女殺しは自分殺し 横山茂雄『増補 聖別された肉体: オカルト人種論とナチズム』(創元社)レビュー
1 はじめに
本書をはじめて知ったのは何を見てだろう? はるか昔のことで、さっぱり思い出せない。恐らく10代の終わりだ。何やらとにかくすごい本らしい、ということだけ知って、手帳にメモしたのを覚えている。一回だけ書店で見かけたことがあるが、高価で手が出せなかった。それから20年近くたって、増補版が出ていることも知らず、図書館のオカルトコーナーで偶然の再会をした。
だけど、自分にとってはまさにいまが出会うタイミングだったと思う。当時の自分が読んだら、これは単純なオカルト批判の本だと早合点し、だからオカルトなんて怪しげなものは下らないし存在してはならないのだと鼻息を荒くしていたかもしれない。どうしてあの頃の自分はあんなにも愛に飢えて、いつも断崖にぶら下がっていたのだろう? 女なんて大嫌いで、自分も大嫌いで、男になりたかったし、自分は男なのに間違って女として生まれてしまったと思っていた。てっとり早く男と同化するために、幽霊もUFOも代替療法もまるごと否定し、男のように合理的で知的な人物を気取っていた。そうすれば男たちが女にしては賢いと誉めてくれることもわかっていた。
まるで何かにとりつかれたような情熱だった。
しかし、本書の著者の横山茂雄は、UFO現象を単純な肯定でも否定でもない立場から論じた『定本 何かが空を飛んでいる』を著した稲生平太郎でもあり、そんなシンプルな話になろうはずもない。
この本はナチズムとオカルティズムの結びつきについて、膨大な資料から考察したものである。そしてその論旨は、結論からいうと、ナチスの凶行はヒトラーというたった一人の狂人が引き起こしたものではなく、その狂気と妄執には西欧キリスト教社会に古から連綿とつらなる系譜があり、普遍性があるということだ。誰もが抑圧と投影の危険な陥穽に落ちる可能性があり、そのときオカルティズムは、なんでも望むものを映し出してくれる魔法の鏡となり、天使の微笑みで誘惑してくる。かくて無意識が私たちに復讐してくるのである。
2 アーリア人と獣人
本書は、ヒトラーと同時代人である二十世紀前半のオカルティストたちの名前が、全体を通して矢継ぎ早に繰り出されるので、ちょっとした当時の西欧オカルト紳士録のようでもある。その意図は、政権を取ったナチスがどんなに証拠隠滅とばかりにオカルティズムを否定しようが、ヒトラーやその幹部たちが濃厚にオカルティズムの影響を受けていたことの綿密な証明である。
まずは最初に2人の主な登場人物とその思想が紹介されるが、彼らの奇妙な主張はしょっぱなから先制パンチのようなインパクトだ。
彼らの名はそれぞれ自称ランツ・フォン・リーベンフェルス(本名アドルフ・ランツ)、そしてグィド・フォン・リスト。
二人の詳細なプロフィールはとりあえず措くとして、ヒトラーと同時期にウィーンを過ごした元修道士のランツは、『神聖動物学 もしくは、ソドムの猿と神々の電子についての学問』と題した本を発表する。独自の擬似語源学を駆使して古代の文献を「解読」したこの本の内容が、引用まじえて仔細に紹介される。
曰く、
…もう話が見えてきただろうか、要するに彼の主張する高等人種こそ、アーリア人種であり、獣人とは「高い場所に登ってきた」それ以外の有色人種やユダヤ人たちである。アーリア人種は単に美しく優秀であるだけでなく、彼曰く、神人そのものである。獣人を地上から根絶するとともに、アーリア人種は純粋交配によって再び神人に進化させなおせねばならぬ。完全な神人が復活したあかつきには、彼らは電気によって交接し、繁殖のために性行為をする必要も無くなるといった、さらに突飛な主張まで飛び出る。
当時のウィーンはユダヤ人が増加し、また企業家との進出がめざましく、恐怖や嫉妬による反ユダヤ主義の盛り上がりがあった。そのニーズにフィットした「神聖動物学」は人気を博し、ランツは「新聖堂騎士団」と称した秘密宗教結社まで結成する。彼は、純粋アーリア人種の美しさを示すための博物館の制作すら計画していた。彼はアーリア人種の純粋交配のためのコロニーを建設するのを夢見て、そこで一夫多妻による高等人種育成を思い描いた。そしてユダヤ人や黒人といった劣等人種を殲滅するために、彼らの去勢や奴隷化、強制労働、国外追放を提案していた。
