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冲方塾 創作講座21 講評⑧描写

 みなさま今日もよろしくお願いします。
 まずは前回の講義の振り返りです。描写とは何か? 対象を認識するための「五感」を描写すること。これが一般的な描写といわれているものですね。なにかが赤いとか、なにかが光っているとか、音がするとか。
 そうした五感を通して得られる、「価値」を書く。それが描写の本質だとお話しました。
 今回は、その価値を生み出す六つ目の感覚、「時間」についてお話する予定です。
 念のため復習しておきますと、五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で、現代は視覚と聴覚に傾倒している。携帯電話などは、ほぼ視覚と聴覚だけで使用しますね。他にあるとしたら振動で触覚に訴える。
 描写は五感の全てを書かねばなりません。では五感は何を伝えるか。重要なのは、距離、空間、そして印です。と、そんなことを前回お話ししました。
 課題は、描写の模写を通して、価値表現を知ること。
 価値がはっきりしないと、人間はそれが何なのか認識できません。
 たとえば大航海時代、未知の大陸に渡った人々は、考えたこともないような異国の人々と出会い、物々交換をはかるんですが、互いに何を提供しているのかわからない。相手から飾りのついた角みたいな物を渡され、楽器だろうと思って頑張って吹いたら股間を隠す物だったとかですね(笑)。
 価値というものには、大まかに四つの状態があります。「期待」、「逓減」、「中毒」、「消失」です。中毒というのは人間の社会が生み出したもので、これがあるため価値にまつわる文脈が健全か不健全か、倫理的か否かといったように複雑化しました。
 様々な価値が更新されるのと同様、中毒も更新されます。
 たとえば砂糖ですね。かつて貴重品だったそれが大量生産されるようになったことで、中毒性が新しく知られるようになった。
 つい半世紀前まで、砂糖は地域を支える重要な産業だった。沖縄のサトウキビ畑とかですね。けれども砂糖の総量が増えると価値が低くなる。さらに紛争における死者よりも、肥満で死ぬ人の方が多くなった、となると砂糖の功罪をどう扱うべきかが問題になる。
 どんな価値も、短期間で変わる可能性がある。それが現代的な価値のあり方の特徴です。
 以上、復習でした。では講評にまいります。

■1
【雨に濡れた状態の描写】
 冷たい僕のからだで足の先だけが熱を持っている。時々その熱がゆっくりと頭まで昇ってくる。
 果肉を剥がした桃の種のような熱の核は、昇ってくる時、心臓や胃や肺や声帯や歯茎に引っ掛かる。
出典元:村上龍「限りなく透明に近いブルー」

【当てはまると思った描写】
「未知」に該当すると思いました。

【描写の意図の推測】
桃の種が体内を昇ってくるという体験は、誰もしたことがない未知のものだ。だが、桃の種の形状を思い起こすのは容易だ。それがもし体内に侵入したときの感触を想像するのは、不可能ではない。全体的には未知の体験の描写ではあるが、誰しも経験がある「歯茎に桃の種が触れる感触」を拡大認識し、心臓・胃・肺・声帯などに触れる・通過する感触を読者に想像させるのは、現実の延長線上だ。したがって、この比喩表現は非常に巧みだと感じた。

■講評
 これが比喩の効果ですね。ありえない事柄でも理解できる。
 ちなみに評論することが課題の目的ではありません。最終的に、これが期待の段階の価値を描写しているかどうか、見ていきましょう。
 重要なのは、果肉を剥がした桃の種とは何かということです。ただ単にそういう比喩表現を思いついたからやってみた、という以上の意図をみる。まずこの、果肉を剥がした桃の種のようなものはなんであるか。熱ですね。熱の核。足の先だけが熱を持っていて、僕の体の全身で足の先だけ感覚がある。体全体は冷え切っていて感覚がない。足の先の感覚だけがわずかに頭に上ってくる。他の体を刺激してくれる。
 これは自分自身の体の感覚、すなわち価値そのものがなくなってしまっていて、この足の先だけのほんのわずかに価値だけが生きている。
 果肉という、本来桃の姿をしたものの大半が失われてしまった。桃の種という最後の部分だけが残っている。その最後のピースが失われたら桃というものは全部失われてしまう。その最後に残されたものが、心臓とか胃とか肺とか声帯とか歯茎とかに宿ってくれるんじゃなくて、かろうじてひっかかってくる。
 つまり、凍え死にしそうだと言っているんですね。
 それが最終的に、こんな体験はなんて素晴らしいんだろう、と言う場合は未知つまり期待の状態になりますが、こんな状態から早く抜け出たい、こんな自分をどうにかしてくれという場合は、価値の消失に向かっていることになります。
 表現自体が斬新だからといって、描写されている価値が未知つまり期待の状態だとは限りません。
 この文章だけみると、ゾンビみたいな人が想像されますね。足の先しか感覚がなくて、他は全く生きている感覚がない。消失に向かう状態です。
 では次。いきなり漢詩が持ち込まれたので勇気があるなと思って採用しました。

