本当は貪欲に考えてることなんて、愛することくらい。

私にとっては、
他のあらゆる心配事よりも、どんな人と一緒になるだろうかとか、
その人とどんな大恋愛をするだろうかとか。

そういうことが何よりも大事だと自分が思っていると、子供の時から薄々感じていた。

それに気がついたのは、
そのことを考える時に燃えてくる情熱が何を置いてもずば抜けているというのに気づいたからだ。

だけどもそれは、人に言ってしまうのは恥ずかしいので
栽培しているパクチーの出来の話だとか、
どういう生き方をしていこうとか、
あの人が病気になったようだとか、
そんな話ばっかりした。

本当に興味のあることについては全然人と話さないで、
自分の中では実はどうでもいいことか、話しても支障がなさそうなことだけを話しているのだ。

だから家に帰ってくれば気疲れして
それはどんなに相手が優しかろうが変わることはない。

冬の雪国の景色は美しい。
お米はまっすぐおいしい。

だけど、そんなことはやっぱり結構どうでもいいくらい、頭の中は愛し愛されたいということばっかりだった。

他のことはどうでもいいから、美しいとか、美味しいくらいにしか感想が出てこない。

どんなに何かに打ち込んでも、誰かをまっすぐな気持ちで愛する気持ちより大切だと思えない。

だけど、これらのことに気がつくことすら長年なかった。頭の自分が、グイッとそういう観念を押しやって思いつきすらしなかった。
気がついたとて、それを素直に表現して生きることは私にとっては到底難しいことだった。

きっと私が一人前に何かを頑張ろうとしてしまうのは、ただ人を愛し愛されたいという欲求を必死に隠して

そんなことには全然興味がないみたいなクールな人間に憧れて、それでやってしまってきたことだった。

私がどう思うかじゃなくて、私が今生きている環境の中でおかしくない人がおよそ話していそうなこと、やっていそうなことを、あらゆる場面でコピーアンドペーストするような、そんな日々。

あらゆることをするのに、私じゃなくてもよかった。
誰がやっても変わらなそうな範囲に、全ての行動が制限されている。その外に出てしまったあとの出来事なんて、想像すらできない…。

貪欲に考えたいことなんて、本当は愛についてしかなかった。

みんなは違うんだろうか。
小説とか読んでいると、よくもこんなまどろっこしいことを思うもんだなとか、多くの小説家が、小さな心の機微に敏感すぎていちばん大切なことを見落としているように見えてイラっとした。

細かな心情の変化をいちいち感じて言葉にすることはやりたいとも思えないし、憧れもしなかった。読むと、この筆者も本当はそういうようなことはどうでも良くて、シンプルにただ人を愛したいだけなんじゃないか?という気持ちが湧いてくる。

私が小説を、特に恋愛小説を読む度に何故かどこかでイラっとしてしまうのは、あまりにも(私にとっては)どうでもいいところばかりに筆者が緻密過ぎて、人を愛することにまでエネルギーが残ってない状態で生きているように見えたからだ。
つまり、そういう自分自身を小説を鏡にして見つけて、自分自身に怒っていたのだ。

本当は、人を愛する以外のことにそれと同じかそれ以上の熱量なんて注げやしない。

それが恥ずかしくて紛らわそうとしてきたけど、確かに無意識的に考えるのは恋愛のことや人を愛するということについてばかりなんだ。

スマートに、お互い傷つかない程度に恋愛するなんて、大嫌いだ。
馬鹿みたいな自分が出てこない恋愛なんて、お互い気を遣っているフリして、自分を守っている恋愛なんて、大嫌いだ。
人を愛することを蔑ろにする生き方こそ、本当は私は大嫌いだったんだ。