そして、ナチスの出現する20年以上もまえに、この秘密結社は旗に鉤十字をあしらっている! しかし、鉤十字を反ユダヤ思想の象徴に結びつけたのには、実はさらに先駆者がいる。先に名前をあげた、もうひとりの主人公というべきグィド・フォン・リスト、ランツにとっては父親世代の男である。
リストはオカルティストとしてと共に、新ロマン主義の小説家としても知られる人物であり、山野を歩いてはウィーンの美しい自然を愛し、工業化によってそれが失われていくのを嘆いたという。素朴で保守的な自然賛美から始まった彼の興味は、やがて古代ゲルマン民族崇拝と、当時のウィーンに吹き荒れていた汎ゲルマン主義へと向かっていく。そして、ランツと同じように独自の言語解析を用いて、歴史家タキトゥスの『ゲルマーニア』から、古代ゲルマン民族が魔術的な秘教を信仰していたとの「証拠」を読み取り、ついには世界の主要な文明の起源はすべてアーリア人種であり、過去の世界的な偉人たち、たとえばブッダすらアーリア人種であったという誇大妄想を抱くようになる。彼はまたルーン文字とオカルティズムを結びつけたルーン・オカルティズムの元祖的存在で、鉤十字型のルーン文字を至高としてこれをアーリア人種のシンボルとした。彼の設立したリスト協会には多くのオカルティストが集まり、ヒトラーに間接的な影響も与えたのである。
代表してこの二人に例示として登場してもらったが、ナチのオカルティズムはこのように歴史上いくつも流れてきたいくつもの小さい支流が集まりあって合流し、大海となって結実したものということがわかる。
3 アーリア選民思想登場の背景
当時のヨーロッパの状況について、もう少し仔細に俯瞰してみると、まず中世にペストが猛威をふるったことから、キリスト教の権威は相当に失墜、その結果、抑圧されていた古代ギリシャやローマの文化に目を向けたルネサンスが起こり、近世がはじまる。その後も近代科学の発展も目覚ましく、地動説が証明されるわ、ダーウィンが進化論を発表するわと、時代が下るにつれキリスト教的な世界観は大きく揺るがされていった。もはや神の実在すらあやしく、人々は安心して信仰を託し身をまかせる対象を失っていた。科学の発展で文化が発展し、生活の利便性が増す一方で、すがるべき強大な存在を失った不安を埋めたのが、擬似的なダーウィニズムをまとい、科学の香りをふりかけた、新しい神というべき、「アーリア人種」だったのだろう。
(余談かもしれないが、戦後、「アーリア人種」への幻想すら打ち砕かれたキリスト教社会に、またも装いを新たにした神が出現する。それは意外なことに、なんと『宇宙人』である。ラエリアン・ムーブメントの創始者ラエルが会ったという金星人が、金髪碧眼の美しい白人、つまりアーリア人種の特徴と同じだったのは偶然ではない。
詳しくは先述の国書刊行会『定本 何かが空を飛んでいる』、またはハヤカワNF文庫『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(スーザン・クランシー箸)などを参照されたい)
4 「アメリカン・サイコ」が風刺したミソジニー
突然だが、作家ブレット・イーストン・エリスの小説『アメリカン・サイコ』を紹介させてほしい。
映画化もされて有名なこの小説は、サラリーマンである主人公のベイトマンを始め、アメリカ白人中流社会を生きる登場人物たちの身につけている持ち物のブランド名や行きつけのレストランの名前の羅列の洪水で埋め尽くされている。ほとんど小説のていを為すギリギリで、それは彼らが強迫的に執着するマッチョイズムへの痛烈な皮肉である。彼らの頭には自分が一人前の男であること、マウンティングで負けないことしかない。マッチョイズムの裏返しである彼らのホモフォビアは、端的に「ホモとの遭遇」と題された章で表現されていて、分かりやすすぎるくらいだ。
そして主人公は夜には娼婦を惨殺していき、その頻度と残酷さは物語の収斂に向けて坂道を転げ落ちるように増大していく。目を被うような残虐な人体損壊の描写がえんえんと続く。しかし、犯罪は露呈せず、彼は逮捕されない。まるで大量殺人など起こっていないかのように日常は続き、ラストラインは、高級レストラン内の看板の文言「ここからは出られません」(This is not exit)という、不気味な示唆でしめくくられる。