■2
白文
勧君金屈卮 君に勧む金屈卮(きんくつし)
満酌不須辞 満酌辞するを須(もち)いず
花発多風雨 花発(ひら)けば風雨多し
人生足別離 人生別離足る

君へこの金の杯を
このなみなみと注がれた酒を遠慮する必要などないんだ
花は開くと雨風にさらされるように
人生には別れがつきものだ

井伏鱒二による現代語訳
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
「さよなら」だけが人生だ

第一句と第二句における視覚的描写によって、「金=重要な場で用いられる」「なみなみ注ぐ=痛飲することが許される」ことが分かり、それを「勧める」「遠慮する必要はない」ことから、なにか祝いの席であろうか、ということが期待される。さらに言えば、「酒=体内に入れるもの」を用意していることから、集まった人々は相応に深い関係であると推測される。

■講評
 自分の体内にいれるものをお互い分かち合うというのは、絆の表現にひじょうによく用いられます。もとは宗教的な儀式ですね。

■2続き
しかし第三句で「花=華やかな存在」が「風雨に晒される=多難である」と不穏な表現を加えることで、ハレの場ではなくケの場であろうことを窺わせ、前句までの期待を逓減させている。
(あるいは、不穏であることを煽って、バッドエンドに向かうことを「期待」させている)
 そして第四句で「別れ」を明示し、ここが離別か死別か、なにがしかの関係が失われるがために設けられた場であることが分かる。
加えて、「足る=断定」と、その事象が普遍的で逃れ得ぬものであると言い切り、この場にいる人々が再会する場面(言わばこの詩の〝続編〟)の可能性を断ち切っている。

■講評
 重要なのは、価値というものの状態を表現するために期待とか逓減といった言葉を用いているだけで、書き手や読み手、あるいは登場人物が、実際に期待しているわけではないということです。
 価値が期待という状態にあるわけであって、読者がハラハラする期待ではありません。
 これは、言葉の意味を取り違えております。
 ストーリーを予感させる、裏切るということと、価値の描写は密接な関係にあるわけですけれど、今回の講義でやるべきことはそうではない。
 ではこれは何を描写しているのでしょうか。
 君に勧む金屈卮、君へこの杯を捧げるよ。満酌辞するを須いず、なみなみと注がれた酒を遠慮する必要などないんだよ、つまり金の杯というのは特別な杯なわけですね。
 それまで何度も君とは酒を酌み交わしてきたけれど、改めてこの杯を捧げようじゃないか、なみなみと注がれた酒を遠慮する必要などない。なぜ遠慮するかと言えば、この金屈卮に込められた思い。もう会えないという思いとともに飲み干してくれ、と。
 花発けば風雨多し、花が開くと風雨にさらされるように、これは自然なことである。そこらへんで見られる普通のことである。これは金屈卮に対して花開くという、風雨も普通のこと、一般的なことなんです。で、人生というのは別れがつきものなのだ。なのになぜ別れの杯を交わすかといえば、覚えていてほしいからですね。
 相手のなかで、あるいは絆という存在の価値が逓減してほしくない。別れを受け入れねばならないけれど、金屈卮を交わした一時、もっと言えばこの詩自体はずっと残るのだ。花は開けば風雨は多いけれども、花というのは毎年咲く。季節のように普遍的で決して消えぬものとして、君の中でこのことを記憶してくれというメッセージでもあるわけですね。
 ですのでこれは価値が刷新され続けることを願った詩です。期待の状態に常に立ち返ってくれと。
 人生別離足る、別れるんだからどうでもいいよではなく、別れてしまうからこそ、自分のことを刻んでいてくれという詩です。
 ですので全般的に、これは期待への刷新をはかる詩です。

■閑話休題
 ご質問が添えられておりましたので、お答えします。
 「描写と説明はどう違うのか?」
 という質問ですが、これは今回みなさんも課題で悩んだと思います。
 説明する方法の一つが、描写です。説明には、「描写」だったり「解説」だったり「比喩」だったり「引用」だったりがある。こうしたものは全部説明なわけですね。
 ニュース番組を思い浮かべてみて下さい。「VTRをどうぞ」と言って、再現描写をする。
 一方で、改めてコメンテーターが「これはこうですね」と解説をしたり、比喩を口にする。
 別のVTRで専門家の○○さんはこう仰っている、と論拠を示す。
 これら全部がいわゆる説明です。テレビ番組というのは、様々な角度から総合的に説明することを主眼としているわけですが、もちろん人に伝われば描写だけでも解説だけでもいい。比喩だけでも十分な場合が多々あります。
 特にコマーシャルなどは一部だけ切り取って伝える。必ずしも、そのつど全ての技法を駆使する必要はないわけです。
 さて次の講評です。