そして、そういう自分の性質をわかってしまったのならば、今度こそそこから目を逸らさずに生きてやらないと、
自分の命を活かすということにならないんじゃないだろうか。

どんな素晴らしい実績やなんだかんだのものがあるかなんて、ほら、どうでもいいのだ。

人一人。愛し生き抜くことができれば、
それが十分生き切ったということになる。

愛し合うこと以上に生き切るってことは、全然浮かばない。

それ以外のことはきっと、そこから逃げるための口実か愛する為の手段でしかない。
少なくとも、私にとっては。

何かあからさまに偉業を成し遂げることの方を重宝がって生きてきたが、
人一人を本気でまっすぐ愛し抜くことの方が
よっぽど大事なことじゃんか。

自分で気がついておいて、自分で拍子抜けしてしまった。幸せの青い鳥に似た、実は自分にとっての最重要事項は目の前にずっとありました、という感覚。

みんなそんなもんなのかも知れない。本当はみんなも、仕事や趣味など、他のことにより興味があるフリをして、恋愛や人を愛することはそれより優先順位がしたですよ、という格好をとっているだけなんじゃないだろうか。
実際に仕事や趣味のことばかりに精を出して、一番大事にしたいことこそ蔑ろにするから他でもありとあらゆることに、自分に嘘をついてしまうんじゃないだろうか。

人を愛することの優先順位が最も高い、としている人でも、気が狂って見える程に恋愛に猛進している人って今の時代、いるんだろうか。

何でみんなこんなに、クールなんだろうか。

私の元彼は別れ話をしたタイミングで、私を世界で一番大切だと言った。人生で最も大切なことは、私といることだ、と。そういってくる彼を私は何度も何度も振った。彼はまるで、何度剣で切っても死なずに立ち向かってくる勇者みたいに折れなかった。
振る度に、「お願いだからもう、こっちにこないでくれ。」と思った。

今も分からないことがある。

この人は付き合いを継続することにはとても拘るのに、付き合っている最中はどうして熱量を持って愛し抜かなかったんだろう、ということ。本人的には最高出力だった、ということだろうか。

そんなに好きだったら、私がキスを求めたらそれにもっともっと応じていくものじゃないんだろうか。
そんなに好きだったら、セックスの時に何で私のことを一瞥もしなかったんだろう。目で会話がなされなかったし、私のことを積極的に求めることすらなかった。それどころか、私じゃ満足できないようなことも言ったのは、私が彼を本当には愛せなかった腹いせだろうか。彼がただ素直過ぎて、それ以下でも以上でもなくそのままの意味なのかも知れない。それはそれで悲しくて、無機質な言葉になってしまう。

そんなに好きだったら、どうして私のいうこということにいちいち反対して論破しようとしてきたんだろう。

今も、分からない。人は人を本当に好きになると、恋愛小説みたいな甘い感じのことをひとつもできなくなってしまうんだろうか。

彼は、自分をほぼ変えぬまま、ありのままに私を愛した、ということなんだろうか。
ありのままいられるから、彼にとっては私だったということなのか。

私は、彼のことを本当はずっと、好きになれなかった。好ましいところはいくつか見出せたが、頭で無理くり好きになろうと頑張って頑張って、無理だった。

たぶん好きになるというのは、知らぬ間に好きになっているもので
「好きになってもらったので、どうにか自分を曲げて好きになる努力をしよう。」なんてことは絶対まかり通らないのだ。

私は長年自分に嘘ばかりついて、たいして好きじゃない人としか付き合ったことがないんだと思う。

人を本当に好きになるってことが、全然分からない。だけど皮肉なことに、私の人生で最も大切なことは人を愛することだと、なんでか確信してしまっている。

嫌だけど、そんなことになる想定すら本当はないけれど、究極的には相手に愛されなくてもいいのかも知れない。

宙ぶらりんでなくて、本当に好きな人を

宙ぶらりんでなく、まっすぐ愛し抜いてみたい。

それが、私の本望だ。
それができぬなら世界一の富豪になっても、世界一の有名人になったり、ノーベル平和賞とか取っても死ぬ間際どうせ後悔してしまう。

どういう人なら本気で愛せるのか分からないのに探しようもないけれど、
私は私の命を全うすることだけにおいては責任があると思うから
だから出会えるならば、地球の裏側でも行って出会いたい。

全部投げ出してでも、会いたい。

やっとこういうことが言葉になったなと思う。

どんな格好つけた言葉より、本当の私の気持ちだろう。背中の下の方から熱さが込み上げてくる。

いつか、出会ってみせる。
そして、馬鹿みたいで見当違いで、かっこ悪くて、そんなことにすら気がつかないくらいにむちゃくちゃに、愛してみたい。

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