【天気の子】結局なにを伝えたかったの?についての個人的見解
※『天気の子』の映画・小説のネタバレ内容を含みます。
他の人の感想を見ていると、
「○○がわからない。」「××で残念である。」
という言葉がいくつか見受けられました。
もったいない!めっちゃもったいない!
そう思ったので、うまく作品からのメッセージが伝わってこない人や、よくわからない部分があったという人向けに、個人的見解や私自身が感じたメッセージについて文章を書き殴りました。
普段文章を書き慣れておらず、おかしな箇所があるかもしれませんが、
ご了承ください。
映画視聴後、色んな人に見てほしいと思って、ネタバレなしの動画を作りましたが今回それとは別です。
① 初見じゃわかりにくい
昔からの新海誠監督やRADWIMPSのファンである私は、今回も超楽しみにしていましたので、7月19日0時開始の世界最速上映に行ってきました。
最初思った感想として、
「めっちゃ好き」と「初見じゃわかりにくい」でした。
私は普段ネタバレを恐れて、作品を見るまでは情報を遮断するのですが、今回に限っては、インタビュー記事を読み漁りました。だからこそ、この作品で新海監督が伝えたかったメッセージを自分なりに、より感じることができたのだと思います。
公式パンフレットにも書いていますが『天気の子』とは
調和を取り戻せない世界で、新しい何かを生み出す物語であり、
天候の調和が狂っていく時代で、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を”選択”するストーリーであるわけです。
メッセージ性がすごく強いです。
読解力が相当高い人ならまだしも、事前情報なしで普通の人が見たら、伝わらない部分があるかもしれません。
それこそメッセージ性の強い作品で、惜しくもその根幹の部分を感じることができなかった方は、この作品はつまらない。そう思ってしまうのも納得はできます。
~よく見る批判一覧~
批判① ”家出の理由や親についてなど登場人物たちの設定があいまい”
批判② ”鳥居はなんだったのか”
批判③ ”なぜ陽菜と帆高は戻れたのか”
批判④ ”行動が幼稚で主人公に好感が持てない”
批判⑤ ”拳銃が登場した理由は”
批判⑥ ”ラストがよく分からない”
上記は批判する方々がよく口にしている事。
合う合わない、好き嫌いがあるのは承知しています。でも、分からない点があって、モヤモヤしてる方はすごくもったいないと思いました。
2019年8月30日に発売される公式ビジュアルブックに作品についての解説や詳細が記載されるかもしれませんが、これらの感想に対する(あくまでも個人的な)見解を感想と共に順を追って説明します。
② 『君の名は。』との違い
やはり家計を支えている親の存在は大きいと感じました。”大人”である親の存在のおかげで『君の名は。』では、1000円以上もするパンケーキにお金が使えたりします。
一方、”子供”だけの力で生活している『天気の子』では、そんな嗜好品にお金を使う余裕もなく、ファストフードが主食になったりします。陽菜にいたっては弟のためとはいえ、水商売に走りかけるくらい、貧困が露になっていることが分かります。
ようは、生活環境が違うわけですね。
また登場人物たちの本来の家庭や過去については、ほとんど説明しません。
陽菜の母親が亡くなったことや、須賀の妻が亡くなり娘がいるという情報くらいです。
批判① ”家出の理由や親についてなど登場人物たちの設定があいまい”
まさにこれです。
先ほど出てきたこの(批判的?)感想の個人的な回答として、これらの情報をあいまいにした理由は、どこにでもいる、今を生きる人々を描きたかったからではないかと私は思います。
家出少年、親を亡くした少女、娘に会えない男性、就職活動に励む女性。
天気に翻弄されながら、みな何かを求め、現実のどこかにいる人々を本作では登場させています。
生年月日、血液型、学歴、その他の個人を形成する情報を公開すると、人物像が固定化されてしまい、その人物像が自分からかけ離れたものになってしまいます。自分とは関係ない存在であるという認識が大きく付いてしまうかもしれない。そう思いました。
さらに本作品は今年2019年に公開されましたが、作中では2021年の東京が舞台となっています。現実世界では、まだ未来の出来事なんです。
「これはあなたたちの物語ですよ。」
「あなたたちにもあり得る物語ですよ」
そう思わせたい。そんな監督の意図が読み取れませんか。
また、結局のところボーイミーツガールであり、笑いあり涙ありのストーリーで、ヒロインと離れたり再開したりし、分類も”セカイ系”と世間から呼ばれていはいますが、決定的に違うことがあります。そう、結末です。
世界を救済する選択をするのが『君の名は。』
世界を狂わせる選択をするのが『天気の子』
ということです。
ここが本作品の大きなポイントです。
③ 距離
新海監督の作品でよく使われるキーワードに”距離”というものがあります。
『君の名は。』では”生きる時間”や”都会と田舎”
『言の葉の庭』では”生徒と教師”
『秒速5センチメートル』では”人の想い”
ならば『天気の子』では何か。あえて答えるなら、
”天(彼岸)と地(此岸)”また”子供と大人”であると思います。
④ 天(彼岸)と地(此岸)
彼岸とは、あの世のことであり、本作品でいうところの天や空です。
批判② ”鳥居はなんだったのか”
これに繋がってきますが、鳥居とは、神域と人間が住む俗界を区画するものであり、神域への入口を示すもの。一種の「門」でもあるそうです。恐らく、あの鳥居は雨をつかさどる司る龍神の場所、彼岸へのゲートなのでしょう。
「龍神に晴れを願うことで、天気の巫女の力を手に入れた」
まず考えられるのが、この説ですね。
ん???
