【秘話】 頭痛セラピー「日だまりショット」を開発したストーリー
小学2年生の時に初めて「頚椎2番」の存在を知る。
頭痛セラピー「日だまりショット」は頭痛を手で治す施術法です。ボキボキもしない、強くも押さない、触っただけのようなタッチなのに長年の偏頭痛から卒業できる奇跡の療法だと言われています。最近の患者さんにも「ウソみたい」「半信半疑だったけど、本当だった」という風になかなか信じてもらえません。それは、この治療法が、自律神経にアプローチしたものなのでとても繊細なタッチになっているからなのでしょう。
では、この治療法がどうして効果が出るのか?を頭痛の人に理解してもらうために、頭痛セラピー「日だまりショット」がどんな風に開発されて来たか?のストーリーをお話しましょう。「なるほど!だから効果が出るんだ」と思ってもらえたら幸いです。
遡ること、僕が小学2年生の頃でした。愛知県蒲郡市の普通の家で育った少年大介くんは、頭痛と肩こりで悩んでいました。特に首がパンパンにはるので、毎日おばあさんにマッサージしてもらっていました。ある日、祖母から、「一回、私の行っとる針にいくかん?」と誘いを受けました。「うん行ってみるわ」ということになり、近所にある高橋はり院という鍼灸院に祖母といき治療を受けました。玄関に靴がいっぱいあって、繁盛していたのを覚えています。
そして、おじさんの先生が、僕の首を触って、「なるほど!頸椎2番が左にズレとるな」と言ったのです。「頸椎2番(ケーツイニバン)」すごい響きだなと思いました。1番じゃなくて2番なとこがいいな〜と子供心に思いました。それからというもの、これは僕の個性だと思い、「頸椎2番」を大事にするようになりました。
中学2年生でひどい頭痛になり、「自律神経失調症」になる。
中学にあがり、思春期まっただ中でひどい頭痛が発症しました。水泳部で部長をつとめていて頑張っていました。それと関係あるかわかりませんが、真面目に見られる自分の存在がイヤでよくわからない悩みと闘っていました。不良ではありませんでしたが、短ランとか買っていたので、大人への反抗心もあったかもしれません。
頭痛は、歯が痛いのと同じような奴が、頭にきました。「なんだこれ!」と思いました。どこが痛かったか覚えていませんが、とにかく頭が割れるように痛かったと記憶しています。病院は、嫌いなのに、母に蒲郡市民病院に連れて行ってもらいました。
そこで、お医者さんに「「自律神経失調症」だね!」と診断をもらいました。
母に「あんたも難しいもんになるだね〜」と言われたのを覚えています。頭痛薬を処方されて頭痛は、一週間ほどで落ち着いて行きました。
ついに登場しました。「自律神経」です。頸椎2番の次は、自律神経という言葉です。難しい言葉でしたが、自分の問題だったので、調べます。何か自分の中で事件が起こっているな〜と思いました。おばあさんに買ってもらったステレオでBOOWYのマリオネットを聞いていた頃です。
確かに、スイミングスクールに自転車で通う途中に不良集団に絡まれると、心がビビっていつも頭痛になっていました。そして、寒気がして来て翌日は、風邪をひいて学校を休むという流れがありました。この時に、心の怯えと体の反応のリンクをいつも感じていました。不良少年に感謝です!
音楽活動中に頭痛を発症、自分で頭痛を治す技術を発見する。
それから普通に地元の高校に行き、大学では青春を謳歌しました。大人になりたくなくて会社員になりなくないから家出をしました。音楽の道で食って行こうと、尾崎豊を目指して東京へ行きました。でも、本当は、歌がやりたかったわけじゃなくて社会人になりたくなかったのです。
僕は、路上ライブをやりながら、鬱憤を晴らしていました。バイト生活に追われていつの間にか虚ろな目つきになり、東京という怪物に飲み込まれそうになっていました。精神的に病んでくるとやはり体に出てくるのです。夕方になると頭痛とうつ的な倦怠感に襲われました。カラオケボックスをフリータイムで予約して、アコースティックギターを持って5時間くらい閉じこもるのです。曲を書くためです。でも、やる気がなく頭痛とだるさで寝ていました。
そんな時に、僕の手が首にいくのです。カラオケボックスのソファーに寝転んで首をいじっていました。頸椎2番です。
そうすると、頭痛が楽になって気分も晴れて来ました。「なんだこの現象は!?」と思い、調子悪くなると繰り返し自分で自分の頭痛を治していました。「やっぱりここが悪いし、何かイヤなことがあると頸椎2番の左のとこが疼くな〜」ということもわかりました。ただこの時は、ミュージシャンですから、治療を仕事にすることは考えていませんでした。
整体の修行時代に中国の病院で「首の治療」の理論でガッテンする。
