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Reisende.01

いやなんだ。きみがいないと認めるなんて。

ずっと一緒にいてくれるって。あの言葉はうそだった?
きみの言葉を信じてここまできたのに。
何度心を折られ膝をつきそうになっても、
きみのその言葉があったから前へ前へと足を進めたのに。
それなのにどうして今、きみはここにいないの。

心を覆い尽くす闇に低い呻き声を上げ、ニヒツはその細い体を濡れた地面の上から苦労して持ち上げた。
まだ、冷たい雨は止まない。
雨のおかげであの酷い悪臭は大分薄まってはいたが、それでも深呼吸でもしようものなら途端に咳き込むような酷い大気が辺りを覆っていた。
ただ身体を起こすだけだというのに、関節という関節が悲鳴を上げている。
ついさっきまで右手に握っていたはずの剣は、一体どこにいったのだろう。
ああ、そうか。指の腱が切れたせいで掴んでいられずに落としてきてしまったんだ。左手じゃなくてよかった。

雨は傷ついた身体から容赦なく体温を奪い去っていく。早く火に当たらないと、誰に殺されるわけでもなくこの身体は動かなくなるだろう。
まだそれは許されない、と左手で掴んだ剣を杖のようにして立ち上がろうとして思い出した。

もう、いいのだ。
だってここにはきみがいない。

言うことをきかない手に布で剣を縛り付け、ふるう必要はない。
殺されるよりも先にその命を奪う必要はない。
生きながらえる、必要がない。

立ち上がろうとしていた気力は細く長い吐息とともに身体の外へと流れ出て、ニヒツは再び濡れた地面へと倒れ込んだ。
ビシャ、と泥の跳ねる音がする。
背中から倒れ込んだのがせめてもの救いだった。俯せだったならば、顔を横向ける気力もなくて泥で窒息死していたに違いない。
倒れた拍子に頬にかかったのは泥なのか、それとも己の血なのか、それすらもこの闇夜では見分けがつかなかった。しかし、血ならばもう少しあたたかくてもいいはずだと思いながら、くすんだ灰色の瞳を瞬かせた。
全身、ずぶ濡れだった。きちんと梳けばそれなりに見られる長い銀の髪も、今は惨めに濡れそぼっている。
疲れた。身体も、心も、回復の見込みなどないくらいに傷みきっている。

このままここで眠ったら、二度と目覚めないかもしれない。
それは甘美な誘惑だった。

もう、許してほしい。
私は充分に戦っただろう?

ニヒツの頬を、雨とも涙ともつかないものが伝い、落ちていく。
命を投げだそうとしているはずなのに、その左手にはまだ剣の柄が握られたままだった。
絶対になくさないと約束したものだ。
ニヒツでも片手で振れる細身の剣。その名を【Ihr<イーア>】という。
鏡のようによく光を反射する白銀の刃は、命ある者ならばよく刻んだ。いくつその身に命を呑み込んだかすでにわからないほどだと言うのに、まるで穢れを知らない処女のような美しさのある剣だ。
この剣がミチシルベになってくれると言われ、しっかりと重ねられた手の感触だってまだ鮮明に覚えている。
あの日、ニヒツを永遠の輪廻から切り離したのも、この剣だった。
これを捨ててしまえば、きっと忘れるだろう。
なんのために戦い、なんのために傷つき、なんのために涙を零しているのかさえも。
剣を捨てようとする指が震える。
諦めてしまいたいと心の底から願っているのに、そうすればもう二度と会えないこともわかっていたから。

もう一度だけ、導いてくれ。
いやなんだ。このままきみを諦めてしまうのが。

ぐっと剣の柄を握り締めた時、ふいに空が明るくなった。
雨夜の星だ。
きらきらと光り輝く小さな星々が、一つ、また一つと連鎖をするように光の道を示していく。

「……わかった、戻るんだな」

戦いではなく、かつて涙で灼いた喉からはみっともなく掠れた声しかでない。その耳障りな声音にニヒツは引きつった笑みを漏らした。
どこもかしこも役に立たないほどくたびれているのに、それでもまた立とうとする自分が滑稽で。

行こう。きみが待つ、その場所へ。

──D.S.


#小説 #長編小説 #ファンタジー


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