朝食の風景
朝食の場面が好きだ。とりわけ、休日や旅先での朝食が。小説や映画なんかでその場面になると、ついつい食い入るように見てしまう。
平日のそれとは異なる、穏やかな時間。テーブルにはギンガムチェックの、あるいはまっ白のクロスがかけられ、塩やコショウが常備されている。そこに並べられる、トースト、スクランブルエッグ、ベーコン。窓からはやわらかいオレンジ色のひかり。私はそれらが本当に好きで好きで仕方がない。おなかが空くというより、たちまちぎゅっと幸福になってしまう。
なぜこんなに好きなのだろう。
きっと、ひとつに、メニューの顔ぶれがある。朝食のメニューは、一つひとつの品目が独立した料理として完結している。シンプルで、わかりやすく、なによりフォルムがいい。トーストは四角いままでも三角に切っても凛と美しい形を崩さない。卵料理はどう調理したってかわいくなる。ゆで卵も、スクランブルエッグも、目玉焼きも、オムレツも、みんなチャーミングを具現化したような見た目だ。ベーコンも横長でひょろひょろしていて愛おしい。時折みかける厚切りのものは猛々しくワイルドだ。ジュージューと音を立てながらフライパンで焼き上げられるそれは、起き掛けの胃に食欲を吹き込む。
それから、朝食を食べる人間も好きだ。もっと細かくいうならば、人間の状態と、人間同士の関係性。朝の人間は無防備で隙がある。まだ今朝みた夢の続きを引きずっている、独立した、とても個人的な生き物。それぞれが別の気配を纏っている。朝食は、誰かとともにしていても、昼食や夕食にはあるはずの、団欒や満面の笑みや突発的な笑い声の二重奏は、ほとんど存在しない。会話はまばらで、すべてが静かで平らかで、少しそっけない。それでいて、朝食はたいていが、特別な仲にある人間としか、ともにしないものだ。そのことがまた、私を惹きつける。
ちなみに、個人的な朝食の記憶として色濃く残っているのだが、幼いころ私には、休日の朝食にショールームの広告を丹念に見る習慣があった。おそらく新聞を読む両親の真似事だろう。新聞をポストからとってくるのは兄か私の役目で、新聞をまず父が、広告をまず母が読む(ある程度目を通すと交換する。兄はTVを観るか片手で広告をめくる母と話すかしていた)。母はその広告のなかからショールームの広告のみを選り分け、私に渡してくれた。私は戸建ての写真を眺めてはそこに自分たちが暮らす想像をしたり(マンション住まいだったので憧れていたのだ)、間取りを眺めては表記について両親に尋ねたりした。当然、当時気に入りの遊びはドールハウスで、毎日何時間でも遊んでいられた。熱心に小物を集め、切った古布をソファの下に敷き、部屋の模様替えに精を出していた。将来は建築家かインテリアコーディネーターになるのだと決めていた。
旅先での朝食で思い出深いものもある。母とのふたり旅で、泊まったホテルは千葉にありながらも地中海を思わせるつくりになっていた。若く美しいご夫婦が経営しているずいぶんと風変りなホテルで、異国の地のドレスを着用し撮影することができた(私たちは遠慮したが)。シーズンを外していたからか旅行客は私たちの他にはおらず、貸し切りだった。そこでの朝食が完璧だった。メニューは特別に手の込んだものではなかったが、どれも丁寧に作られており、ほんのりとやさしい味がした。トーストにバジルのソースが塗られていたことと、ぴかぴかに磨き上げられたガラス天板にうつる母の顔に、穏やかな笑みが浮かべられていたことを憶えている。
朝食が想起させるのはそんなとりとめのない、でも幸福な記憶の断片だ。朝食はいい。暮らしや旅とセットだ。将来、日曜日の朝に、家族ひとりひとりのリクエストにそって卵料理を作るのが、ささやかな夢だ。
明日はどんな朝食にしよう。たしかバナナが一本残っていたはずだ。ミルクは切らしていなかっただろうか。明日の朝食のメニューを考えながら、今夜は早く眠ろう。
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