静かな生きもの

朝早く目覚めて、窓を開けると涼やかな風が頬を撫でた。六月でも朝はまだ涼しく、心地よい。朝日をもう少し浴びようと外の景色を眺めていて、ある一点で目がとまる。
そこにあるのはもちろんいつもと変わらない景色のはずだった。けれどぽつん、と胸の中に何かが落ちる。

『実は、引っ越すことになったんですよ』

穏やかな顔で笑う初老の男性。
つい昨日まで、我が家のご近所に住んでいた人だ。
私の家から、その人の家はよく見える。

そうか、その家が空っぽなことを知っているから、こんなにもいつもの景色が寂しく感じられるのだとようやく気がついた。
カーテンはいつでもかかっていたし、ミニバンがないくらいでどこも変わっていないように見える。それなのに、その家はやけに静かだった。
初老の夫婦が住んでいるだけだったので、元よりうるさいということはない。それでも、人という主を失った家は静謐さが漂い、それ自体が何かの生きものに昇華されたような一種異様な空気を放っていた。

寂しいな。
呟いてみなくても、心の中ではまだぽつりぽつりと雨が降っている。こんなにも晴れた朝なのに。
そんな深いお付き合いをしていたわけではない。表で顔を合わせれば、「最近、暑くなってきましたね。今年の夏も猛暑だったら辛いですね~」と一言二言、言葉を交わす程度の仲だ。
私は、男性の穏やかな話し方や目尻の下がる笑顔が好きだったのだと思う。
いなくなってしまってから、こんなにも寂しいと感じるとは思わなかった。けれど、本当に?

もう一度、空っぽの家を見つめる。やはり物言えぬ生きもののようにじっとそこにいた。じっとこちらを見つめ返しているようにも思う。
──寂しい。
その訴えは、この生きものからあがっているのかもしれない。

主がいなくなってしまい、とても寂しい。
置いていかれた私は動けもしないのに、このままここで主の記憶だけを頼りに朽ちていくのを待つしかないのか。

当然、家が口を利いたわけではない。私の勝手な妄想だ。
でもシャッターの閉められたままの窓などは、目を開けたくとも開けられない様子に見え、壁に残った雨だれの後はその涙に見える。
誰かが、この箱を早く愛でてやれるといい。新しい家族がやってきて、「これからよろしく」と柱を叩いてやってほしい。
そうすればきっと、古い傷を持ったままでも彼は、再び『家』に戻れるのだ。
私にはそれを見守ることしかできないけれど、早くその日が来てくれるといいねと心の中で話しかけ、そっと目を逸らした。


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