石井裕也監督「月」感想
2016年障害者施設津久井やまゆり園で19人の重度障害者が殺された事件を描く映画。辺見庸の原作小説「月」を映画化したもの。
この映画はあまりいい作品ではないと思う。施設というシステムを描く以上、仕方のないことではあるが、この映画では、意志表出の困難な重度の障害当事者は、終始仕方なく山奥の施設でケアされるべき社会のお荷物というイメージでしか語られない。これまで自由意志や自己決定権を主張してきた当事者が見れば、怒りしかないだろう。この映画だけ見ていると障害者はかわいそうな存在としか受け取れない。障害者運動はそれを否定してきたわけだし、運動が主張してきた、どんなに重度だろうが意志はあるという視点をからこの事件を否定しなければいけないはずである。そういう視点が実は辺見庸の原作小説にはあるのである。原作小説は意志表出が困難な重度障害者のきーちゃん視点から自身の気持ちが語られていく。だが、映画にはまったく当事者の気持ちを当事者自身が示すという表現がない。すべてまわりの健常者の気持ちでしかない。当事者の意志とさとちゃんや周りの健常者という対称性が重要なはずなのに、映画では一番重要な当事者性が抜け落ちている。この改変がなんで?って感じがする。
そして、映画では施設が良くないことをようこをふくめた職員はなんとなく感じているようだが、どうすることもできず消耗していくだけ。施設というシステムを批判するだけでオルタナティブが示されない。現実にオルタナティブは自立生活運動というかたちで示されてきた。施設での虐待や人権侵害を経験した当事者が、運動のすえ重度障害があっても地域で介護者をつけて自立生活する制度を死にものぐるいで勝ち取ってつくってきた。なのでそうした現実を知らない観客が見れば、ただ絶望するだけだろう。そしてやっぱり障害者はかわいそうな存在だとしか思わないのではないか。それは映画としていかがなものか。作り手自身がそもそも知らないのだと思われる。
加えて、映画としては人間の描き方が他の石井作品と比較して圧倒的にレベルが低いと感じた。『生きちゃった』『茜色に焼かれる』なんかの人間の描き方が石井監督の魅力だと感じていたが。「月」はものすごく雑に感じる。さとちゃんがなぜ暴走していくのかという描写が薄すぎて、リアリティがない。介助のシーンも当事者に向き合うシーンも少なすぎる。最初は紙芝居を積極的に作るほどの職員がいきなり優性思想丸出しに豹変するのには唐突に感じた。そしてさとちゃんには、耳の聞こえない彼女がいる設定になっている。だが、耳の聞こえない彼女がずっと隣にいてパートナーとして通じ合ってともに過ごしている感受性を持った人間が、あんな事件を起こすとおもえるだろうか。その設定にも無理があると感じた。せめて彼女は健常者だろと。最後のシーンもよくわからない。夫婦お互いがとりあえず私はあなたのことが好きだと言い合って終わるのだが、肝心の出生前診断をめぐる問題にも回答が与えられずじまい。そうした問題に何かしら規範的に(そうでなくとも)回答することから逃げている印象さえ感じる終わりだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?