ちょっと待ってください。龍神に願うとそれは人柱の道へ一直線であり、地上にはいられないのでは?そういった疑問が出てきました。
「陽菜が天気の巫女の末裔だった」
もう一つあるのがこの説ですね。昔はどの村にも天気の巫女のような存在がいたようなので、何も不思議ではないです。
また、そこで注目したのが精霊馬と精霊牛です。あの鳥居には、お盆の時期よく見る牛や馬に見立てた、キュウリやナスが供えられていました。精霊馬や精霊牛と呼ばれるあれらは、先祖の霊が戻ってくる際、行き来するための乗り物であることは有名だと思います。
つまりあの鳥居や祠は、”誰かの先祖”を祭ったものではないか。
その誰かとは。そう、天気の巫女だと推測できないでしょうか。
(※何度も言いますが、完全に個人の考えです)
陽菜はもともと天気の巫女の力を持っていたわけではありません。
また雨型のグラスジュエリーが付いたチョーカーが怪しいと言う方がいます。風呂上りにもつけていることから、親の形見として相当大事にしていると予想できますが、陽菜に初めて力が備わったとき、チョーカーはまだ親の手ある状態でしたので、直接は関係していないと言えるでしょう。
「思わず強く願いながら、彼女は鳥居をくぐった。」
これが天気の巫女の先祖に伝わり、『君の名は。』の宮水家のような血筋かはわかりませんが、陽菜にも力を授けてもらった、もしくは天気の巫女としての役割を任せられ、空と繋がったと考えられます。
そして天気の巫女は地上で力を使うことができ、その代償として神隠しに合うと言い伝えられていました。実際には彼岸で世界と一体になり、天気を操作することになります。終盤で陽菜が消えたのはこれが原因ですね。
批判③ ”なぜ陽菜と帆高は戻れたのか”
先ほど、鳥居は彼岸へのゲートと言いました。どうやらキーは、鳥居と彼岸との移動の際に、何かを強く願うことであるようです。帆高も天へ行けたことから、この二つの世界の移動自体は天気の巫女の力ではないと思います。
しかし、帆高はまだしも陽菜が天気の巫女の力を使った後に、地上に戻ることは難しいはず。ここで帆高のセリフ。
「自分のために願って、陽菜」
今まで、地上に戻りたい気持ちより、天気を操って人々を幸せにしたい意思の方が強かったので、彼岸に囚われていました。しかし、ここで彼女は今まで誰かのためにしてきた自己犠牲を止め、自分のために生きることを強く願いました。
また、神主はこう言っています。
「天と人を結ぶ細ぉーい糸がある。それが天気の巫女だ。」
帆高は彼岸から陽菜を引きちぎったわけですね。
そう、天と人を結ぶ細い糸を、です。
そして二人は願ってしまいました。
天気なんて、狂ったままでいいんだと。生きろと。
これにより”天気を操ること”と、”人柱になること”の等価交換を不成立にしたわけですね。天気を操る意思がない者を人柱にしたら、それは等価交換にはなりません。
そうして大雨が降りだし、二人は地上に戻れたんだと思います。
その後、陽菜の力は失われ、天と人を結ぶ細い糸を切ってしまったので、
どんなに祈ろうとも、天気には何も影響されなくなりました。
⑤ ”子供”側の目線
本作品は”天と地”だけではなく”子供と大人”の距離についても語られています。(というか、こっちが本題)
東京は"大人"にとっては単なる都会ではあるが、"子供"にとって、そこは危険がいっぱいの知らない世界であり、冒険の舞台になりえる場所なんです。
そんな東京で物語が繰り広げられる中、誰かを止めようとする大人たちがいます。その大人たちは悪というわけではなく、それぞれの"正しい選択"のために動いています。
"子供だから働かせられない"
"喫煙のイメージがあるからあの子には会わせない"
"子供だけでの生活は許さない"
"もう大人になれよ"
"引き返せば分かってもらえる"
"止まりなさい"
その"正しい選択"は、人々の感情を押さえつける、待て。行くな。止まれ。許さない。というものばかりです。理屈は分かります。それが常識であることは、私も作品内の子供たちも理解しています。
しかし、本作品でいつも一歩前に足を踏み出すのは子供たちなんですね。
劇中歌である”グランドエスケープ”の歌詞にもありますが、
