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第五話 過去の残した傷跡

──避けられない。

柔らかな笑みを浮かべた天使の像は、背丈が私の半分ほどもある。
それが台座からずれ、今まさに私の頭上へと落ちてこようとしていた。
ぶつかれば、それなりの怪我をするだろう。
痛みを覚悟し、私はささやかな抵抗をするように目をきつく閉じる。
その時──……。

「っ……触るぞ」

低い声が聞こえたと思った瞬間、腰に回された腕にすごい力で引き寄せられた。
息を呑む暇さえなく、もちろん頷くだけの余裕がはずもなく、私はただされるがままになっていた。

「千佳!」

青い顔で駆け寄って来る克己くんの顔を、ぼんやりと見つめる。
まだ、何が起こったのかよくわかっていなかった。
足元には、首に亀裂が入ってしまった天使の像が転がっている。

「千佳、大丈夫かい?」

やはり青い顔をした上総さんが、私の顔を覗き込んだ。
それにどうにか頷き返した時、私を抱いていた腕がそっと離れていく。
そうだ、この腕に助けられたのだ。
はっと後ろを振り返ると、

「了承を取る前にすまない」

彰雄さんは何事もなかったような顔をして立っていた。

「ありがとう、彰雄。事故に備えて呼んだわけではないけれど、助かったよ」
「気にするな」

上総さんに言い返す、というよりは彰雄さんは克己くんに向けて言っているように見えた。
それくらい、克己くんの顔には血の気がない。
むしろ、克己くんこそが像の下敷きになりかけたかのように。

「どこも怪我はないんだね?」

優しく肩に手をおかれ、ようやく意識が追いついて来た。

「はい、私は……。あの、彰雄さん」

向き直ると、彰雄さんはわずかに首を傾げる。

「助けてくださってありがとうございました」
「……手の届く範囲だっただけのことだ。怪我がなかったならよかった」
「はい、おかげさまで」

深く頭を下げようとすると、それはすぐに手で制された。
だから、せめてと笑顔を向ける。

「忍、この像は危ないから片付けておいてもらえるかい?」
「かしこまりました」
「それにしても……」

上総さんは珍しく眉間にしわを寄せ、像が置いてあった台座に視線をやった。

「……少しぶつかったくらいで倒れるなんて、そんな造りではないはずなのに」
「……上総様」

忍さんが何かを耳打ちすると、上総さんの眉間のしわはより深くなる。

「……そう。じゃあ、それでお願いするよ」
「かしこまりました」

なんの話がされたのかはわからない。
けれど、不穏な空気だけが広がっていた。
綾崎さんの指示で屋敷から使用人たちが転がったままの天使像の片付けにかかる。
大の男の人二人でも、苦労して持ち上げている様に今さらのように背筋が寒くなった。

「……怪我は、なかったんだな」

みんなの視線が、ぽつりと落とされた呟きで克己くんへと集まる。
大分顔色は戻っていたけれど、まだその面は白い。

「はい、どこも」

安心させたくて笑いかけると、克己くんは何かを言いかけ、けれど唇をきつく引き結んで踵を返す。

「あ、克己くん!」
「克己!」

私の声と上総さんの声が克己くんの背中を追う。
けれど克己くんは振り返ることなく、足早に庭を出て行ってしまった。
その後を、綾崎さんが静かに追っていく。

「克己くん……」
「……忍に任せておけば大丈夫だよ。少し心配ではあるけれど」
「はい……」

さっきは何を言いかけたの?
辛そうに伏せられた目が、頭から離れなかった。

「すっかり騒ぎになってしまったね」

テーブルの上にはまだ綾崎さんが用意してくれた様々なお菓子が残っている。
このままお茶会を続けるのは雰囲気的にも気持ち的にも難しいけれど、せっかくのお菓子はもったいない。

「うーん、そうだ。彰雄、少し持ち帰ってもらえないかな?」
「俺はかまわないが」
「それじゃあ、包んでもらうから」

よかった、と微笑みながら、上総さんは家の人に手際よく指示を出し始めた。
その様子からは、先ほどの不穏な空気は何も感じられない。
それとも、私が気にしすぎているだけなのだろうか。

結局、『少し』と言うには多すぎる量のお菓子を彰雄さんに持たせ、お茶会はお開きとなった。
八重の美しい桜は、短すぎたお披露目会に不満そうに風にその花を揺らす。

***

夜、いつもはとうに眠りについている時間だというのに、妙に目が冴えてしまって眠れなかった。
それに、あれから克己くんを見かけていない。
一体、どこにいってしまったのだろう。
ちゃんと家に帰ってきているといいのだけれど。