30才の時、音楽の道に断念します。親からも「お前は、10年遅れているんだ」「音楽の才能はない」と言われてがっくりしていました。才能が何に向いているか?音楽じゃないならもう生きていく意味ないなとまで思っていました。それから苦しみの日々があり、1年くらいめちゃくちゃ落ち込んでいました。そんな中、整体の道を見つけます。
今更、会社員もできないし、プライドだけあってお金も取り柄もない僕を生かす道はどこにあるか?を悩んだ末、整体師になることを決意しました。整体なら人と一対一で向き合えるし、人を癒すことにできる音楽と同じ意味があると思ったからです。3年間の修行をしました。
僕が通った整体の学校が愛知県岡崎市にあり。東洋医学系の中国整体「推な(すいな)」を基本とした治療技術でした。カリキュラムに中国研修があり、北京で研修を受けました。解剖の授業や気功や病院実習などを受けるのですが、その中で「首の治療」についての講義があったのです。先生がスライドで頸椎の写真を壁に映し出して、施術の仕方と神経伝達・ツボなどを教えてくれました。その中で、講師の先生が、「首には自律神経が走っており、そのアプローチの仕方によって全身を緊張させることもできるし、全身を緩ませて痛みから解放することが出来る」と言ったのです。
「頸椎2番」=「自律神経」=心と体の繋がりじゃん!と・・・自分の頭の中で、完全に理論と実践(体感)が重なったのです。お昼の授業でみんな眠そうでしたが、僕はキラキラの瞳で心の中でガッツポーズしていました。
開発・実践し、再現性を証明、全国へ伝播
3年間の修行終えて地元が蒲郡市で開業するのですが、6年間まったく人が来なくて悩みました。人がいないから、本物になりたくて治療技術を磨くためにいろんなセミナーに行きました。また大学時代の空手を再開して3段位を取得し、体の研究をたくさんしました。空手の師匠から「支え圧」という「日だまりショット」の原点になるタッチを伝授されたのがこの昇段審査の時でした。
しかし、技術だけ深めても人は来ず、その中で伝説の整体師 野口晴哉先生にはまります。体という小宇宙・見えない世界のことが本気で書いてあり、真剣に学びました。公園で葉っぱをタッチしたり、川のせせらぎに手を浸したりして技術の真髄を追求しました。その時は、「日だまりそっとパワー」なんて名前をつけて少ない患者さんに試していました。
いよいよ人が来ずに行きずまっている中で、妻と出会うことになります。この人を食わせて行かないといけないと僕は必死でマーケティングを学び始めました。ターゲットを絞って集客する「ターゲットとポジショニング」というマーケティング
哲学を自分の治療院経営に導入しました。普通の整体院をやめて、「頭痛専門」の旗を掲げてやることにしました。2013年今から10年前のことです。
自分の頭痛は治せたけど、人のは治せるか?ということを患者さんで実験して行きました。偏頭痛の友人や頭痛持ちの女性患者さんに治療を試して技を作りあげて行きました。最終的に妻の首を使い、一番効率的に効果の出る手技にブラッシュアップさせて完成させました。目の奥は後頭部の治療、自律神経は頸椎2番、自分で治療している感覚=無意識の治療に持っていくことをトレーニングしました。そしてここに頭痛セラピー「日だまりショット」が完成するのです。
20年、30年の偏頭痛患者さんたちがどんどん笑顔になって行きました。肩こりからくる頭痛だけでなく、「こり」がなくて頭痛になる自律神経系の頭痛まで日だまりショットは適応していることが現場で証明されて行きました。「先生、音楽やめてくれたよかったわ〜、頭痛がないなんてこんなに幸せ」「先生、薬飲んでないですよ。うれしいです」「先生、頭痛がなくてどんどんやる気が出て動けちゃうんです。」そうゆう声を毎日もらうようになりました。全てが、奇跡でした。
治療院が、満員御礼になったのち、2015年3月に頭痛セラピー協会(当時は、頭痛治療家を育てる日比塾)を設立しました。僕の手のひら一つでは間に合わないから
です。今では、日本全国に弟子が200名以上できて「日だまりショット」によって救われる人が増えています。
小学2年生の「頸椎2番」の出会いから30年越しの「日だまりショット」開発の全貌です。頭痛は、体の症状だけじゃなくて、生き方や考え方、心の叫びが投影されているということを身にしみて感じています。この手が頭痛患者さんの頸椎2番に触れるたびに、「あ〜、頑張って生きているな〜」という味わいがあります。
それは、人生を愛して、恨んで、自分をわかろうと悶え苦しみ、うまく生きられ
なくて人生を放浪してきたからこそわかる感触(タッチ)なのです。「日だまりショット」がこれからどんどん広がって、人が人生を強く生きる勇気となることを心から願っています。