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「すごいですね」のひとことから、僕の嫌いな僕に出逢った話

ひさしぶりに地元の旧友と飲みに出てふと一息ついていた時のこと。
左脚を引き摺りながら歩く1人の男性と出逢った。
彼は「僕足が悪いから、基本的には座っていたいんだよね」、そんなひとこととともにやりとりがはじまった。

「君たちは地元の大学生?」「いや地元を離れた社会人2年目です」そんなやりとりからはじまった一瞬の出逢い。
実はこういうやりとりが好きだったりする。

「どうして僕の地元に?」と聞くと、富士山に登りに来たという。
日本三霊山(富士山、白山、立山)を踏破しようと決め、今回富士山に挑戦しているらしい。

それも今年の元日に大きな地震があった石川から、富士山に登るためだけに来てくれたという。

わざわざ来てくれたことが嬉しく思うと同時に、無意識のうちに「すごいですね」と言ってしまった自分がいた。
決して石川から来てくれたことに対して思ったわけではない。

ついさっき「足が悪くて基本的に座っていたいんだよね」と言った男性が富士山に登ったという事実に対しての「すごいですね」である。

障がい者就労支援に関わる身として、嫌な自分に会った気がした。

なぜなら「すごいですね」の背景には「障がいがあるのに」という自分の偏見に気付かされたから。

彼は「日本三霊山を踏破しよう」と決めて富士山に登っただけなのに、僕は「足が悪いのに富士山に登るなんてすごいな」と勝手に評価した。

無意識に出た「すごいですね」のひとことから、僕の根底に「足が悪いのに」とか「障がいがあるのに」と思っている自分がいることに気づかされた。


人は知らず知らずのうちに相手を評価している。
自分の中にある「普通」から外れたものを「すごい」とか「怖い」とかの言葉でくくり、勝手に好感も嫌悪感も抱く。
言い換えれば、『自分の価値基準で相手の可能性を勝手に決め、勝手に評価している』とも言えるだろう。

あくまでもそれは『自分にとって』の評価でしかなく、相手にとっては関係がないことなのに。


『障がいを特別なものにせず、誰もがそこにいていい社会にする』と謳う会社で働く身として、1番嫌いな自分に出逢った感覚を、ひさしぶりに味わった。

「障がいがあるから」とか「男/女だから」とか関係なく、誰もが等心大で居られる世界を作りたい自分にとって、許せない自分に気づかされた日。

特に何かオチがあるわけではないけれど、そんな自分が居ることをここに書き留めて、きちんと立ち返りたい。

『僕は自分の価値基準で相手の可能性を勝手に決め、勝手に評価していないか?』と。
『目の前の人の可能性を本当に信じることができているのか?』と。

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