演出ノート2〜幽か≠0

1、稽古録として
日時2020/10/28
場所 早稲田小劇場どらま館
参加者 田村 片山 増田 森田 石田 しばいぬこ

 現在、早稲田小劇場どらま館は稽古場として貸し出している。俳優が全員揃ったので、通して読み合わせをしてみることにした。以前稽古で提案した「砂の身体」という、身体に対する捉え方をまだ模索中ではあるが、実践しつつどらま館でテキストを読み合わせた。その結果を踏まえて、演出ノートを執筆する。

演出ノート〜幽か≠0〜

 幽かな身体というものを掲げてみた。そしてそれを演劇の上でいかに表現するかを思考/思考していた。「幽か」というのは生きているのか、死んでいるのか、そのすんでのところにあるような身体だという実感があり、それはつまり幽霊–死者と生者の間、あの世とこの世の間にある者–のように映るのではないかと思っている。

 我々は生きている人間だ。当たり前だ。演劇という行為を指すとき、演じている俳優は、観客よりも「より生きている」ということができる。「劇場にきてエネルギーを感じて欲しい」というような、演劇は生であることが一番という論理を説明する時によく見かける「エネルギー」という言葉がそれを如実に表しているし、腹式呼吸で大きな声を出すトレーニングや基礎体力、筋力トレーニングを積んで、舞台に立つ俳優の在り方も、舞台の上で俳優は「より生きている」者であるという考えがあるだろう。具体例をあげるなら、亡くなられた蜷川幸雄演出の諸々の舞台や、80年代の小劇場演劇、鈴木忠志の演劇でそれらは顕著に現れている。
 この俳優が舞台の上では「より生きている」という考えはどこからくるのだろう。一つには西洋演劇の特に悲劇の伝統的な在り方からだと私は思っている。悲劇の主人公は優れた人物にすべしというのはアリストテレスからから続く考えであり、巨大な運命を背負い、立ち向かうにたる人物でなければ悲劇の主人公に相応しくないというのだ。だから悲劇の主人公は運命を背負えるだけの大きさを備えており、俳優もそのように演じる。当然「より生きている」というような生命エネルギーや知性に溢れた優れた人物として舞台上では見えるだろう。
 またはそもそも「エネルギー」を称揚する風潮が60年代以降の演劇にあったからとも言える。「舞台は戯曲の再現」であるとする近代劇(新劇)に対するカウンターとして始まった60年代以降の演劇は、「舞台は戯曲の再現」ではないという立場であり、俳優の身体性が重視された。つまり観客は再現された戯曲の世界を見にくるのではなく、舞台の上に立つ俳優の身体を見にくるのである。
 この二つの条件のうちどちらかを持つ者、またはどちらともを持つ者(典型的なタイプは蜷川幸雄)らによって、日本の演劇史というものは編まれて来ているように思う。だからこそ不文律のように俳優は「より生きている」ものであるという考えが広まっているのだと私は思っている。

 そういうわけで日本の演劇というのは「幽かな身体」ではなく「確かな身体」を持っているということができる。では幽かな身体の演劇を作ることはできないのかと言われるとそうでもない。しかも、「確かな身体」は「幽かな身体」へと変わる契機をふんだんに内包しているのだ。そのことに気づかせてくれたのはベケットの演劇だった。

 ベケットの演劇は、自己の尊厳をギリギリまで剥奪されたような存在が度々舞台に登場する。『Not I』であったり『Play』であったり。これらはまさに幽かなる存在を舞台の上にあげることに成功していると言えないだろうか。しかし『Not I』にせよ『Play』にせよ、演技をする側は相当大変だ。訓練された技術を必要とする。残された映像を見るにつけ、ベケットの演劇は「確かな身体」を舞台上の制約(口しか見せない、壺に入れるなど)によって「幽かな身体」のようなものへと転化させているのではないかと私は考えている。

