【短編小説】可愛くないモノ Vol.11
「彩菜さん、紅茶派なんですね」
「え?あぁ、そうなの。私コーヒー苦手で」唐突に話を変えた私に少し驚いたようだったけど、いつもの柔らかな表情で彼女はそう答えた。
「私も昔はそうだったなあ。でも、先生のお陰でコーヒーが好きになったんです。先生ってね、全然先生らしくなくって、生徒の私に缶コーヒーくれるんですよ。すごく厳しい学校だったからそんなの絶対ダメなのに。でもそのとき私すごく落ち込んでいたから、先生が傍にいてくれることが嬉しくて。コーヒーは苦かったけど、その日以来、その苦味が何だか好きになってしまって」
私はわざと、彼女が嫌がりそうな話をした。彼女はどんな反応をしていいか分からず困惑しているようだった。それでも笑顔を崩さなかった彼女の表情が、私が先生との想い出を延々と語るうちに、段々と曇っていった。だけどそれは、先生と私の過去に嫉妬しているからなんかじゃない。二人の間には、絶対的な信頼があるように思えた。彼女は私が向ける悪意に、傷付いているのだ。ついこの間知り合ったばかりの私にさえ嫌われるのが辛いだなんて。そんな彼女がたまらなく憎らしかった。めちゃくちゃに傷付けてやりたいと思った。この綺麗な顔が、嫉妬で醜く歪むところが見てみたい。
「ごめんなさい、こんな話聞かせてしまって。婚約者の彩菜さんにする話じゃないって頭では分かっているんですよ。でも大人になったら正式な彼女にしてくれるって、先生約束してくれたんです。だからあの日再会できたのは、運命だと思うんです。私がずっと先生のことを待っていたって知ったら、先生、どうするかな」私は彼女の目を見て言った。彼女はまるで何が起きているのか分からないといった様子で私を見つめ、言葉を探しているようだった。これくらいでお仕舞にしなくちゃ。少し冷静さを取り戻した私は、「この後用があるから」と、自分のコーヒー代をピッタリ置いて席を立った。
何年もずっと引きずってきた恋の終わりを、急に現れたお姫様から唐突に告げられたのだ。あれくらいの意地悪、許されていいはずだ。私はそう自分に言い聞かせた。どうしても電車に乗る気にはなれずタクシーを使うことにした。それくらいの贅沢も、今日は許してあげよう。そう思ったときだった。彼女が息を切らして、私を追いかけてきたのだ。意外だった。
「お願い。あの人をとらないで」彼女は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。どこまでもピュアでお人好しな態度に、私はまた腹が立った。奪えるもんなら奪ってみなさいよって、ほくそ笑んでいればいいじゃない。私に勝ち目なんて、あるわけないんだから。
「それは、先生が決めることだから」私がそう言って立ち去ろうとすると、「待って」と彼女は私の手首を掴んだ。その華奢な手に込められた力が想像以上にか弱くて、自分が酷く醜く感じられた。早く家に帰って、ベッドに潜り込みたい。
「私は、あの人がいなくちゃ本当にダメなの。だからお願い、あの人に気持ちを打ち明けないで。もう、会わないで。本当は今日、それが言いたくて翠さんのこと誘ったの」彼女は私の手首を掴んだまま続けた。
「病院で会ったとき、二人は特別な関係だったんだって、すぐに分かったわ。だから私、不安でたまらなくて。この指輪だって、私があんまり不安がるから彼がくれたの。結婚すれば安心出来るだろって。私今までお付き合いした男の人に、面倒くさいって言われて捨てられてきたの。こんな私を愛してくれるのは彼だけなの。だからお願い、とらないで」私の手首を握る彼女の手に、さらに力が入った。か弱いなりにも少し痛むくらいにギュッと掴まれて、私は初めて彼女の様子が普通じゃないことに気が付いた。彼女は震えていたのだ。
「ちょと、落ち着いてください。とりあえず、手を離して」私は自分の手首から彼女の手を引き離そうと、もう片方の手で彼女の腕を掴んだ。そのときカーディガンの袖がめくれて、彼女の白い肌と一緒に無数の切り傷が露わになった。ダメだ。私、とんでもないことを言っちゃったんだ。そう確信したときには既に遅かった。
「彩菜さん、落ち着いてください。ごめんなさい。嘘だから。先生のこととったりしないから安心してください」私は必至でそう伝えたけれど、私の声は、もう彼女に届いていないようだった。震えはますます酷くなり、呼吸が乱れ、彼女の顔から血の気が引いていった。たしかに綺麗な顔が見毎に乱れたけれど、私は何も、こんな顔が見たかったわけじゃない。どうしよう。どうしたらいいの。ついに私の手首から彼女の手が離れ、彼女は地面に倒れ込んだ。
「彩菜さん、しっかりして。大丈夫?先生のこと、とったりしないから安心してください。落ち着いて。ゆっくり息をして」私は彼女を抱き起こし、必死でそう繰り返した。
そのとき、彼女のバッグが振動しているのが分かった。電話だ。先生かもしれない。私はバッグから彼女のスマフォを取り出した。画面には、何度も何度も頭の中で呼んだ、あの人の名前。
「もしもし先生、私、翠です。彼女とバッタリ会ってお茶してたんですけど、彼女がパニック起こしちゃって、すごく苦しそうなの。来られますか?病院の傍にあるカフェを出てすぐのところにいます」
「そうか、ごめんね、ありがとう。君がいてくれて良かった。迎えに向かっているところだったからすぐ着くよ。たぶん次期におさまるから心配しないで」先生は驚かなかった。きっと、よくあることなのだろう。通りを歩いていた人たちが心配して集まってきた。その中の一人にもらった紙袋を彼女の口元に当て、私は大丈夫とごめんなさいを繰り返しながら、先生を待った。
*
「そう。じゃあ、私が大人になったら、彼女にしてくれる?」昔私が聞いたとき、先生はこう答えたのだ。
「大人になった君のことを、僕は愛せないだろうな」
「どうして?子どもだからダメなんでしょ?ならどうして大人になっても私はダメなの?」
「ダメじゃないよ。全然ダメなんかじゃない。君はちゃんと成長するんだから。君は大人になったら、ちゃんと桜井さんの様になれるよ」
「何それ。意味分かんない」
*
あの頃の私は、先生の言葉にちっとも納得出来なかった。先生に愛される大人の女性を想像して幾度も羨んだ。だけど、今目の前にいるこの人は、十四歳の私が思い描いていた大人の女性とはまるで違う。
「大丈夫、もうすぐ彼が来ますよ」私は敢えて先生ではなく、彼と言った。あなたの彼が、今あなたの元へ向かっていますよと。
もう、私の先生じゃない。
彼女を支えながら、私はもう一度先生に電話を掛けた。
「今どこですか?早く来て。それとも、救急車を呼んだ方がいいですか?」
「もう着くからそこに居て」そう簡単に答えた先生の声色は、心なしか嬉しそうだった。それは多分、私にしか分からないけれど。
to be continued.....