ぼくの、生きる
太一はすぐにどもる。お、おれは、い、いいよ。こういった具合に。
そういうのが、小学校のこの教室では面白くって仕方がない。マネをすると、太一は怒る。そのムキになるところまでがセットでおかしくてたまらないのだ。
巨大なため息がのどの奥からこみ上げる。本当にくだらない。太一もムキにならなきゃいいのに。ジョチョウしてる、と思う。
国語の音読の時間、太一は息を止めるようにして、その存在感を消そうとする。無になろうとする。だけれど先生という人種は、そういった空気を読まないものだ。指名された太一は、この世の悲しみをすべてかき集めたような顔をする。たぶん、あれをゼツボウって言うんだろう。
皆が期待の目で見守る中、太一はまるで息の仕方を忘れてしまったみたいだ。そうして見事一文字目からつまづく。どっと笑いが起きる。こら笑うんじゃないの、という先生の声もそれをジョチョウさせる。つづく一歩も、もちろんつまづく。
こういうとき、僕はいつも太一がフビンで耳をふさぎたくなる。やがて耐えきれなくなった太一が泣き出すと、教室中が大盛り上がり。その涙目、震える肩さえも、皆面白くって仕方ないのだ。かわいそうで、みじめな太一。
くだらない。くだらない。そう思いながら、窓の外を見る。空の青は知らん顔で僕たちを見下ろしている。
「太一、転校するって。職員室で聞いたからまちがいないよ」
放課後のジャングルジム、そう言ったのはクラス一口が軽い安西だ。親がリコンするとかで、太一はお母さんについて、おじいちゃんちがあるという、名前は忘れたけど地図の上のほうに行くのだという。
皆で顔を見合わせた。それはつまり、本当にかわいそうなことなんじゃないだろうか。かわいそうな太一を笑っちゃいけないんじゃないだろうか。
「ねえねえ、たいっちゃん。リコンするから転校するってほんと?」
給食の時間、そう聞いたのはクラス一空気が読めない坂本だ。同じ班の田中さんがミニトマトをのどにつまらせかけたとき、あっさり太一はうなづいた。「い、言ってなかったっけ」ちっともかなしげじゃないどころか、これから行く場所では桃がたくさん食べられるんだ、と嬉しそうに笑った。太一は桃が大好物なのだ。
なーんだ。皆は安心して太一をからかった。いつもどおり太一はマネされては腹を立て、真っ赤になって怒りだす。僕はなんだかばかばかしくなる。
太一って、ちょっとドンカンなんじゃないのかな。
転校がいよいよ間近に迫ったある日、国語の時間のことだった。先生は音読する生徒を指名しようと教室を見回していた。窓からは気持ちのいい風がやってきて、カーテンをふくらましては去っていく。窓際に座る僕にはそのカーテンが邪魔で仕方なかったけど、閉めたら文句を言われることはわかっていたからそのままにしておいた。
だからその瞬間、ふわりと舞ったカーテンの向こうで、太一が手を上げていたなんて気づかなかった。
アゼンとしていたのは僕たちだけじゃない、先生もだ。変な間のあとで、どうにかいつもの顔をとり戻したらしい先生が、名前を呼んだ。「じゃあ、太一くん」
イスを引く音が教室中響きわたる。教科書を持つ手は、ぶるぶると震えていた。
「いっ、いいいいいいきている、ということっ」
しょっぱなから噛んだ。ぶっと誰かがふき出した。くすくす笑いが広がって、太一の頬はりんごの赤さに染まっていく。なーんだ、いつもの太一じゃん。皆、顔を見合わせた。
つづく一歩もつまづいて、そのまた一歩もつまづいて。
ひとり、またひとりと気づいていく。それでも太一は止まらない。つっかえつっかえ、震える声で歩いていく。
「そ、そそそそれはミニスカートそれはプラップラネタリリウムそれはヨハンシュトル……シュトッシュトラウス……そ、それはピカソそれはアリプス……」
言葉の渦に色がつくように文字に命が宿るように、それは確かな意味をもって、耳から心に落ちていく。
バカにされて泣き、マネされて怒り、桃が好きだからとかなしまずに笑う。
太一はどもった。お、おれは、い、いいよ。こういった具合に。
だからこの詩は、元のものよりずっとかっこ悪くて余計なものばかりの、太一の言葉になった。
「い、いいいい、いのちと、とということっ」
ガタン、もう一度イスを引く音がして、はじめて終わったのだと気づく。
教室中がしんとした。誰も笑っていなかった。目の前で起こった出来事にどう反応していいか、誰も分かっていなかった。
ふわり、カーテンがまた目の前を舞う。今度ははっきり邪魔だと思った。
僕は、そのときの、顔を真っ赤に染めながら小さな誇りを胸にまっすぐと背を伸ばした太一の姿を、忘れたくなかった。
(詩・谷川俊太郎「生きる」)
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以前に書いた『いま生きているということ』という短編をわりと修正したものです。