 だから今回もプロジェクターで台詞一つ一つを出して、前後の台詞がわからない中、写った台詞を読むようにするというような機械的な制約をつけてみたり、自分の体が最も脆い「砂のような身体」だと思って演技してみて、とか薄い氷の上を歩くようにとか、感覚上の制約をつけてみたりしている。我々が今まで慣れ親しんで来た演劇は「確かな身体」であることが自明であったため、このような混乱が新鮮な制約として俳優たちに機能していると思う。この機械的、感覚的な制約を通じて幽かな身体の演劇というものにたどり着きつつあるという実感がある。それはきっと、忘れられた民の幽かな、しかし切実な思いを消滅させないように現世へと届ける、「半透明だが長生き」なものになるだろうと予想している。

 そもそも、先ほど挙げた「確かな身体」の演技では舞台の上にのせることのできないような幽かな思いがあるのではないかと私は思う。大きく、強く、激しくでは表現できない、いまにも壊れそうな繊細なものがきっとあるだろう。「確かな身体」の舞台ではそれが忘れられてきたように感じるのだ。今回の上演台本では『マッチ売りの少女』の戯曲に、所々ギリシア悲劇の『トロイアの女』と能『姥捨』、別役実の『象』などのテキストを挿入しているのだが、それらの「幽かな」思いの部分が『マッチ売りの少女』に共鳴して、この戯曲が持つ文脈を上演しつつ開拓するというような形をとっている。ここでギリシア悲劇の『トロイアの女』を採用したのは西洋伝統の巨大な主人公としての演じ方では表現できなかったヘカベのそしてこれを書いたエウリピデスの思いを再生したいと目論んでいるからであり、『姥捨』も能の形式からはずして捨てられた老婆の悲しみを、様式を介さずに直接語ってみせたいからである。また『象』は『マッチ売りの少女』とともに60年代の別役戯曲の代表作であり、俳優の激しい身体性とそれを前提にするような読みがなされてきた。それを別の角度からやり直してみたいのだ。

 この演出ノートは本当に私のメモのようになってしまったが、「幽か≠0」という話をまだしていなかった。例えば人間の生きている度合いなるもの(0から100と考えてみる)があるとして「確かな身体」を100へ向かう身体だと考えると、「幽かな身体」は0へ向かう身体だということができる。制約の中で演技をしていると確かに演技は0へと向かう。しかし、もはや0になっているのではないかと思う演技になってしまうのである。生きている度合い0であるから、精神的にか肉体的にかはわからないがこれでは死んでしまっているのだ!これは「幽か」ではなく「0」だ。「幽か」と「0」は決定的に違う。「幽か」は生と死のはざまなのだから、「0」では決してない。「幽か」とは「0になりかけだが、0ではない」身体の在り方なのだ。

 中学校の時、反比例のグラフを習った。y=a/xというやつである。この時、xの値がいくら大きくなろうと絶対にyは0にはならない。0に無限に近づいて行くが、0になることはない。今回の「幽か」のイメージはこれだ。無限に0に引き寄せられるが、すんでのところでそれを引き止める、「生」へとつなぎとめる「何か」が存在しているのだ。もちろんそれは消えかけの蝋燭の炎のようにか細く、頼りない。しかし、砂のように脆い身体でありながら、そのか細く、頼りない「何か」を大切に大切に守りながら演技をするようになるだろう。ここで「何か」というのは命、魂、尊厳、個など様々なものが当てはまる。どれかひとつではなくそれらが見えない形で融合してから「何か」と表記してみたのだ。

 我々の生活は疲れる。先にあげた命、魂、尊厳、個といったものをすり減らされ生きている。いわば0に向かっている。すり減らされたくないから引きこもる。それは家にという意味ではなく、気のあう「無害な」人間たちだけでコミニティを作り、違う考えを持つものを視界の外に追いやる。TwitterをはじめとするSNSはその引きこもりのためには最適なツールだ。そのような「緩やかな精神の危機の時代」ともいえそうな現代において、演劇で何ができるか。古典作品のテキストを用いた演劇で何ができるか。「幽か≠0」という指標はその光のようなものを照らしてくれていると思っている。正直な話、いまの社会に何がしかの希望があるかと言われたら怪しいと答えるしかない。しかしながら「希望がない中でどうやって生きていくか」ということなら考えられるかもしれない。真っ暗な絶望しかない世界で絶望とともに生きるには?演劇はその問いを考えることができるツールなのではないかと稽古のたびに思う次第である。

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