では、ベイトマンが殺していた娼婦はいったい何だったのか。普通に考えるのなら、彼女らこそ彼のアニマ(内的女性)だろう。人は誰しも男性性と女性性を兼ねそろえているはずだが、男性性礼賛と女性性嫌悪の世界では、自らの女性性を抑圧、いうなれば、殺して生きていくしかない。女殺しは自分殺しなのである。そしてその病理は、彼個人のものでなく、マッチョイズムに支配されたアメリカという国全体のものだ。だから登場人物たちはみな極端に匿名的な存在であり、彼はしょっちゅうお互いの名前を間違いあい、そこに個は無い。個人である前にまず彼らは何よりも、100%の「男」でいなければならない。
5 ユダヤ殺しは女殺し、女殺しは自分殺し
さて、『聖別された肉体』に戻ろう。この本には、全体をつらぬく裏のテーマというべきものがあると思う。それは当時の汎ゲルマン主義吹き荒れた時代の男たちの病的な女性蔑視と、それと呼応するかのような、男性美への執着である。
ランツが高次の純粋なアーリア人種は性交がいらなくなり電気で繁殖すると主張したのは先述のとおりである。彼はそもそも神の民と獣人の血が混淆してしまい、古代の高貴な文明が破壊されたのは、女たちが肉欲に負けて性交したせいだと断定し、ソドムの猿から女を救ってやった以上、「女とは男性の所有物だ」と言ってはばからない。
著者が附録として本書の最後にコラムのように付記してある「歪んだ性意識ーーヴァイニンガー、シュレーバー、ランツ」と題された文にも、時代精神としての女性蔑視とその裏返しのオブセッションの例として、二人の男が登場する。
ウィーンのオットー・ヴァイニンガーの当時のベストセラー『性と性格』はこのような内容である。
…「アーリア人種は男性的存在で、ユダヤ人種は女性的存在」!!
こうした当時の欧州人の激しいミソジニーと、アーリア人種への「美しさ」への奇妙な執着は、おそらく表裏一体のものであろう。
本書を読んでいてずっと不思議だったのは、彼らフェルキスト(民族至上主義者)がどうしてアーリア人種の美しさをやたら強調するのか、ということだ。
そもそも、ナチが称揚としたアーリア人種というのがなんなのか、私はこの本を読むまで、だいたい金髪碧眼で頭脳優秀という感じの知識しかなかったのだが、実際は、どこがどう優れているという論理的なものは措かれて、とにかく美しいのだから正しい、美しいんだから優れているとばかりのゴリ押しで、現代人からするといまどきイケメンアイドルすらもダンスや学歴などスキルを副次的に要求されるわけで、とにかく美しいんだからと一点張りされても置いてきぼりの気持ちになる。その金髪碧眼美貌白人へのこだわりは、フェルキッシュというよりむしろフェティッシュな欲情に思える。
本書ラストにはごていねいにも映画「ジークフリートの死」の主人公、金髪碧眼のジークフリートの筋骨隆々とした肉体美のスチル写真が掲載されている。曰く、
著者の横山は、このフェティシズムを同性愛のくくりに閉じ込めることを慎重に避けているように思う。美しいものを美しいと感じるのは男女問わず人類に普遍的な現象であるから、同性愛的感情と呼ぶのでは確かに語弊がある。
古代ギリシャ・ローマ世界では男性が美的鑑賞の対象になりえる時代だった、というよりむしろ、美とは男性に特有のものと見なされていた。本書ラストにベルリン・オリンピックの映画が登場するが、古代のオリンピックのアスリートがみな裸だったのは肉体美の鑑賞のためであったろうし、当時の神話にはアドニスやナルッキソスといった絶世の美青年が登場してはその美しさゆえの事件をつぎつぎと巻き起こしていく。
しかし、次に覇権を握るキリスト教は同性愛を罪悪とみなす。「生めよ、殖やせよ、地に満ちよ」。おそらく、最初は迫害の対象である異教だったため、構成メンバーの維持が死活問題だったのだろう。だから、繁殖に寄与しない同性愛や、獣姦、避妊、中絶、膣外射精までもが罪悪となり、その歪んだ教義はこんにちにいたるまで、女性蔑視と結びつき、女性たちを苦しめている。男もだ。
アーリア人種は神なき時代に新しい神として依存と投影の対象だっただけでなく、男が男の美しさに惹かれ、恋い焦がれる「禁断の」(しかし、普遍的な)感情の隠れみのとして機能したのだろう。
自分たちは、美しい男に欲情し、支配されたいのではない。アーリア人種は神の民であり、絶対的に正しいのだから、崇拝して当然なのだ、といった、自分の性的願望を否定し正当化する理論武装だったのではないか?
