建築の保存と活用で再び戻れるところへ
街を歩いていると自然と古い建物に目が留まってしまう。
江ノ電の長谷駅から鎌倉の大仏のある方向へゆるい坂道を歩いていくと、トンネルの手前の右手に茶色いスクラッチタイル張りの建築物が視界に入る。
子供のころからその建物が存在していたのは知っていたのだが、その建物はもともと、1936年(昭和11年)4月に「神奈川県営湘南水道鎌倉加圧ポンプ所」として建設され、1961年まで稼働をしていた。その4年後に鎌倉市へ貸し出されると、新たに「大仏坂体育館」として2003年ごろまで市民に開放される。その後は老朽化が進み、近年まで廃墟になっていた。そして旧大仏坂体育館は民間企業に売却されることになるのだが、ある日、建物の横を通ったときに工事が始まっていることを知った僕は、ついに取り壊しが行われるのかと暗い気持ちになっていた。
ところが、「あれ? 壊されていないじゃん」と何度か現場を通ったとき気づき、調べてみると、その建物は神奈川県茅ケ崎市にある創業150年の歴史をもつ蔵元である熊澤酒造株式会社が所有していることがわかったのだ。
熊澤酒造といえば「天青」やお洒落なラベルのクラフトビールなど湘南エリアでは誰でも目にしたことがある有名なメーカーの一つだ。さらに、大正時代の土蔵を改装したり、築450年の鎌倉山の古民家を移築したり、東北の築200年の古民家を移築してレストランを手掛けるなど、歴史ある建造物を保存や再生に取り組み、新たな形に変えて後世に残しているすごい企業なのだ。これを知って心底安心をした。
鎌倉市には神社仏閣などの重要文化財や歴史的建造物のほか、築100年近い古民家や近代建築物が点在している。最近では、鎌倉市の歴史的建築物の保存及び活用に関する条例が新しく制定され、重要文化財や歴史的建造物に満たない建築物の保存や活用がよりしやすい環境へと整えられてきている。
ちなみにこの旧神奈川県営湘南水道鎌倉加圧ポンプ所および旧大仏坂体育館は、神奈川県の水道事業における最初の遺構であり、かつ鎌倉市の戦前の希少な水道施設の遺構とされて、平成31年(2019年)3月22日に景観重要建築物等に指定されている。
今度は、新たに作られる熊澤酒造のレストラン「MOKICHI」のインテリアがどんな感じになるのか気になり、昨年の12月にオープンした一週間後にさっそくお店に立ち寄ってみた。
入り口を入ると、アールデコ調のインテリアは当時の面影を残しつつ綺麗に白く塗装が施され、すっかりと息を吹き返していた。
本来ならおもいきり利き酒やビールなどを楽しみたいところなのだが、散歩の帰り道ということもありハーブティーと酒粕を使ったチーズケーキを注文した。
ちょうど僕が座っている隣のテーブル席に一人の老婦人が静かに座っていた。その老婦人は運ばれてきたお茶にはすぐ手を付けず感慨深げに室内をじっと眺めていた。老婦人を見た僕は、今日はどんな経緯でここに訪れたのだろうか、もしかしたら、その老婦人は当時の大仏坂体育館があった時の利用者だったのだろうか、それとも加圧ポンプが現役で稼働している時代からのゆかりのある人なのだろうか、といろいろと思いを巡らせた。
それが何であろうと、誰にとっても自分とかかわりのあった場所や街に戻ってきたときの、当時のつながりのあるものが残されているってことは素敵なことだと思う。
もしも自分が疎遠だったところへしばらくぶりに戻ってきた際、その場所が何もなくなり変わり果てた姿になってしまっていたら、その喪失感であったり、何とも言いようのない感情は計り知れないものになるだろう。
すべてを破壊し、そこにあった歴史の何もかもを奪い去るのではなく、「ああ、ここに戻ってきたんだ。また帰って来れたんだ」って思えるところ。そして人々が集えるところ。そんな場所や街がこれからも日本各地に増えてくれたらと心から願っている。
参考サイト:鎌倉市
参考資料:熊澤通信 Vol.05
引用写真:https://www.instagram.com/menu2008/