『マッチ売りの少女』座談会(3)–「稽古録」回顧録–
11月に『マッチ売りの少女』を上演しようということで動いてきた本プロジェクトですが、covid-19の感染拡大に伴い上演を中止せざるを得なくなりました。しかし、そのような状況の中で11月22日まで「稽古」を続けました。これはその記録の総括の座談会です。稽古を通して、いまの状況のこと、戯曲のこと、役のことなど多岐に渡って思考/試行してきたことを参加者に語ってもらいました。第三回は稽古を記録して残す・公開するという普段はやらないことを行なった演出部が稽古録について話しました。
田村 じゃあ、次は稽古録について、演出部の3人に聞いていきたいかな。クロストーク形式でざっくばらんに喋ってくれると嬉しいなあ。
しば 気をつけたこととかある?
森田 内容が二転三転しないように、内容ごとにセクションを作ってまとめました。ごちゃごちゃしないようにって感じですね。最初は、稽古で出てきた普通の人はわかんないよなって言葉の解説を出典つきでやってたんですけど、疲れちゃいましたね…。
田村 「器官なき身体」とかだよね。
森田 それがなくなると何となく情報の羅列だけみたいになっちゃった。何の知識もない人も読んで、何となくわかるようにしたいなとは思ってましたね。完全な内側記録にしないように。
U-5 私も情報の羅列にならないようにしないといけないと思いつつ、それが難しいんですよね。あと、出典をつけたりするのは、ものすごく疲れるし、読む側も疲れるだろうなあ…って、私なら読まんって。だから、知識がない人も、感覚的に何となく理解できるような文章を心がけましたね。独りよがりになりたくないというか、受けを狙うというのもしたくないなあって思って書いてました。淡々とした文章もおもしろくないかなとは思うんですけど、狙いすぎも良くないかなって。文章を書いて公開するってことさえなんか独りよがり感があるんですよね。ただでさえそうなのに、さらに独りよがりな文章になるっていうのは…っていう思いがありました。
しば ブログとは違うんだよね。
U-5 ただ、「電波状況が悪くて〜離脱」みたいな閑話休題は入れるときもありましたね。「石田一時離脱」みたいな。
田村 ああ、あったね。
U-5 あれはちょっと狙っちゃった感はあったけど、抜けたときの「あっ」って感じもできれば伝えたいなって。
しば 脚本を解釈するっていう営みを稽古録に記載しないといけないってなった時、他の人たちの言葉が、どうしても私の言葉になっちゃうじゃん。そこでその人の気持ちにちゃんと添えてるかなっていうのは常に意識したかな。一回、稽古方針についてたむリン(田村のあだ名)が話てたのを書いた時に、私の思ってた意図とたむリンの意図が違うことがあったのね。
田村 10月の稽古を少し、間引こうって話をしたときだね。
しば そうそう。それ以降、「私の言葉で書く」っていう責任の重さも感じたし、その人の意図をちゃんと汲み取らないとなっていう気持ちになった。できるだけ、客観的にかけるように意識したかな。
U-5 確かに今みんなに見せたら、ちょっと違うって言われるかも。
田村 僕はそれが結構面白かったの。僕の冗談が真面目に取られて、稽古録に載っちゃうっていうのが結構あって。それはそれで僕の失敗というか、冗談か真面目に言ってる部分かって区別するのって結構難しいんだなって。だから、稽古で喋ることとか、普段よりも意識したかな。混乱が起きないように。例えば祖霊の話をしたときに、祖霊はおじいちゃんの霊、おばあちゃんの霊っていっぱいいるんじゃなくて、集合的に「祖霊」っていう存在で、お盆の時もナスの馬とか一つしか置かないじゃんって言ったけど、馬一つの部分は冗談だったんだよね…。あの馬の謂れとか僕は全然知らないの。ただ、そうなのかなあ〜って僕が感じてただけなの。でもそれが、稽古録で書かれてた(笑)
森田 その時の担当私ですね。
田村 でも、そうなるよなあ〜って思って。冗談ですとも言ってなかったし、「そうか、だから一つなのか!」ってなんか感動的な部分じゃん。それは稽古録の担当だけじゃなくて、役者とかにも誤解されている可能性もあるってことだから、気をつけるようになったね。相手に届くって大変だぞって。
U-5 怖さ半分、でも、開き直り半分ってところありますよね。これが私の稽古の解釈だ!っていう。
しば 確かに。私は、同じ時間を共有をした人が書いた文章を読むのが好きなんです。私はこう感じてたけど、あなたはこう感じたのねって感じで。だから、自分の感じたことを排除する必要もないと思ってた。
