彼の正体とは何だろう? 彼は私の内側にいるようでも、外側にもいるようでもある。それどころか、宇宙の大気すべてを満たしている気だってする。私と正反対のあの男……彼は……彼は……だからこそ私自身だ。
SNSで定期的にループしては、私をうんざりさせる話題がある。それは「少女マンガの暴力的な男」についてだ。代表格としてたびたび名前が挙がり、ほとんどパブリック・エネミーめいてやり玉に上がるのは、何といっても「花より男子」のヒーロー、道明寺だろう。DVだ、俺様モラハラ男だと、このマンガを読んだことがない人すら非難だけは聞いたことがあるのでは?
同じくやり玉に上がりがちなのが、ヒロインと教師との恋愛が題材のもの。
フェミニストと自負する人ほど、それらのキャラクターやマンガを横並びに批判する。いわく、「少女に悪影響だ」「性暴力の肯定だ」「グルーミングだ」など。
でも少し立ちどまって考えてほしい。少女には性的空想の自由はないのだろうか?
そしてそれらの批判はあたかも、少女が性的なマンガから影響を受けているからこそ、性暴力というものがこの世に発生するという倒錯した因果関係にもとづいているように思う。
DV被害は少女が「花より男子」を読むから生まれるのだろうか? そのような言い分はまず第一に被害者に自衛を強要するパターナリズムそのものであり、いわゆるvictem blaming、被害者非難という意味でセカンドレイプそのものである。
第二に、男性が暴力で女性を支配するのは、男性と男性社会の構造に問題があるから、でしかない。
そう、構造を考えてほしい! まさか少女マンガを読んで影響を受けた少女が、教師に向かって「わたしと恋愛しろ」と暴力や洗脳によって強要する、あるいは強引な俺様ドS男子が好きな少女が「わたしをレイプしろ」と男性を脅す。
そんなことがありえるだろうか?
ポルノの影響を受けた男性が女性に暴力をふるうことは悲しいことにありふれた話で大問題だが、逆などありえない。
大人の男が少女に欲情するのは異常心理であり、治療が必要だ。でも思春期の少女が大人にあこがれるのは異常なことではない。強引な異性に振り回されてしまいたいマゾヒスティックな願望は誰にあってもおかしくないもので、正常な性欲だ。
性暴力被害を防ぎたいと思うあまり、少女にばかり昔ながらの「清く・正しく・美しく」の精神性を強要するのは、そちらのほうが暴力であり、モラハラといえないだろうか? いくら少女が自衛したって、男が歪んでいれば、性暴力は起きるのに。
そしてそこには、少女たちの持つ淡い性欲も汚いものとして抑圧したいというミソジニーすら、うっすらほの見えるのは、私のうがちすぎだろうか?
お前らが色気づいて誘惑するから、男が間違いを犯すのだ……、まさかそんな差別的な思想をフェミニストの皆さんは持っていないはずだから、いまのは完全に私の言いすぎなのでしょうね。
参考までに、イギリスの団体Victem Focusが作成した「被害者非難温度チェックツール」を紹介する。

フェミニストを自称する者たちが「有害な少女マンガを読んでいることが、DVや性暴力に巻き込まれる原因だ」とするのは、このリストのうち、
専門家が、被害者が自分を責めたり、虐待や暴力を受けた原因が自分にあることを受け入れるよう促す。
専門家が、被害者の外見、身体、ライフスタイル、性生活、特徴、服装が虐待や暴力の原因であると示唆する
専門家が、加害者が被害者に危害を加えたのは、被害者が加害者を誘導した、挑発した、あるいは加害者が攻撃するように仕向けたからだと思い込んでいる
専門家が被害者に、自分自身や生活、性格、行動などを変えれば、被害を避けることができたはずだと教える
これらにあてはまり、かなり温度の高い被害者非難であることを示している。マンガよりもよほど暴力的ではないだろうか?