何度めになるかわからない寝返りを打ち、諦めてベッドから起き上がる。
少し外の空気を吸おうと廊下に出ると、ドアのすぐ目の前に克己くんが立っていて飛び上がるくらい驚いた。
それは克己くんも同じだったようで、ただでさえ大きな瞳を目一杯ひらいている。
けれどすぐに我に返り、慌てたように暗い廊下を歩いていこうとした。
何か用事があったのではないのか。
それをまた、言い出せないでいるのではと急いで声をかけた。

「克己くん、待って!」

思いのほか大きな声が出てしまい、ぎょっと克己くんが振り返った。

「夜なんだから大きな声を出すな」

そう言う克己くんの声も、そこそこ大きい。

「ご、ごめんね。けど……何か用があったんじゃないの?」
「別に」

用もないのに、部屋の前で佇んでいたりするだろうか。
それとも、私の部屋の近くに誰か他に用事のある人がいたとか。
可能性はあると思うけれど、またすぐ歩き出さないところを見ると、やはり私に用があるのだろう。
だから、「少しお話しない?」と私の方から誘ってみた。
思わずそう言いたくなるほど、克己くんの目は不安そうに揺れていた。

「話すことなんて……」
「眠くなるまで話に付き合ってもらえたらなって」
「……眠れないのか?」
「紅茶を飲み過ぎたのかも」

心配げな声に滲んだ後悔の色に気づいて、慌てて言い募る。
予想はしていたけれど、やはりまだ、克己くんは昼間のことを引き摺っているようだった。
どう話を振れば、克己くんが口を開いてくれるのか私にはわからない。
だから、廊下に出てドアを背に寄りかかった。
先に話す状況を作ってしまえば、付き合ってくれるような気がして。

「……上総みたいに色んな話は知らないぞ」

ぶっきらぼうな声だったけれど、克己くんは私と向き合う形で廊下の壁に背をついた。
どうやら、会話をしてくれる気にはなったらしい。

「上総さん読書家だもんね。克己くんは本は好き?」
「ものによる」
「それじゃあ、普段は何をしているの?」
「学校に行ってる」
「えっとそうじゃなくて……学校以外は? 家に帰ってきて何か楽しみなこととかはないの?」
「……ない」

脳裏に犬たちと戯れる無邪気な笑顔が浮かんだけれど、克己くんの返事は寂しいものだった。
どうして、この家の中ではあの笑顔が見られないのだろう。
ずっと、心の中に引っかかっている疑問だ。
会話を続けようとがんばってみたけれど、克己くんの返答は素っ気なく短い。
それに廊下は薄暗く静かで、声を小さくしても響く。
楽しく会話を弾ませるのにあまり適した場所ではなかった。
沈黙がしばらく続いてしまい、どちらも気まずい気持ちになりかけた頃、静かな足音が聞こえてくる。

「……こんな夜分に廊下で立ち話とは感心いたしません」

燭台の灯りを手に歩いて来たのは、綾崎さんだった。
綾崎さんは燭台を持つ手をやや下げ、直接灯りを私たちに向けないようにしてからゆっくりと近づいてくる。

「お嬢様、春とはいえまだ夜は冷え込みます。まだお眠りにならないならば何かお召し物を」
「あ、はい……」
「克己様、大切なご用事があるとはいえ、女性に立ち話をさせるのはいかがなものかと思います」
「……別に用事なんてない」

二人のやりとりを見守っていると、綾崎さんが私を振り返り、早く上着を着てくるようにと視線で促した。
それに頷き返し、急いで室内へと入り込む。
そうさせるだけの理由が、きっと綾崎さんにはあるのだろう。
上着を着て廊下に戻ると、克己くんの姿がなかった。

「あの、克己くんは……?」
「先に準備をされるとのことです」
「準備ですか?」
「眠れぬ夜の演奏会ですよ」

口元に微かな笑みをのせると、綾崎さんは私に向かって手を差し出した。
マナーの授業の成果か、反射的にその手を取ると「おや」と綾崎さんが少しだけ目を丸くする。
けれどすぐに、

「参りましょう」

私の手を引いてゆっくりと歩き出した。

綾崎さんに案内された部屋は、普段私は使うことのない部屋だった。
入ってみると中央に置かれたグランドピアノが目に入る。
そのピアノの前に、克己くんは腰を下ろしていた。

