第39回「小説でもどうぞ」応募作品:うたかたの草原
第39回「小説でもどうぞ」の応募作品です。
テーマは「眠り」です。
これも難しいテーマでした。ふわふわしたイメージをなんとかつかんで書いた感じですね。
楽しんでいただけたらさいわいです。
うたかたの草原
寝る前に焚いていたお香が燃え尽きる。
芳しい香りが漂う部屋の電気を消してベッドに潜り込む。シーツはすこしひんやりしていた。
横になって目を閉じて、いろいろなことを考える。とりとめもない、つながりのないことをぼんやりと。
そうしているうちに意識を失った。私の一日はようやく終わったのだ。
気がつけば柔らかい草の上に横たわっていた。周囲で咲いている花が揺れ、時々視界の中に入ってくる。きらきらと輝く蝶が飛び交っていてのどかな草原だ。
ここは、私が夢の中で度々訪れる場所だ。他に誰もいなくて、ここにいれば誰からも攻撃されない。どこかノスタルジックで、けれどもいつも新鮮な香りがする場所。現実でどれだけつらいことがあってもここに来れば安心することができた。
柔らかい草の上で目を閉じる。爽やかな風が吹いて、草と花がさざめく音が聞こえる。心なしか日差しにも音があるような気がした。
爽やかな風と暖かな日差しに包まれて横たわっていると、体の痛みや疲れが溶けていくようだ。下手な医者にかかるよりもここに来た方がずっと良いと思えるほど快適だった。
この草原はいつだって私を受け入れてくれる。ひとりで暮らしている私を受け入れてくれる。正直言えば、実家よりもずっと居心地がいい。
ここが夢の中なのはわかっているけれど、その夢の中でさらに眠る。するとその夢の中で、私はまた草原にいた。柔らかい草に揺れる花、爽やかな風に暖かな日差し。夢の中の夢で見る草原も、私を癒やしてくれるものだ。
入れ子のように夢の中で眠りにつき続ける。どんどんと深い草原の中へと沈んでいく。今自分がどれくらい深い夢の中なのかはわからない。けれどもそのことに恐怖はないし、ただただ安心感だけがあった。
何層にもなった夢の中でかすかな鳴き声が聞こえる。その声を聞いて目を覚ます。そこはまた草原。周囲には花が揺れ何の変哲もない。
またかすかな鳴き声が聞こえる。また目を覚ます。そこはまた草原。周囲には花が揺れ何の変哲もない。
またかすかな鳴き声が聞こえる。また目を覚ます。そこはまた草原……
それを何度繰り返しただろう。少しずつ夢の階層を上ってきているのがわかる。
そしてまた夢の中で目を覚ますと、傍らに黒い犬がいた。
その犬は草と花をかき分けて、私の傍らで伏せをしている。その犬が起き上がって私の顔をのぞき込む。確認するように匂いを嗅いで、犬が私の顔をなめる。
くすぐったい。あたたかい。慈しむような感触だ。
けれど私にはその感触が不快だった。
私は知っているのだ。この犬はいつだって、私を安心できる夢の中から追い出そうとすることを。
鳥の声が聞こえる。目を覚ますとカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。いつも通りの現実の朝だ。
起き上がって部屋の中を見渡す。片付けられなかったゴミが散らばって荒れている。洗濯物も積み上がっている。
毎日終電で帰ってくるこの生活では、自分で自分の面倒を見ることすら難しい。それが部屋が荒れている言い訳だというのはわかるけれども、私にはこの生活で精一杯なのだ。
ベッドから降りて、カップ麺のゴミが積み重なっているテーブルの上から菓子パンを取って食べる。菓子パンの袋はカップ麺の陽気の中に詰め込んだ。
手早く着替えてメイクをする。それから、通勤用の鞄を手に取る。
今日もこのゴミ溜めみたいな部屋から仕事に行く。怠惰で人に仕事を押しつけることしか能のない人ばかりの、ゴミ溜めみたいな職場に行く。
アパートを出て駅へ向かう途中、公園の木が色づいているのが見えた。
いつの間にこんな季節になったのだろう。前にあの公園を見たときは、桜の花が咲いていたのに。
季節はめぐっていくのに、季節を感じられない単調で忙しい日々。そんな日々を過ごす私は、ほんとうに昼間、目を覚ましているのだろうか。ほんとうは眠っているのではないだろうか。
このゴミ溜めだらけのこの生活が夢で、あの草原が現実ならいいのに。
そんな胡蝶の夢みたいなことを思ってもどうしようもないのはわかっている。けれども今この現実を受け入れるのは耐えがたかった。
いっそのこと、ずっと眠っていられればいいのに。入れ子になっているあの草原の、ずっとずっと奥深くまで沈んでしまえればいいのに。
そこまで考えて、部屋に置いている薬袋のことを思い出した。
そうだ。今夜あの薬を全部飲もう。そうしたらきっと、草原のずっとずっと深くまでいける。
どこまでも深い草原の奥底に沈んで、もう帰ってこなくていいんだ。