雑誌を買わなくなったのは、なぜだろう
みなさん、こんばんは。
今日は書籍ではなく、雑誌の話をしようと思います。かつては、私たちを夢中にさせ、そして、今では疎遠になりつつあるものの正体について。
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最近雑誌買っていますか
皆さん、雑誌買っていますか。
かくいう私は、ほとんど買っていません。美容院とか病院では、むさぼるように読んでいますが、積極的に買うことはほとんどありません。
しかし、かつては雑誌大好き人間でした。
しかも購買層の年齢・性別問わず、雑誌とあればかたっぱしから読んでいたタイプの人間です。月に何冊も自分で買い、にこにこしながら自宅で読んでいました。
次月号のタイトルと内容で、世の流れを知り、雑誌の新しい表紙がコンビニや本屋に並ぶたび、新鮮な気分でいたものです。
あんなに大好きだったものなのに、今では手に取ることも少なくなってしまった。なぜでしょうか。
雑誌不況、といわれて久しい世の中です。
なぜそういったことになったのか、と言われたら皆さんはなんと答えますか。自分の傾向を踏まえて考えてみました。
①魅力的な情報を入手する経路が他にあって、そちらの方が早い
たぶん、多くの皆さんがこれを思いつかれたのではないでしょうか。インターネットが登場して、すでに20年以上経過しました。それに加え、SNSツールにより、個人が情報を発信しやすい社会になっています。
魅力的で、よりトレンド性の高いものは、雑誌を待たずともインスタで気になる人をフォローしておけば、事足ります。特に、最近ではプロ顔負けの自己プロデュース力やセンス、能力を持っている人が多く、どうにかするとそちらの方が魅力的であったりします。
そして、雑誌は撮影されてから、3~4ヵ月後に発刊されますから、どうしてもその間に情報が古くなってしまうことが否めません。今ここで瞬発的に流行っていることは、SNSがもっとも取り上げやすいでしょう。
そういったこともあり、雑誌とは別にネットメディアを持っておいて、より細かい最新の情報発信は、そちらのメディアでカバーしている雑誌もたくさんあります。
②SNSでは、より自分のペルソナにあった情報が得られる
自分のペルソナに近い、求めている要素がある人をフォローしておけば、雑誌よりも、ずっと自分に合った情報にめぐり会える可能性が高い。
雑誌ではこのターゲットの特性が、よりマス的な志向性になっています。より多く売れる必要性があるため、読者層に当てはまりそうな人が、最大公約数で興味がありそうなトピックを選ばなくてはなりません。
その点、SNSでは最大公約数ではなく、自分が好きだと思える、憧れられる要素を持つ人をフォローしておけばいいので、より自分にフィットした情報が得られます。
雑誌がモデルではなく、読者モデルでもなく、インフルエンサーをより紙面に登場させているのも、それが理由でしょう。
③情報=無料という考え
これは、雑誌に限らないことではありますが、情報は無料であるという考えが、少なくとも日本では浸透している気がします。
コンテンツとしてレベルの高いものであっても、平気でtwitterなどで公開されているような時代です。
情報の鮮度は遅くて、より自分にフィットしていないものに、お金を出すという人が、少なくなってきているのでしょう。
④購入/所有型情報に時代が合わなくなってきている
通常、雑誌には多くの商品が登場します。それは流行のものであったり、よりおしゃれなものであったりします。読者はその情報を欲し、価格が見合えばその商品を買う、というのが今までの世の中でした。
雑誌に出てくる商品は、憧れのものでした。だからこそ、雑誌が広告としてのメディアとして成り立っていたのです。
しかし、そもそも今の世の中の流れとして、脱所有・脱購入が主流となっています。
所有することのリスクと、購買によって欲求を満たすことの限界を知っている世代なのだと思います。この傾向は、特に若い世代では顕著ではないでしょうか。
たくさん良いものを見せて、これらのものを欲しましょう、買いましょう、という構成が共感を得られにくい。良いものも、回転速度が速くてすべてについていくことができなくなっています。
もう少しいうと、購入することで幸福が得られる、という信仰が日本人の中で通用しなくなっているのだと思います。
⑤共同体という観念の崩壊
今回、この記事を書いたきっかけは、⑤について強烈に感じていたからです。そもそも、雑誌を読むのが好きだったのは、単に情報が欲しかったからではありません。自分はその向こう側にあるものを欲していました。
同じような年齢で、同じような志向性を持っている人。そういう人たちに向けて、雑誌を通じてメッセージを呼びかけているのだと思っていました。
これがすてきだよ。
こんなものを持つと、もっと人生が良くなるよ。
人生は楽しいことが待っている。
あなたと同じような気持ちでいる人は、こんなにいるよ。
この雑誌を読んでいるひとは、みんな一緒だよ。
みんな異なる、ばらばらの人生の真っ只中にいる個人に、雑誌というツールを通じて、「この雑誌を読んでいる、同じ趣向性を持つみんな」というものを見せていた気がします。
イメージの向こうに、もっと巨大なつながりを見出していました。住んでいる場所や、年収や、仕事が違っても、大きなうねりのなかに等しくいる人たち、という感じがしていました。
現代社会が実生活で失った、そういう観念的なもの、しかし欠けていると如実に分かるものを、雑誌に見出していました。雑誌を読むと、情報が入手できるというより、そういう共同帯の空気や熱気、みんなで同じ方向性を向いている感覚が欲しかったのだと思います。
そこにしかない、欲望でありながら、ひとつの希望のようなものを、食べて生きていたのだと思います。空気を欲するように、みんなの欲求そのものを欲していました。
それが、感じられなくなってしまった。
または、その欺瞞に気づいてしまった。
つまるところ、「同じ趣向性を持つみんな」というものが信じられなくなってしまったのでしょう。価値観の違い、生活の違い、人間の違い、人生の違いというものを、以前より感じるようになってしまった。
それは、情報化社会により、個人のあり方というものは、多様どころか一致することはないと気づいてしまったからかもしれません。
または、同じ欲求を持つみんな、というものがありえないと知ってしまったからでしょうか。イメージの向こうに、ひとつの方向性やまとまりが見えなくなってしまったのです。
そうすると、並んでいるこれらの情報は、なんのためにあるのだろう。何を目指して、何を幸福として、この情報がここにあるんだろう。
雑誌を読んでいると、こうした疑問がふつふつと沸いてくるのです。
それで、読めなくなってしまった。
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私という個人を通じた、雑誌というメディアについての検討は以上です。
みなさまは、どう思われますか。意見がありましたら、聞かせてください。
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