夢に僕らで帆を張って 来るべき日のために夜を超え
いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと 肩を組んだ
怖くないわけない でも止まんない
ピンチの先回りしたって 僕らじゃしょうがない
僕らの恋が言う 声が言う
「行け」と言う
これが本作における”子供”の気持ちを表しています。
批判④ ”行動が幼稚で主人公に好感が持てない”
批判⑤ ”拳銃が登場した理由は”
特に上記の歌詞のような傾向が強く”子供”の代表でもある帆高。確かに、帆高は他人やモノに頼ってばかりで、何の力もないただの家出少年です。彼自身も、すぐ感情的になり非力で幼稚なことには自覚があります。でも言葉が、行動が、打開策が思いつかず、自分にイライラしてしまいます。
批判⑤の理由にもつながってきますが、銃があればどんなに非力でも、武術に長けていなくても”大人”を打倒することができるようになります。
なぜ刃物ではないか。
ナイフとかだとあきらか武器であり、帆高は武器を持ち運ぶようような人ではないです。しかし、家出少年が東京で初めて手に入れた非消耗品であり、とても本物に見えるモデルガンだと思った場合、お守りの様なモノとして、少年である帆高は持っておきたくもなるでしょう。(長い棒ですら「剣」に見立てて森の中で持ち運ぶのが少年心ですからね(笑))
また、冷静に考えてあそこで銃を使うのがおかしい。そう思う気持ちはわかります。しかし、そんな冷静さが失われているくらい彼は必死であるということなんですね。たとえそれが人生を棒に振る行為だったとしても。
そんな彼を見て口にしてしまうこと。
「幼稚」「子供」「好感が持てない」「自己中心的」
これ。これなんですね。
こう思わせるように、あえてキャラを作っています。
帆高や陽菜の考えや選択に共感できる人、できない人がいます。
これが”子供”と”大人”の距離であり、
新海監督が「賛否両論になる」と言っていた理由の一つですね。
⑥ ”大人”側の目線
また、”子供”側の行動に共感できない常識人であり、多数派の選択ができる”大人”側の代表としては、小栗旬さんが演じる”須賀 圭介”という40代男性のキャラがいます。
大切な人のために大人になろう。リスクを避けよう。感情を押し殺そう。色々と犠牲にして生きている”大人”の須賀。でも、ところどころ大人げない”子供”っぽい特徴もあります。
冒頭でも、未知の雨に突き進んで自然に飲み込まれそうになる帆高を助けたり、犯罪に手を染めないよう主人公を引き留めようとします。とにかく主人公を助けるストッパー的役割として登場するキャラクターです。
空から降ってきた魚の動画を見てビジネスを考えたり、十代で家出したりと
どこか帆高も須賀と似ているところもあり、帆高は須賀の様な大人になるかもしれませんね。
須賀はアウトローだけど、常識側である大人や観客の代弁者。社会常識に従って帆高を止めようとします。しかし、亡くなった奥さん”明日花”にもう一度会えるなら、自分はどんな選択をするだろうか。そんな考えもあったのか、結局最後には帆高の味方になってくれます。
東京の人々の願いを取るか、一人の少女の命を取るかという帆高と陽菜の選択だけでなく、犯罪を重ねようとしている少年を止めるか、止めないか。この須賀の選択も新海監督が考える”賛否両論”のポイントではないかと思っています。
あと個人的に、おっ、と思ったのは警察官の”高井”ですね。見た目はヤンキー、頭脳は大人って感じのキャラでして、完全に見た目は素行の悪そうなリーゼントのヤンキーなんですが、社会常識に従って業務を全うしている姿にギャップを感じました。
彼は暴れる帆高に警棒で殴ったりしませんし、銃を構えあう帆高に「撃たせないでくれよ」と言ったりします。またこれは小説内の内容ですが、逮捕後、陽菜の健康状態に異常はなく、弟との生活が再び許されるであろうことを実はこっそり帆高に教えていました。
警察官として職務を全うしつつ、他人への優しさを持ち合わせ、自分なりの”選択”ができる人物だと思いました。
⑦ ラストシーン