■3
『悪童日記』 アゴタ・クリストフ
双子の少年達は、戦争がひどくなってきたので、おばあちゃんの家に疎開させられます。ある日、少年達は貧しい隣家の少女「兎っ子」に出会い――(以下引用)
彼女は叫び出す。「あたし、果物や、魚や、ミルクなんて、欲しくないわ! そんなもの、あたし、盗めるんだもの。あたしはね、あんたたちがあたしを愛してくれたらって、そう思うのよ。誰も、あたしを愛してくれない。母さんさえも……。だけど、あたしだって、誰も愛してなんかいないわ。母さんだって、あんたたちだって! あんたたちなんか、あたし、憎むわ!」

考察
「あんたたちがあたしを愛してくれたら」→【期待】初めて自分を認めてくれた少年たちに愛されたいと期待する。
「誰も、あたしを愛してくれない」→【逓減】今まで自分が愛されてこなかったので、期待するのをやめようとする。
「あたし、憎むわ」→【消失】自分も愛してないと宣言することで自身の期待を断ち切る。

と、最初は思ったのですが。
「あたし、憎むわ」が反語的な「期待」の表れとも考えられる。誰からも愛されていないという状況と、「憎む」という強い言葉を使うことで、却って兎っ子の孤独感と、そこから生まれる強い期待を全体として表現している、という解釈も可能な気がするのですが……

■講評
 明らかに期待への刷新をはかる表現です。言葉そのものは、どうせ無理だ、お前らなんか大嫌いだと言っているんですが、これは価値を表現する際によくある手法です。愛情を表現する定番といっていい。
 「あんたなんか大嫌い」っていうね、これは、結局まだ期待の状態です。価値が消失しきっていないことを言っている。特に、自分で自分に言い聞かせるぶんには、いつでも価値を復活させることができるんです。あるいは価値を逓減させない方法として、どうせ私なんか、どうせ自分なんか、という言い方をする。
 そこで本当に消失させてしまう表現もありますね。あるいは刷新する表現も。
 ピグマリオン効果といってですね、ピグマリオンというのはギリシャ時代の彫刻師のことなんですが、その彫刻があまりにも出来が良いので、彫った本人が恋したりして、生きていてくれたらな、生きていてくれたらな、って言ったらある日突然生命を宿して実際に生きてしまったというお話があるんですが、それと同じように自分に対して、こうだよね、ああだよね、他人に対して、こうだよね、ああだよね、って言ってると、だんだんそのようになっていくという心理的効果があります。
 これは自分に対してと同時に、他人に対しても言っているんですね。どうせあんたたちなんてこうなのよ、と言うことは、まだ可能性が担保されているわけです。あなたはもしかするとこうかもしれない、こう反応するかも知れないという、反応待ちの状態ですね。
 いつからか忘れましたが、あるときツンデレという言葉が発明され、瞬く間に流行してみんなが知るようになりましたが、なぜあの言葉が重要になったかといえば、価値を温存して刷新する可能性がある言葉というのは人間にとって重要だからです。
 これはすべて期待の状態で、逓減や消失を拒む態度をあらわしています。

■4
●課題文章
 清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、新鮮、清潔、真白、などというものが永保ちしないことを知っている。だから大いそぎで、熱狂的にこれを愛し、愛するから忽ち手垢で汚してしまう。

●文章の意図
「逓減」「中毒」「破壊」の表現
『清潔なものは必ず汚され』という言葉で、無垢という価値は永続しないという道理を語っている。『汚れる』という価値の減少――逓減を表している。
だが、『永保ちしないことを知っている。だから大急ぎで、熱狂的にこれを愛し』という表現によって、失われるがゆえに求め続けなければならない――中毒を示している。
そして、最後には『手垢で汚してしまう』という価値の消失――破壊を表現している。

■講評
 逓減と消失の中、急いで価値を味わおうとしていますね。
 ただ、価値を刷新しようという態度ではないので中毒だと思うのかな。
 雪のようにすぐ消えてしまうんだったら掴んだ瞬間食っちまえという態度です。すぐに汚れてしまうんだったら、汚れる前に手に入れてしまおう。腐りやすい生ものなんだから早めに食べよう、とか、そういうことなので、最終的に完全に消費している。明らかに逓減、そして消失ですね。能動的に価値を消失させるので、まあ破壊的に見えなくもないですが、中毒ではありません。
 中毒は特定の価値をひたすら求めることで他の価値を失わせます。
「中毒」という言葉をつけてみるとわかると思います。この文章が「清潔中毒」を表現したものかというと、明らかに違います。これは、急速に逓減する価値をあらわしており、清潔以外の価値を破壊するものではありません。

 さて、講評は以上です。
 価値というものの描写が、変化を前提にしていることを知る。それが今回の課題で大事なことです。


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