「克己様、お連れしました」

用意されていた椅子に座るよう促され、大人しく腰を下ろす。
綾崎さんが声をかけても、私が部屋に入っても、克己くんはちらりとも視線を動かそうとはしなかった。
ただ、何も置かれていないピアノの譜代を静かな目で見つめている。
綾崎さんが端に立ち位置を定めたとみると、ポーン、とピアノの音が響いた。
澄んだ一音始まったその曲は、物静かでけれど胸を掻き乱されるような痛みのある曲だった。
それは、今まで聞いたことのないような澄んだ音色のせいだったのかもしれない。
演奏が終わると、克己くんが手を鍵盤から下ろした。
曲の余韻を数呼吸分ゆっくりと味わってから手を打ち鳴らす。

「すごく、素敵だったよ! なんていう曲なの?」
「……ノクターン」

吐息混じりに言いながら、克己くんが椅子から降りた。
そして私の方をじっと見つめたかと思うと、頭を下げる。
あまりにその所作が美しいから、思わずもう一度拍手を贈った。
けれど、頭と上げた時、克己くんは嫌そうに顔をしかめていた。

「……なんで謝ろうとしてる人間に拍手なんだよ」
「えっ……あの、演奏が終わった後のお辞儀なのかなって……」
「違う」

大きくため息をつかれてしまったけれど、克己くんの表情はどこか柔らかい。
そのことにほっとしていると、

「昼は悪かった」

ぽつりと克己くんが呟いた。
ああ、ずっと言いたそうにしていたのはこれだったのだと、ようやくわかった。
克己くんの性格上、あの場で謝りたくてもそれができなかったのだろう。
だから、ひとりで私を訪ねてきてくれた。
でも、心の準備が整う前に私がドアを開けてしまったせいでまた言えなくなってしまって……。
それでもこうして言葉にしようとしてくれたことに、克己くんの優しさを感じた。

「克己くんのせいじゃないよ。それに怪我もなかったんだから」

天使の像は割れてしまったけれど、それを咎めたりするような人はこの九条の家にはいなかった。
謝罪が済むと、おもむろに綾崎さんが一歩足を踏み出す。

「それでは、私は先に休ませていただきます」
「え、忍……」
「お嬢様は克己様がきちんと、部屋までお送りしてください。いいですね」

有無を言わさぬ口調で言い置いて、綾崎さんは部屋を後にした。
二人で残されてしまうと、何を言い出せばいいのかわからない。
おそらく、克己くんは謝罪することだけが目的だったのだろうから、用は済んでしまっている。
かといって、謝罪も聞いたし部屋に戻ろうかというのも何か違う気がした。
今、この時にしか話せないことがある気がして、考えを巡らせる。

「克己くんはピアノはいつから……?」

結局、他愛のない会話しか浮かんで来ず、けれどどうせだからと話しかけた。
克己くんはきょとんとした顔をしたけれど、ピアノの椅子に座り直す。

「さぁ。気づいたら弾いてた。って言っても、最初はおもちゃのだけど」
「そんな小さい頃から! ピアノ、好きなんだね」
「……どうだろうな。よくわからない」

わからないと言うけれど、ピアノを弾いている時、克己くんはとても穏やかな顔をしていた。
それにあの音を聞けば、真摯にピアノに向き合ってきたのだということくらい私にもわかる。
それくらい、胸を打つ演奏だった。

「楽器が弾けるって素敵だね。私も、ピアノにしようかな」
「習えって?」
「何か一つくらいは……。華族の人ってすごいんだね。みんな何かしら楽器が弾けるだなんて」

言った途端、目を伏せられる。
何か気に障るようなことを言ってしまったかとどきりとしていると、

「どうせわかることだろうから、言っておく」

克己くんが低い声で話し出した。

「……俺は、九条の血を引いてない」
「え……?」
「俺は六歳の時、この家に引き取られた。だから、上総とも本当の兄弟なわけじゃない。あんたも、不思議には思ってただろ。俺の態度見て」
「それは……」
「何年、こんな気持ちでいるんだろうって自分でも思う。でも、忘れられないから」

苦しげに吐き出された言葉に、胸が痛んだ。
どんな事情で克己くんが九条家の養子になったのかはわからない。
けれど、克己くんはこの家で幸せを感じてはいないのだろう。
家族という言葉を頻繁に口にする上総さんを見ていると、もしかしたらそうした頑なな克己くんの心を溶かしたくてあえてそうしているような気すらしてきた。
上総さんの克己くんへ向けられる愛情は、実の兄のようどころかそれ以上にあたたかいものに私には見えていたから。

