第17回「詐欺師の一生」
山谷で過ごしたのは二年。ホームレスから脱出し葛飾で家を得てから三年となります。
双極性障害は完全に治ってしまいました。もう精神科の薬は一錠も飲んでいません。
やめたきっかけは医者のひとことです。
「具体的な悩みは薬では解決しないよ」
こんな当たり前のことも気づかなかった自分は馬鹿だったと思います。私を苦しませていたのはいつも具体的な悩みだったのに、そんな自分を救う薬を出すべきだといつも医療に過剰な期待をしていました。
他人への期待や要求が過剰なのは、精神的に幼稚な人間に顕著な特徴です。
いつも流れ作業的に薬を出すだけの不愛想な医師だなと思っていましたが、私の人生でかかわった医師のなかで彼がいちばん優秀だったのかもしれません。
服薬していた八年半ほどはずっと副作用で体がだるく頭がぼんやり、眠くて仕方なかったので、やめたのと糖質依存を改善したのとで本当にシャッキリしました。薬はとても大量に処方されていたけど、その量を見て、私は人よりこんなにかわいそうで救いがないのだと解釈してどこか安心していたように思う。
第12回でお話ししたとおり、ホラリー占星術と出会ったことで、「自分は宇宙という巨大な共同体に属している」という、神託のような宗教的啓示を得ました。
人間は社会的動物です。共同体への帰属意識抜きに、心理的安全を得ることはできません。最小の共同体はもちろん「家族」です。
しかし、以前もお名前を出した社会学者の加藤諦三先生が述べていたことがあるのは、「共同体」と「機能集団」の違いです。
共同体のメンバーになることに資格も条件もいりません。その人がただいるだけで存在が認められます。しかし、個人に役割を求められ、所属に条件が課される、それが機能集団です。
そう考えると、共同体であるべきはずの家族という社会単位がただの機能集団となってしまっている例が、世の中にいかに多いか分かっていただけると思います。私の心の欠落は共同体の欠落でした。極限状態の人間が唐突に宗教的啓示を得ることは人類に普遍的な現象ですが、本当に幸いでした。
そして山谷において、自分の権利を勝ち取るために誰にも依存せず裸一貫で戦い、長い年月をかけて無力感を克服。ホームレス状態からふたたび住居を得るのは大変でしたが、心ある不動産屋さんにめぐり会うことができ、新居を得ることができました。
どのパズルのピースひとつ欠けても私はここまでたどりつけませんでした。
すべては必然的な宇宙の采配であると感じています。宇宙が何らかの使命を課し、彼の動かす巨大なチェスのコマとしていまこの場に指されているのが私です。
かつて心底から呪った私の境遇も、苦難も、受けた暴力も、すべてはいま私の誇りであり、強さのみなもとです。
負荷の強いトレーニングをやればやるほど筋肉がつくのと同じで、背負ってきた荷物が重ければ重いほど、私は自分でもあきれるほどに強くなってしまいました。
いまでも少しは、人目が気になるな、大切な人に嫌われたら怖いなと感じることがあります。しかし人から嫌われないことよりも大事なことを知っています。それは、宇宙から与えられた自分だけの役割をしっかりと果たすこと。世の中で自分にしかできないことをやりぬくこと。それを通して自分の力を社会貢献のために使うことです。
私には人を惹きつけるカリスマ性が、そして医者の父と元文学少女の母から受け継がせていただいた生まれつきの知能や文章力もあります。何より、普通よりほんの少しだけ過酷だった環境をサバイブして身につけた度胸があります。やられたらやり返す事の大切さを嫌というほど理解しています。
なぜ平凡な人間として生まれてくることができなかったのだろう、宇宙はなぜこんなにも大きな使命をこの私に課したのだろうと、運命のなかで悄然と立ちすくんでしまう瞬間も少なくありません。
しかしただ自分に与えられた能力を世のために活かしていく以外、私には何も眼中に無いのです。
かつての自分自身の姿だったはずなのに、いまこの地点から世の中を見渡すと、なぜ人々たちはこんなにも卑屈に、他人の顔色を伺いながら生きているのだろうとさびしい気持ちになります。
