私たちは、他者について、いかに語ることができるか
2018.09.11.
9月に入って一週間が過ぎた。
暑さはまだ残っているけれど、日が落ち始めれば、歩くのが心地いいくらいの涼しさになる。
夕方、独りで家に帰る時間が好きだ。
荷物がいっぱいに詰まったリュックを背負って、1日を振り返りながら、坂を登り、自宅のアパートへと向かう。好きな曲をかけて。
この4週間でよく聴いていたのは、
フジファブリックの『若者のすべて』と
吉澤嘉代子さんの『残ってる』の二曲だ。
「“真夏のピークが去った”天気予報士がテレビで言ってた。」
「風邪をひきそうな空 一夜にして 街は季節を超えたらしい」
季節の変わり目の午後6時の明るさは、日に日に変化してしまう。
8月半ば、まだオレンジ色だった景色も、徐々に紺色の景色になり、
視界で捉えられるものは少しずつ減ってしまった。
それが寂しくも嬉しくもある。
そんなことを独りでゆっくり考えることができる、帰り道が好きだ。
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話を変えるが、どこから帰っているかということについて、、
実は今、僕は小学校へ教育実習に行っている。
毎朝6時くらいに置きて、18時まで実習を行い、一時帰宅してから、夜までチームで授業の準備をする。
そんな毎日の繰り返しだ。最初は苦痛だった時間も、最終日が見えてくると、終わってしまう切なさに襲われる。
残りの少ない日数で自分がやるべきこと、できることとはなんなのだろうか。
今までの自分の実習での取り組みを振り返ってみると、僕が何に目を向けていたのか、最終週になってなんとなくわかってきた。
それは、授業をどう作るかということでも、どう学級経営を行うかということでもなかった。(本来なら、そこに全力を注ぐべきなのかもしれないけれど、、、)
なんとなく、言語化できている範囲で、それっぽくまとめてみると、
・人がある対象について、いかに発言・記述しているか
もう少し詳しく説明してみる。
放課後、実習生と担任の先生で、その日の授業を振り返る時間がある。その際に、それぞれが観察した児童の言動を中心に感想を共有する。
観察者が異なれば、当然感想も三者三様だ。自分が気づかなかったことを、他の実習生や先生から知り、翌日に活かすことができる非常に有意義な時間だ。
しかし、(これは人に向けたことではなく、自分に向けたことであるが)
その観察を元にした発言・記述が恣意的になっていないだろうか。
なんとなくの感覚で、対象について考察した気になっていないか。
どういうことかというと、
「あまり授業に積極的ではない」生徒
「算数が苦手な」生徒
といったように、
観察者の視点により、主体に烙印を押してしまうことがある。
別の観察者の振り返りを聞く際、その主体の言動は「烙印」を通じて判断される。その判断を元に、僕たちは発言・記述する。
「あの子は、算数が苦手だから、あんなことを言ったのか。」
「あの子は、クラスで友達が少ないから、積極的に発言できないのだろう。」
一応補足しておくと、僕は、日本の従来の教育方法を批判しグループワークやワークショップ型の授業を提案したいわけでも、教師という存在事態に懐疑的なわけでもない。
何もこれは学校現場のみに起こることではないからだ。
整理すると、他者について語るとき
・本当にそれは、「彼自身」の声なのか
・その彼の声を不適切な文脈の中で取り上げてしまっていないか
ということを心に置くということだ。
僕たちは、無色透明になることはできない。
だから、今自分が、どんな「意図」を持って発言、記述しているか。
それを常に意識し、また開示し続ける必要がある。
二者間における構造的暴力性と、自分の無意識下の偏見に、
常に批判的な視点を持ち、脱構築していくことが、
他者への理解の第一歩となるのではないだろうか。
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今回、こういった内容をnoteに投稿しようと思ったきっかけは、
ガヤトリ・C・スピヴァク氏の『サバルタンは語ることができるか』という本との出会いでした。
非常に難解な本であり、理解できないところが多々ありましたが、ポストコロニアル研究の上で欠かすことのできない一冊でした。
以下の動画は、スピヴァク氏が第28回京都賞を受賞された際の映像です。
この『サバルタンは語ることができるか』は、
インドのサティーという慣習について、フェミニズムとポストコロニアルの二つの視点から考察を行っています。
直接的に今回の記事と関わっているわけではないのですが、
僕にとって、大きな視点となった本です。
ぜひ、関心のある方は、一度手に取ってみてください。
そして、大きなの構造の話と、個人の偏見の話とを、ある程度分離しながら、同時に考えることの重要さを教えてくれた、友人の武田くんには感謝です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。