川上未映子『春のこわいもの』を読んだ日の記録
川上未映子さんの作品はこわい。
川上さんの作品、とりわけ小説を読むと、ふだんは見えずに済んでいる他人のこわい(でも持ち合わせて当然の)感情が、自分の心の影の部分と同期し、牙を剥く。自分によるものか他人によるものか区別のつかない引っ掻き傷が残る。一種のカタルシスと安堵もセットで。
読めば苦しくなるから、たぶん人を選ぶ作品も多い。それでいて、人々が抱く各々の正義を等価値として描く姿勢が一貫しており、説教くさくない。私はそこに絶大な信頼を寄せているから、この人の小説になら傷つけられることも覚悟の上だ。
常々思うのだが、湧き上がってくる感情の種類も量も、飲み込んだ言葉の数も、飲み込んだ言葉が消えていくのにかかる時間も、人によってまったく異なるのだとしたら、私はこれまでもこれからも、目の前にした人をどれだけわかれるんだろう?
コミュニケーションという舞台で、思い込みと思い込みが上手いことかみ合って場が成立しているだけなのかしら、だとしたらそれはわかりあえたといえるのかしら、寸分のたがいなくわかりあえるのだとしたらそれはただの記号の交換のような気もするし、でもたしかにこの人とすごくわかりあえたと思える瞬間が、生きていると確実にあるよね、
と考える。
意識と時間を費やす対象が違えば、湧き上がる感情も、出来上がる思考も違ってくるはずで、とはいえある程度パターン化できてしまって(じゃないと心理学とか存在しないものね)、パターン化されたもののなかに類似を見出すか差異を見出すかはこれまた人それぞれで、本当に人間ってなんなのかしらね。厭世的にではなく、単純に事実として不思議に思う。
私は、川上未映子さんという作家を、人間同士のわかりあえたとわかりあえないの究極を描く才に溢れた方と位置付けている。日々、人とかかわる甘美さと危うさにいちいち圧倒され驚かされずにはいられない私を、肯定も否定もせずにいてくれる。
思春期特有のあれかと思っていた逡巡は、結局いくつになってもなくならないものだな。考えすぎだと他人から指摘されることも昔と比べて少なくなった。ナンプレでもして意識的に止めない限り、こうした思考は今日も私全体を駆け巡っている。
すこし風にあたろう。