佐藤春夫「西班牙犬の家」
学部生時代に読んで、今回再び読み返してみました。
いやぁ、今は青空文庫もあるしKindleでも読めて楽ですね。でもなるべく小説とか評論は紙で読みたい派です。コミックはもう溜まる一方なのでここ数年で電子派になりました。
宗教心を裏返したような話だなぁと。
ただの私見ですが、信仰とはつまり、「意志をもつな、考えるな、さすれば神に出会える」と一方的に意志の放逐を要求するものだと思っています。宗教に理解がないわけではありません。信仰を拠り所とするのは人それぞれです。ただワシは、仏教に帰依してもおらず、敬虔なカトリックでもなく、でもあの神社の氏子と言われたらそうかもね、と思うような特に信仰心のない典型的な節操なしの日本人なので、宗教に熱心な方を一歩離れたところから見てしまうというだけです。
スロバキア🇸🇰の方と昔お話しする機会があって、「自分は無神論者(エイシスト)ではない」と言ってました。ワシもそんな感じです。ただ、神が人を創ったのではなく、人が神を創ったのだとは思ってます。
日本って宗教の話はタブー視されているきらいがありますよね。でもこんなに寛容な国もなかなかないかなと思います。ヒジャブやアバヤを身につけていようが関係な……人様のことをとやかく言わない気がします。
「西班牙犬の家」に話を戻すと、人称の揺らぎが何度か起きてますよね。「私」「おれ」と語り手の認知に揺らぎがあります。すなわち、普通の現実世界ではない。語り手は緊張していない、弛緩状態にある。そして連続的な水の描写は夢の中、此岸と彼岸の境であることを仄めかしている。フラテ、という犬の名前も、修道士という意味ですし。つまり、無意識下を導く者なんですね。
人間は考えすぎると、物事の真髄に辿り着けない生き物でもありますが、語り手が意志を放逐して犬に散歩させられるところからこの物語は始まります。タイトルにもあるように、端から「夢見心地になることの好きな人々」のために書かれた短編なわけです。
「西班牙犬の家」の先行テクストにはアービングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」、独歩の「武蔵野」、アナトール・フランスの『人間悲劇』があります。フラテ、という犬の名前は『人間悲劇』に登場する修道僧、フラ・ジョバンニに由来するんでしょうね。実際、佐藤春夫もこの名前の犬を飼っていたそうですし。
猫文学があるように、犬文学、というのもあるんですよ。まあこの時代の作家って、逍遥、と言いますか、ひたすら散歩しかしてなかったりするわけですが(笑)
夢をみたままに書く、というのは案外難しかったりするわけです。特に小説の叙述では。だって、夢って普通、筋(プロット)がないじゃないですか。みている自分でもよくわからない、顕在的に処理できない世界なので。それをそのまま写生、言語化するとなると、よくわからんとっちらかった文章になるはずです。
「西班牙犬の家」の面白いところは、「私」あるいは「おれ」が目覚めないまま物語が終わるところだと思っています。普通、どこかで「覚める」瞬間があるのが夢見の話ですが、「西班牙犬の家」で語り手は目覚めない。目覚める描写がない。つまり、夢であったと誰も証明できないわけです。
5〜10分くらいで読める短い物語ですが、なかなか考えさせられる話でした。