稽古録14~どらま館・ハイ~
日時 2020/11/20・13:00~16:00
場所 早稲田小劇場どらま館
参加者 田村、片山、増田、森田、U-5(演出部・初のオフライン)
文責 U-5
稽古内容
読み合わせ
前回の読み合わせを受け、田村から若干の訂正と提案がされた。
まず、男と妻に関して。今まで夫婦は空元気的な、張りのある話し方をしていたが、もう少し落ち着きがあった方が良いのではないかとのこと。
女に関しては、セリフの中の「私」という言葉をカットして読んでみることになった。「言わない」といっても単に抜いてしまうのではなく「口では言わない」、心の中でのみ言う、ということである。自己を表す「私」は、女にとって一番大切な言葉だと思われる。それを無防備に出さず、大切に腹の内に留めるとどうなるのかという実験である。
また、本日は森田以外のコロスが欠席のため、森田がすべてのコロスのセリフを読むことになった。その際演じ分けをする必要はなく、全て「森田のコロス」として演じてほしい、とのこと。
以上を念頭に置き、読み合わせが始まった。換気の時間に田村の台本が風で飛ばされるというちょっとしたハプニングがあったが、稽古はおおむね順調に進んだ。どらま館は音の響きが良いため、役者たちの表情も心なしか生き生きしているように見えた。尚、田村の台本の一部は外に飛んでいったきり帰ってこなかった。
以下、読み合わせ後の感想である。今回の読み合わせでは「どらま館の音の響きが良くてテンションが上がってしまう。このハイテンションは『マッチ売りの少女』にそぐわないのでは」という声が多く聞かれた。空間も演技を構成する一要素なのだと気づかされる。
夫婦に関して
・夫婦はおそらく60歳前後。『生活を営んできた落ち着き』のようなものがあるはず。今回の読み合わせではちょっとはしゃぎすぎた。女という異分子の訪問でテンションは上がるものの、反応は年相応である、という意識を持ちたい。
・妻も、セリフのテンションコントロールがうまくできない。セリフにどれくらい役者の意図が出て良いのか、役の感情を表出させて良いのか分からない。今のところ観客がいないため役者が感じたままに表現しているが、本プロジェクトが上演されることになったらまた検討したいところ。
・妻が子どもの話をする時、男側から見るとひどくいたたまれない。亡くなった娘に対する捉え方は、夫婦間でも異なるらしい。
女に関して
・「私」を飛ばしてみても、(「それは私です」などのセリフ以外は)ある程度意味が通じる場合が多い。つまり「私」という言葉は意図的にセリフの中に組み込まれているということになる。
しかし、「私」は使用頻度の高い言葉であり、カットしてしまうとよりどころがなくなる。だからと言って「私」が解禁されたらどう言えばいいのかは分からない。女は「私」という言葉で自分の存在を確認してきた。それがなくなると、役者もどう言葉を出していいか分からなくなってしまう。
・男や妻などの聞き手目線では、「私」がないと女の言葉が「言わなくても良い言葉」、「言葉」以上の意味も価値も持たない「ただの言葉」になってしまうように感じた。
女は消えかけている存在だからこそ、「私」で自分を主張している。しかし、その主張から解放されることで、逆に存在が確かになったともいえるのではないか?「私」を取り払った女は「主張しないといけない存在」ではなくなった、「普通にいる存在」になった、ように思えた。
コロスに関して
・今日のコロスは全く消えそうになかった。どらま館のせいでいつもより気合が入ってしまう…。だからこそ、コロス1、3の扱いにくさに気付いた。コロス2は口語的で内容が暗いからトーンを落としやすい。強く言うことが想定されているであろう『トロイアの女たち』のセリフ(コロス1が担当)を儚く言うのは難しいのではないか?
言葉と言い方との間の距離、言葉が求めていない言い方でセリフを言うということについて、もっと突き詰めると面白いかもしれない。
・今回のコロスの声はいつもよりかなりハッキリしていたが、『姥捨』の言葉がハッキリ聞こえると、夫婦はドキッとする。娘をある意味で捨てた後ろめたさと、「自分たちも老いて捨てられる側に近くなっている」という事実に向き合わされてしまう。
稽古も大詰めを迎えているが、参加者たちに疲れのようなものは見えず、むしろエネルギッシュになっているようだった。明日の最終回でも何が起こるか、気を抜けないながら楽しみである。