森田 ただの記録、「今日の稽古のまとめ」になっちゃうのが歯がゆくて。ラインとかで内々に共有すればいいようなことを、わざわざ公開するんですよ。それってどうなのって、思うところがあって。読み物として成立させて、noteっていうツールを使って投稿するのであれば、もっと私の意見とか考えとかも入れないとなと思んですけど、無理!考えられない…。
田村 僕も、公開する意味って何だろうって考えて。みんながジャーナリスト志望とかライター志望とかいうわけでもないしさ。これ以上3人に負担をかけさせて、内容の濃いものを作ってもらうのも違うなと思ったの。だから、公開する必要性はないんじゃないかなと思うことも正直あったの。でも、内容云々より公開することが大事かなと思ってるんです。
森田 まあ公開するからっていうハードルはありましたね。
U-5 背筋が伸びるっていうか。
しば 身内だけに見せるんなら、もっと内輪ネタも入るし、箇条書きになっちゃうよね。
U-5 ただの箇条書きとnoteでは頭の使う場所が違うんですよね。自分用のテスト対策ノートか、友達に見せる用のノートかの違いみたいな。
田村 このプロジェクト自体、誰にも気づかれないじゃん。上演しないし。だから稽古があった次の日ぐらいに、twitterにちょろっと現れるだけでも、あいつら活動してるっていう、ささやかな存在証明みたいになるよねって僕は思ってるの。演劇ってやっぱり、ささやかで、脆弱な活動だと僕は思っていて、演劇を見る人って日本の人口に比べたら、誤差みたいなもので、テレビとか映画を見る人の割合と比べても、ほぼゼロなの。そういう点で、演劇は絶対的な力のなさがある。じゃあ演劇は無力かというとそうでもない。演劇をやってるぞ、諦めてないぞ、考えてるぞって示すことそのものが、僕は大事だと思ってる。「演劇」を見せるのは大変だけど、「演劇をやっているらしい」を見せるのはちょっとだけハードルが下がるし、そこに演劇の力があるように思う。どれだけの人が読んでくれるかはわからないけど、更新したよっていうだけ、twitterに上がるだけで結構いいんじゃないかと思うんですよ。
しば 今までって、上演のために稽古していたから、こそこそ稽古していたイメージがあるんだよね。上演まで楽しみにしていてねって感じ。今回は上演しないから、何も包み隠さず全部書けたよね。そこの違いもあったかなと思う。
田村 なるほどね。ある意味、稽古録そのものが上演っていうイメージだよね。「演劇をやっていることを示す」というパフォーマンス(?)的なものとしては稽古録は良かったのかなとか思うんだよね。あと、これはちょっと聞きたかったんだけど、11月ぐらいから、しばいぬこさんの文体がポップになったんだけど、あれはどうしたの?
しば ええ、全然意識してなかった〜。中の人がポップになったからかも。でも『ネタバレ』って題で書いた時は、みんなに読んで欲しいって気持ちが強かったから、それで軽めになったのかも。
田村 それは3人の対比が取れてていいなあとは思ったんだよね。書き手の個性が見えてきたみたいな。
しば 3人いるから安心ってところもあったなあ。多分他の二人はそれぞれの目線で稽古をみるだろうから、私はそれならこういう目線でみようみたいなことができたかな。
田村 個人の判断って大事かなと思って、内容のすごい乖離とか、誤字以外は訂正しないように心がけたかな。ほら、台詞引用した方が良くない?って言ったこともあったけど、あれも個人の判断に任せても良かったかなって。
U-5 個人の判断っていうのも難しくて、ストーリーを知らない人とか、細かいところを知らない人とかが大半なわけだから、引用した方がいいのかとも思ったり…。だけど、引用を読まない人も一定数いるわけだし、長くなってしまうっていうのもある。今も、どうしたもんかなあと思うんですよね。
森田 「火の用心」についての稽古録で、手元に台本がない人は「火の用心」ってなんだ!ってなるじゃないですか。長い台本の中の一つの台詞なんですから。でも、一から説明するのも大変。どこまで読み手を突き放していいかなあという。
しば 私は、ある程度演劇に興味を持っている人がnoteを読んでくれてると思って書いてたなあ。
田村 「誰に向けて書くか」をもっと絞った方がよかったね。
U-5 「親が読んでわかるか」っていうのをちょっと基準にしてましたね。演劇サークルに子供が入っているけど、演劇に興味があるわけではない人ってことで。その基準をセーフしたり、アウトしたり…。
田村 なるほどね。個人的には、これからこの戯曲に取り組む人が、偶然見つけて読んでくれたら、みたいな感じで書いてたね。あと、10年後とかに再演する自分たちのため。まあ、10年後のことなんてわかんないんだけど。そういうちょっと長いスパンのための記録っていうイメージだったな。