──『本当の家族』とは、一体なんなのだろう。

「だから、あんたも兄妹ごっこがしたいなら上総としろ。俺はそこには入れない」

入らないではなく入れない。
そう口にしたことに、克己くんは気づいているだろうか。
そんな些細な言葉尻に、本当は打ち解けたいと思っているという気持ちを含んでいるのだと思うのは私の勝手かもしれない。
でも、そうならいいと思う。

「……そろそろ、寝るか。明日も授業で朝早いんだろう」
「あ、そうだね。すっかり遅くなっちゃったし」

克己くんが腰を上げるのに合わせて、私も腰を上げる。
どうやら、綾崎さんに言われた通り、克己くんは私を送ってくれる気らしかった。
先だって歩き出した克己くんの背は、私よりも高い。
それなのに、この子が自分の弟なのだと思うと途端に守ってあげたいような気持ちが沸いてくるから不思議だ。

「克己くん?」
「……なに」
「私のこと、お姉さんって呼んでもいいんだよ」
「はっ?」

振り返った克己くんの顔は、それはもう嫌そうで。

「私も、家族ってなんなのかまだよくわからない。でもね? 上総さんや、克己くんと兄弟だって言われて嬉しかったの。兄弟、いなかったから。それだけじゃ駄目かな?」
「……自分だってわかってないくせに、俺にお説教するわけ?」
「そんなつもりじゃないんだけど……」

確かに、調子の良い話だとも思う。
急に言われても、つい最近来たばかりの私を姉と思えというのも難しい話だろう。
何せ、もう十年ちょっと一緒に暮らしている上総さんすら、兄と認められていないのだから。
内心で苦笑していると、短いため息が降って来た。

「あんた、もう少し顔に出ないようにした方がいいんじゃない」
「え……そんなに顔に出てる?」

慌てて頬に手を当てると、小さな笑い声が聞こえる。
その笑みにはっと目を瞠った。
間近で克己くんが笑うのを見たのは、これが初めてかもしれない。

「……一応、考えておく」
「う、うん! ゆっくりでいいからね」

克己くんが背を向けて歩き出す。
その背中が、さっきよりも身近なものに感じられるのは、それこそ勝手な思い込みだろうか。

***

お茶会から数日が経ち、桜の木もすっかりと青々しい葉を茂らせている。
日々の移り変わりは早いものだと老成したことを考えながら、庭で休憩している時だった。
犬の鳴き声が聞こえ、何気なく声のした方に視線をやる。

「あ」

門扉の向こう側に、長身の影を見つけて思わずベンチから立ち上がった。
彰雄さんは私には気づいておらず、二匹の犬を連れて歩いて行く。
どうやら、弁慶と義経はその彰雄さんが連れている犬に向かって吠えたらしい。
先日のお礼もちゃんと言えていない。
慌てて彰雄さんを追いかけて、私は門の外へと踏み出していた。

「彰雄さん!」

歩くのが速いのか、彰雄さんの背はすでに大分小さくなってしまっている。
走ってその背を追いかけながら、声をかけた。
彰雄さんではなく、彰雄さんが連れている犬たちが私に気づいてわんわんと声を上げる。

「どうした」

彰雄さんがその犬の頭を撫でている間に追いつき、もう一度名前を呼んだ。
すると、ようやく彰雄さんが私を認識してくれたらしく、目を数回瞬かせた。

「どうした」

犬に話しかけたのとまるで同じ口調に、少し笑いそうになってしまう。
それを強いて抑え、できるだけ丁寧に頭を下げた。

「先日はありがとうございました。その後、お礼を言えていなかったので……」
「……ああ。いや、こちらこそ大量の食料をもらって助かった」

むしろ、あんな量を渡されたら困りそうなものなのにと、思い出して笑みが漏れた。

「可愛いですね。名前はなんて言うんですか?」
「右からアカ、シロ、クロだ」
「……覚えやすそうな名前ですね」

見た目も名前の通り、赤毛に白毛、黒毛の犬だ。
おそらく、名付け親は彰雄さんだろう。
三匹のうち、赤茶の犬が盛大に尻尾を振って私に愛想を振りまいてくれる。
それが可愛くて頭を撫でると、すっと横に白い犬が並び「撫でてもいい」とまるで許可するように頭を下げた。
それが可愛らしくてやはり撫でると、最初は唸っていた黒い犬も横に大人しく並ぶ。
三匹一遍に撫でるのはなかなか難しかったけれど、犬を飼ったことのなかった私には新鮮で嬉しかった。

