第3話 マクンバ ①(無料版)
写真:フルミネンセ連邦大学越しに臨むグアナバラ湾
ブラジルでの留学生活が7ヶ月程経過しようとしていた時のことだ。僕の通うフルミネンセ連邦大学 [注1] はストライキ [注2] に突入して2ヶ月を過ぎ、僕は特にやることもなく、日常を想像と妄想で埋め尽くしていた。
留学する3年前、親の転勤でサンパウロに住んでいた時に僕は言語学を学んでいた。ソシュールやチョムスキー [注3] をはじめ、プラトンなどのギリシャの哲学者から人間のコミュニケーションを理論的に学び、僕たちにとって身近な言語が科学的に研究、検証されていることに多くの刺激を受けた。ポルトガル語という外国語を否が応でも生活の中で使用しなければならなかった当時の僕にとって、言語学を学ぶことがポルトガル語を習得する最大の近道だと思っていた。しかし、その単純な思い込みが後の僕をひどく苦しめることになるとはこれっぽっちも想像していなかった。
サンパウロから日本へ帰国した後、留学生として再びリオ・デ・ジャネイロの地に降り立った時も、僕は言語を学ぶことを選んだ。ポルトガル語の文法はもちろんのこと、ブラジルの文化、文章読解、翻訳スキル、ギリシャ史など、言語に関するあらゆることを吸収した。その中に言語学もあった。日本の大学も言語学を学んでいたが、それによって自分の考え方や物事の捉え方が一変してしまっていたので、再びポルトガル語で言語学を学べることに僕は興奮した [注4]。
フルミネンセ連邦大学での言語学の先生はストライキに積極的に参加する女性活動家であった。今回のストライキでも先頭に立って政府と交渉する、と授業中に熱く語っていた。「団交があるから次の授業は休講にさせて!」などということもあった。ブラジルでは教育者の社会的な立場が弱いため、このように積極的に活動する教員が多く、ブラジルが独裁政権だった頃の反省か、民主主義を持続させる、もしくは勝ち取るという意識を持つ学生も多くいる。今でも、各大学で学生運動が盛んに展開されている。
その女性教授のラジカルな思考回路は、そのまま授業にも反映されていた。理路整然と言語学のイロハを解説する彼女の授業はわかりやすく、気持ちの良いものだった。また、映画鑑賞を趣味とする彼女は、時に学生なら誰でも知っている映画の登場人物の言語行動を言語学的に解説することもあり、学生からの人気が高い先生だった。
ある日の授業で「概念とは私的なものなので多くの人が同じものを同じものとして認知するというのは不思議な現象だ」という旨の話が出たとき、僕が「日本の昔話に‟月をプレゼントする”という話がある」という話題を提供し、彼女の興味を引いたことがあった。
綺麗な満月の夜、男が横に座っている女に語りかける。
男「あの月をそなたにあげよう」
女「そんなこと無理に決まっている」
男「では、あの月は今からそなたのものだ。どうだ、これでこれからあの月はそなたのものなのだ」
「この会話の中で共に見る月」を女のものとしたことで、そうではないとしないかぎり、半永久的に月は女のものであるという話である。
「日本はさすが歴史のある国ね。感性も素晴らしいわ」
彼女に日本を褒められ鼻が高かった。僕は言葉や単語の裏に潜む概念やイデア [注5] と呼ばれるものに強く惹かれていった。そして次第に「人間は言葉で会話していないのではないか」と思うようになっていった。
[注1] フルミネンセ連邦大学(Universidade Federal Fluminense)はリオ・デ・ジャネイロ州ニテロイ市にある公立の大学。私立である僕の通っていた日本の大学となぜか昔から提携があり、毎年留学制度により2名の学生が派遣されている。フルミネンセ連邦大学で長年教鞭を執る教授は、僕の恩師の留学時にも教えていたようだった。
ちなみに、フルミネンセとは‟リオ・デ・ジャネイロ州の”という意味であり、リオ・デ・ジャネイロ州出身の人や物のことを指す。これがカリオカというと、”リオ・デ・ジャネイロ市の(物や人)”という意味になる。カリオカは日本で言う江戸っ子よりも遥かにカリオカであることに誇りを持っており、正直彼らの過剰な自尊心が面倒であることも多い。
[注2] ブラジル政府は財政難に直面すると教育に関する予算をカットするため、大学職員の給与が下がったり退職金が支払われなくなったりする恐れが生じる。そのため、公立大学では毎年のように教員によるストライキが行われている。この期間中は大学が機能しなくなるため、授業は休講となる。
[注3] ソシュールは近代言語学の父と言われる言語学者で、彼なしでは言語学はなかったと言っても過言ではない。言語学界では必ず学ぶことになる偉大な学者。チョムスキーは哲学者でもあり、アメリカ人学者としてベトナム戦争を痛烈に批判したことで有名。彼の言語学における功績はコンピューター・サイエンスの発展にも大きく貢献している。
[注4] ギリシャ語やラテン語によって発展してきた西洋の学問は、実は日本語で学ぶよりもラテン語の仲間であるポルトガル語で学んだ方がわかりやすいという側面がある。
[注5] プラトン哲学における根本的な考え方。僕たちが見ているものは本物ではなく、その奥に潜む真の姿を認識しているという。例えば、この世の中には‟直線”というものは存在しない。どんな直線も実際には真っ直ぐではなく、僕たちが‟直線”をイメージして、それを直線として認識しているだけである。
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