「類は友を呼ぶ」。自分自身がとても依存的で幼稚だった頃に知り合った人々はやはりそのような精神性の持ち主ばかりで、かつてはダラダラと傷をなめ合うだけの関係だったけど、もう私はけしてそれをしません。
昔の自分のようないじけた心の自己中心的な人間に出会ったとき、私はとても率直で厳しくなります。
家庭環境が悪かった人は、その人の目を見るだけでわかります。まるでこちらの心をのぞき込むかのように目を見ひらいて表情をうかがってくるのが特徴です。目の前の私に、自らの期待はずれだった親を投影し、親の愛を獲得しようとするように私の愛を獲得しようと媚びてくるのです。
そういう場面に出くわすたび、これはカルマだ、と解釈しています。
私自身がこれまでの人生で、他人に媚びて媚びて媚びまくった。人を依存先の道具としてしかとらえず、人間扱いしなかった。その過ちと大罪。だからそれが自身に返ってきているのだ、と。
体だけ大きな子どもの身から大人になった私はいまやもう若い人たちを導く立場になってしまいました。ときにはずっと年上の人間を叱咤しなければならない状況にもなることには荷の重さを感じないわけでもありません。
でもたったひとつでもパズルのピースが欠けたら、私もいまだに彼らと同じだったのです。人の愛を得るために自分にも他人にもウソをつき欺く、詐欺師として一生を終えたのでしょう。彼らは私自身です。手を焼きつつも、愛しくないわけがありません。
おそらくこれから私が人類に抱く愛は、愛という言葉の定義からも飛び越えるほどに大きなものに育っていくだろうという確信があります。
クリシェのようにくりかえし言われるのは、「精神を病む人はまじめでやさしいから」という言葉。でも私は逆だと思う。自分がどれほど多くの人のやさしさや寛容さに囲まれ、あたたかい愛に包まれていることに目を向けようとせず、いつも、
「どうして私だけがこんなに苦しいのだ」
と、私を生かしてくれる社会を恨んでばかりの、近視眼の恩知らずでした。自分をまじめだと思っていたのも、服従的かつ盲目的の勘違いです。
いま、自分がフェミニズムだと信じている自分の行いが他人から攻撃されるたびに、なぜ私はここまで自分を追い込みたがるのか、なぜ私はここまで裁かれたがるのだろうかと我ながら茫然とするときがあります。
動機の根底にあるのはいままでの罪のあがない。そして私を生かしてくれたすべての人と物事への恩返しです。
私はおそらく死ぬまで、マゾヒスティックなまでの求道者として生きると思います。
人生の意味とは何でしょうか?
ホラリー占星術の根底にあるのは決定論です。人の一生は生まれてから死ぬまであらかじめ決定ずみであり、だからこそ占星術を使っての未来予知が可能となります。
では私たちはみな宇宙の操り人形なのか? 答えはイエス。人間に自由意志がないことは量子力学など、科学の研究がすすめばすすむほど明らかになっています。
運命がすべて決定済みなら、それでも人間が生きる意味や本質とは何なのでしょうか。
私はその答えは「感じること」だと思います。
いま感じている喜びも悲しみも、すべての感情、感覚、それだけはあなただけのものです。この壮大なチェスのプレイヤーたる宇宙すら、それをあなたのかわりに感じることはできません。
感情こそが宇宙があなたに贈った報酬の果実です。苦しいことも快いことも、すべてを味わってください。
逆に言えば、感じるままに感じるのを禁じられること、それはどんなに残酷で非人間的なことでしょうか。「べき」で自他を裁く思考を捨て、自分の感情を尊重するトレーニングをはじめたとき、あなたははじめて自由になり、自立への第一歩を歩みはじめます。
さて、この連載で以前名前が出てきたラジオ番組「テレフォン人生相談」を流していたところ、介護中の父親のいつもケンカばかりという女性が、こう口にするのを耳にしました。
「私にとって父親は、世界で一番大嫌いで、世界で一番大好きな人なんです」
自らをえぐるようななんと鋭い自己分析だと感じ、そして私自身の両親に対する思いをも言い当てられたような気がして、身がすくみました。
この連載は、次回で最終回となります。
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