「……珍しいな、クロまで懐くなんて」
「そうなんですか? みんな行儀が良くて可愛いです」
「そうか」

私が一頻り犬と戯れている間、彰雄さんは暇だろうにじっと待っていてくれた。

「……帰ってきてくれてよかった」

突然、ひとり言のように呟かれた言葉に顔を上げる。
彰雄さんは淡い微笑を浮かべていて、その表情に何故か上総さんを思い出した。

「もしかして……彰雄さんも、小さい頃私に会ったことが……?」
「ああ。上総がいつも連れていたからな」
「そう、だったんですか……」

私は、何も覚えていない。
幼かったのだと言われればそれまでだけれど、みんなの記憶には私の姿があるのに、私にはみんなの記憶がないことはやはり寂しかった。

「変なことを聞くようですけど、私ってどんな子供でしたか……?」
「そうだな……。多少お転婆だったかもしれない」
「う……」
「上総にくっついて離れない、照れ屋なところもあった。よく見れば、今も面影がある」

じっと温かい視線を向けられて、少しだけ照れてしまう。
けれど本当に、私は九条の家に存在していた。
それが彰雄さんの口から語られることではっきりと形を持ち、心中は複雑だった。

「上総もよく可愛がっていて……」

一度言葉を切ると、もう遠くに小さく見える程度の九条家を、彰雄さんは目を眇めて見る。

「……お前がいなくなってしまった時は、見ていられないほど落ち込んでいた」
「…………」
「上総が少し目を離した隙だったというから、責任も感じていただろう。誰もあれを責めはしなかったが、それでも……辛かったと思う」

過ぎ去った過去を語る彰雄さんの口調は淡々としていた。
だからこそ、まだ完全に終わったことではないのだと生々しく感じられる。

「だからというわけではないが、上総の世話焼きは大目に見てやってほしい」

上総さんが深く傷つきそして徐々に立ち直っていく様を、彰雄さんは横でずっと見てきたのだろう。
思いやりに溢れた言葉に、笑って頷いた。
まだ自覚はない。けれど、すでに九条家もその中の人々も私にとって大切なものになりつつあった。

「そういえば、もう外出許可が出たのか?」
「あっ! いえ、そういうわけでは……」

九条家の外壁に面した道にいるとはいえ、ここは屋敷の外だ。
急いでいたから、外に出ないようにという言葉どころか外に出たという意識すらなかった。
慌てて引き返そうとすると、彰雄さんが一歩歩み出る。

「屋敷の中まで送ろう」
「いえ、すぐですから」
「しかし……」
「本当に、大丈夫です。それに走って行きますから」
「…………」

気にしている様子の彰雄さんにお辞儀をして、もう一度犬たちの頭を撫でてから走り出す。
走れば数分もかからない程度しか離れていない。
けれど、私が屋敷内にいないと気づいたらきっと、みんなに心配をかけてしまうだろう。
はしたないと言われない程度に裾を乱しながら、走った。
すぐに門が見えてきて、ほっと安堵の息をつき足を緩めた時──……

「っ!?」

横から伸びてきた手に口を塞がれ、あっという間に両腕を後ろに拘束されてしまった。
叫び声を上げようにも、手袋の嵌められた手は完全に私の口を塞いでおりくぐもったような呻き声しか出ない。

「大人しくすれば、危害は加えない。……必要以上には」

聞き覚えのない声だった。
どこか奇妙な発音の言葉にぞっとした。
脳裏に、街で襲われた時のことが思い浮かぶ。
また、あの人たちなのだろうか。
どうにか拘束を解こうと暴れると、正面からもうひとり、長身の男性が私へと歩み寄る。
髪も瞳も黒かったけれど、その顔立ちはやはり日本人よりも彫りが深い。
そして、驚くほど整った顔をしていた。
その人は恐怖に目を見開いている私に向かって柔らかく微笑みかけ、

「こんにちは、カチオーナク」

美しい微笑を浮かべたまま、拳を私の腹部へと打ち付けた。
激しい痛みを感じるよりも先に、視界が暗くなっていく。
ここで私がいなくなったら、また上総さんに辛い思いをさせてしまう。
二度もそんな想いをさせるなんてそんなことしたくない。

けれど──……
私の願いは届かない。

つづく

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