最大多数の最大幸福に逆らい、一人の少女を救うことで狂ったしまった東京。あの出来事の後、帆高はその罪悪感を感じているものの、陽菜がいるから自分は”大丈夫”。そう思っていました。
「東京は元は海だった。」
「世界なんて、どうせもともと狂っていた。」
「この世界がこうなのは、誰のせいでもないんだ。」
そう陽菜にも伝えられたら…。と、他の人との会話から、どこか現実逃避めいたことを悶々と考えていたわけですね。
しかし見てしまいます。
降りしきる雨の中。傘も差さず。小さな肩に世界を乗せ。
3年経った今も、空に何かを祈っている彼女の姿を。
人々を幸せにするのが好きだった少女が、無力でただただ祈って立ち尽くしている姿を見た帆高は自覚します。
違ったんだと。最初から狂っていたわけではないと。
決定的に変えてしまったんだと。
選択してしまったんだと。
青空の東京より、陽菜が生きる世界を。
大勢の幸せより、陽菜の命を
世界がどんなかたちだろうと関係なく、ただ、ともに生きていくことを。
再開後、泣いている陽菜は帆高に「帆高っ、どうしたの?大丈夫?」と問いかけます。これに対し、帆高はこう答えます。
「僕たちは、大丈夫だ」
「僕は大丈夫」でもなく「君も大丈夫?」でもなく「僕たちは、大丈夫だ」なんですね。
僕は”大丈夫”だ。君も”大丈夫”にする。僕だけが”大丈夫”になりたいんじゃない。君を”大丈夫”にしたいんじゃない。君にとっての”大丈夫”になる。求めるだけでなく、自分で安心を与える存在になる。共に生きていきたい。だから「僕たちは、大丈夫だ」なんです。
そう気持ちがはっきりするわけです。
(ここで本当に「愛」が芽生えたんじゃないかなぁって妄想してます(笑))
批判⑥ ”ラストがよく分からない”
結局のところ、各々が感じることだとは思いますが、
小説の解説でRADWIMPSの野田さんがこう語っています。
「全ての人がそんな自分だけの「世界」をもがきながら生きている。」
「その姿を近くで誰かに見てもらえる心強さや安心感を知っている。」
「そして誰もがかけがえのない大切な人がもがく姿を見たと時、「この人の大丈夫になりたい」と願っている。」
つまり、みんな自分の世界でどんなに苦しんでもがいていても、「大丈夫」と寄り添いあえば、強く生きていけるんじゃないか。
そう伝えているように私は感じました。
⑧ 監督からのメッセージとは
『天気の子』は、混沌とした世の中で教科書や政治家、報道や批判家が語るような絶対的な”正しさ”ではなく、人に眉をひそめられてしまうような、批判を受けるような、"選択"をする若者の物語です。
『君の名は。』という大ヒット作品の次作で、なぜこのような物語にしたかですが、『君の名は。』の次作だからこそ、多くの人が見てくれる、多くの人にメッセージを届けられると思ったからだそうです。
エンタメという観点から、感動や楽しい映画にすることは考慮し、期待や収益にも気にはしますが、伝えたいメッセージを多くの人に語りかけ、見た人の意見が分かれる「賛否両論」の作品を作ろう。叱られたら、それはもう仕方ない。そんな感じで作ったそうです。(新海さん好き…)
”子供”と”大人”のどちらが正しいかはわかりません。絶対的な正しさなんてモノは存在しないのですから。
この作品は、主に今を生きる若者に問いかけています。
ある種狂った世界でどう選択し、どう生きるのかを。
⑨ おわりに
常識に抗うなんて怖くないわけがない。そんなことは分かってます。
でも、ふと考えてしまいます。
この場所から出たくて、あの光に入りたくて、必死に走る帆高のように。
誰かに呼ばれて、青空を目指して、廃ビルへ駆け出す陽菜のように。
昔感じたあの止められない、足が勝手に動く、後から考えたらいい。
怒りや憎しみではなく、ただただ純粋な気持ちで、あの輝く存在のもとへ「行け」と言う自分の声を。
今を生きる”大人”はどれだけ覚えているんでしょうね。
一度映画を見て、監督の意図を知って、さらにもう一度見ると、また違った印象や気付きがあると思います。是非劇場でもう一度見てみませんか?
長文でしたが、ここまで読んでいただきありがとうございした。
他にも夏美さんのことや、作品としてのこだわりとか語りたかったんですけど、それはインタビュー記事や、小説を買って読んでください!