最近は女性向けのTL・BLマンガでも、「このマンガは性的同意があるから良い」「性的同意が無いからダメだ、問題だ」といった感想がよく聞かれる。
しかし、あえて問うてみたい。
女性の皆さまがた、オナニーのときの性的空想で、頭のなかでも、いちいち性的同意をとっているのでしょうか?
誰にものぞき見ができない、自分ひとりだけの神聖な庭で、それなのに「政治的に正しい空想」と「正しくない空想」がありえるのですか?
そんなにも正しくない「花より男子」は世界的な大ヒットを記録した。世界の少女たちは、道明寺を支持したのです。それをどう考えますか?
道明寺に熱狂した少女たちは、全員、愚かで頭カラッポの意識低い系の大衆? そのありのままの感性は矯正の必要があり、わたしたち正しいフェミニストが導いてやらなければならない哀れな存在なのでしょうか?
性的同意の必要性、重要性を学ばないといけないのはむしろ男性のほうだろう。
でも男性が読まないTL・BLマンガで、それをうったえて一体どうするのだろう? 私たちがエッチなマンガを読んでオナニーをするのは願望充足のためで、自分の正しさを確認するためではないはずなのに。
女のオナネタにも「性的同意」を重視する人たちは、私の頭の中など見たら、きっとショックで気絶してしまうだろう。でも性的ファンタジーというのはそういうものではないだろうか?
いままで私たち女性は、頭のなかの空想では何をされてもよかった。ちょっと強引な男子に振り回されても、壁ドンされてもよかった。でも「政治的に正しい世界」がおとずれたら、その自由はなくなるのだろうか?
それが女性解放といえるのだろうか?
人間のセクシュアリティは尊厳と分かちがたく結びついている。「将来の夢は売春婦」の連載の中で以前書いたことだ。
少女の性を守れ! と言われると皆さんはおそらく、男性から性被害を受けないよう守ることだけを連想するだろう。
しかし少女が内心でどんなオナネタを使うかの自由、性的空想の自由は、いままで全く語られてこなかった。
もう一度言う。セクシュアリティはおのおのの神聖な庭だ。それは不可侵だ。
ゲイの男性に「男なんか愛するな! 女を愛せ!」といったら、激しい性的侵犯であり、言葉そのものが性暴力だろう。
なのに、「道明寺を愛するな」は許されてしまうのだろうか? それは性的尊厳の毀損ではないのか?
ありのままの感情を抑圧されると、人はかんたんに病む。感じるままに感じることを許されず、「お前はこう考えるべき」「こう感じるべき」と、「べき」の規範を押しつけられた子ども時代を送ると、支配するかされるかの対人関係しか知らない大人になる。
大好きな少女マンガを「べきの暴力」で攻撃された少女たちが、それでもまっすぐ育ってくれることを心から願ってやまない。
私も少女だった。だから、少女たちのありのままの感性を守りたい。私たちが誰を愛するかに、正解も間違いもないと子どもたちに教えたい。
あの〈彼〉の話に戻ろう。彼はいつでも恐ろしいほど強かった、誰よりも。いつも無力感でいっぱいの、何もできない幼い私を守ってくれた。私はいつでも人から軽く見られてナメられてばかり。彼のようになりたかった。いつでも憧れの存在だった。彼のように生きられたらと願っていた。
彼はどこにもいないが、どこにでも遍在する。私たちのすぐそばに。
ページをめくればいつだってどこでだって彼に会える。漫画の中で、小説の中で、テレビの中で、雑誌の中で、映画の中で、舞台の上で。
いまでは彼の力が、全身に宿っているのを感じながら生きている。誰かに立ち向かう必要があるとき、なにかと戦う必要があるとき、私は彼そのものになっている。
私は正しくないことも、間違うことも怖くない。帝王のように不敵にほほえむ彼が私のうちにあるから。
彼はいつでも私の永遠の恋人であり、もうひとりの私、オルター・エゴである。
女の人生に男はいらない、だなんて、私は絶対に思わない。彼こそは私のすべてだから。