そして自分が男であるからゆえに、男に欲情してはいけないと、戒律で抑圧されればされるほど、生まれつきのままで、男に抱かれることが許されている女に激しく嫉妬する。男に欲情する女が許せなくなる。女性を汚いと感じるミソジニーは彼らの自己否定そのものである。彼らは自分自身の女性性、内的女性(アニマ)を憎んでいるからこそ、それを現実の女性に投影し、憎むのである。
ここでヴァイニンガーの主張にたちかえっていただきたい。
彼はいみじくも、白人は男性的人種であり、ユダヤ人は女性的人種と断定した。つまり、ここではアニマが女性でなく、ユダヤ人に投影されている! 厚顔無恥で非論理的、淫らで邪悪といった、男性たちが自らのうちにある「男性的でないもの、見たくないもの、認めたくないもの」は、本来女性特有のものとされ切り捨て、ゴミ箱に捨てる。今回はそれがユダヤ人種となっている。そして男たちは、鏡を切り刻むようにユダヤ人を切り刻んだ。
ユダヤ人の大量虐殺は、すなわちアニマの大量虐殺だったのだ、とすら言えないだろうか?
男たちの抑圧と自己欺瞞が中世の魔女狩りをもう一度繰り返したわけで、いかに女性性の否定が歴史的大惨事にまで発展するかわかろうというものだ。
念のため、横山が提示した、ヴァイニンガーの他のもうひとりの「サンプル」についても説明しておこう。それはフロイトが発表した「シュレーバー症例」の主役として広く知られる患者、ダニエル・パウル・シュレーバーである。
現在でいう統合失調症とおぼしき彼の妄想のひとつに、一風変わったものがある。彼は自分が女性器を持ったと思い込み、また自らの腹すら胎動を感じた! そして彼は、脱男性化して女性となった自分を主治医が性的に虐待しているとの妄想も抱いていた。彼は書く。
シュレーバーもまた、ヴァイニンガーと同じく女性をイコール性的存在と規定していた。ここでもホモフォビアによって彼の奇妙な願望を説明できる。受動的に男を受け入れ、支配され、官能の愉悦に身をよじるのは、「男」でありえるわけもなく、そのような下劣な行為も、それを願うのも、すべて女の領域である。男である自分自身がそのような願望に折り合いをつけるには、彼は自分自身を女性だと思い込むしかなかったのだろう。性的に虐待されることを夢見るマゾヒズムも、男が持っているわけもない…彼の無意識が弾き出したのが「私は女」という結論なのである。
これと同じようなねじれた論理が、昨今、フェミニズム界をにぎわすトランスジェンダリズムの問題にも通じるだろう。スカートをはきたい気持ちが男のものであるはずがない、だから体は男だが心の性別は女で、私は女性である、という、トランス女性を自称する男性たちの奇妙な論理と。
かつてナチと濃密な関係だったウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、いまだに非白人を雇用しない。
ミソジニーとホモフォビアの大河はいまでも社会を支配しつづけ、誰もが無関係ではいられなく、男たちは自己欺瞞をやめようとしていない。
6 おわりに
男性が自ら抑圧したアニマに取り憑かれて引き起こされるのが、ミソジニーやホモフォビアであるなら、女性がアニムス(内的男性)に憑かれたときに起こるのは、合理性や男性性の過剰な信奉であり、女性としての自分の否定だろう。そのとき彼女は、ヴァイニンガーが説いたように、自分を解放しようとするあまり、女性であることを克服しようとする。1章で登場したかつての私である。
何かに自分を預けることも、抑圧することもなく、大きなものにすがらないと生きていけない自分の弱さを認める。
自分自身の男性性も女性性も認め、その男女を対立させることなく、幸せに結婚させる。
神も、悪魔も、その正体は自分自身であると知る。
それを果たしたとき、オカルティズムは天使でも悪魔でもなくなる。われわれを陥れるために待ち受けている落とし穴でも、人を操るための道具でもなくなる。四角四面の科学からはこぼれおちてしまうものをすくいあげ、あなたの心をほんのわずかになぐさめ、この混迷の時代を生きるための最良の友達となってくれる。
考えてもみよう、初詣やお墓参りで手を合わせる人の営みすら、オカルトではないか。