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第二話 伯爵家の娘

九条伯爵家の娘として、これからここで暮らしていく。

今日あった出来事はお芝居の中のことのようで、現実味がまるでなかった。
用意してもらっていた部屋は、お母さんと二人で暮らしていた質素な家とは比べものにならないほど豪華で、部屋にひとり残されると居たたまれない。
繊細な刺繍をあしらわれたベッドカバーの上に腰を下ろす気にはなれず、アンティーク風の椅子を引いて慎重に腰を下ろした。

これから、どうなってしまうのだろう。
いつ、元の家に帰れるのだろうか。
私が伯爵家の娘だなんて何かの間違いじゃないのか。
私を追っていた外国の人たちはなんだったのか。

わからないことばかりで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
今日はこの部屋に泊まるのだろうかとベッドを振り返り、布団を懐かしく思う。
そして、泊まるのではなくこれからここで暮らせと言われたことを思い出し、またため息が漏れた。
そのため息を聞きつけたように、そっとノックの音が響く。

「……はい」
「お嬢様、お食事の準備が整いました」

ドアの向こう側から聞こえてきたのは、綾崎さんの声だった。
食欲はまるでなかったけれど、せっかく用意してくれたものを断るのは申し訳ない。
外には聞こえないようにそっと吐息を吐き出してからドアを開けると、綾崎さんは廊下の横で待っていてくれた。

「お待たせしました」
「……恐れながら、お嬢様。九条家の一員となられたからには、お嬢様は私の主人でもあります。どうぞ、今後は私に気を遣っていただかないようお願いいたします」
「え……」
「お手をこちらへ。ご案内いたします」

断られるほどの気遣いをした覚えもなければ、差し出された手の意味もわからない。
私は食い入るように、手袋のはめられた綾崎さんの手を見つめてしまった。

「どうかされましたか?」
「あの……支えていただかなくてもひとりで大丈夫です」

今度は、綾崎さんが私の顔を見つめる番だった。
綾崎さんは口元に微笑を浮かべたまま、眼鏡の奥の切れ長の瞳をわずかに細める。
作りものめいたその微笑はどこが居心地が悪く、そっと目を伏せた。

「……承知いたしました。それでは、旦那様のご説明の後、おいおい覚えていただきます」

今はやめておく。
そう言われたのだと理解したのは、綾崎さんが数歩歩き出してからだった。

「お嬢様、皆様がお待ちです」
「……すみません」

慌てて頭を下げてから、私は綾崎さんの後を追いかけた。

食堂に入ると、すでに九条さんと上総さん、克己くんが長いテーブルを挟んで座っていた。
用意されている料理の数から、あとは私が座るだけだとわかる。
綾崎さんに椅子を引かれ、克己くんの横に座りながらふと不思議に思った。
どうして、この場にあの写真の女性はいないのだろう。
そもそも、私がこの屋敷に呼ばれた時も、なぜ写真での再会だったのか。
あの時はお母さんと血が繋がっていなかったことの方が大変で、疑問に思うほどの余裕がなかった。
けれど、落ち着いて考えてみるとおかしい。
誰かに問いかけようと顔を上げると、正面に座っている上総さんと目が合った。
すぐに柔らかい笑みを向けられ、私もつられて笑顔を浮かべる。

「冷めないうちにお食べ。うちの料理はちょっと評判になるくらい美味しいから」
「本当においしそうですね」

食欲がなかったはずなのに、乳白色のスープから立ち上るまろやかな香りにお腹が鳴りそうになる。

「よかったね、忍」
「え?」

上総さんが、背後に控えている綾崎さんに声をかけたのに、首を傾げた。

「勿体ないお言葉です」
「この料理は忍が用意してくれたんだよ」
「そう、なんですね……」
「仕事が多いからいつもというわけにはいかないけど、特別な時にはいつもお願いしてるんだ。だから、冷めないうちにお食べ」
「はい、いただきます」

横に用意されていた銀色のスプーンでスープを掬い、そろそろと口元に運ぶ。
一口飲んだ瞬間、お世辞ではなく「美味しい」と声が漏れた。

「すごく、美味しいです!」

上総さんと綾崎さんの両方に向けて言うと、二人に少し笑われてしまった。

「やっと、笑ってくれたね。この家に来てからずっと悲しそうな顔をしていたから、心配していたんだよ」
「……すみません」
「無理もないから、謝らなくていい。でも、笑顔になれることがあってよかった」

心から私を心配してくれていることが伝わり、胸が痛くなる。
自分のことばかり考えて俯いていたけれど、よく考えればこの家の人たちにとっては失ったと思っていた娘が戻ってきたのだ。
嬉しくないはずがない。
それが自分のことだという自覚はなくても、それくらいはわかる。
どう言葉で伝えたらいいかわからなかったので、私は唇を笑みの形にしてただ笑った。

食事を再開して気づいたけれど、先ほどから話すのは上総さんだけで、九条さんも克己くんも黙々と食事をしている。
綾崎さんは給仕をしているからまだわかるけれど、どうして二人は一言も話さないのだろう。
不思議に思っていると、九条さんが初めて口を開いた。

「千佳、明日からは綾崎をつける。しっかりと学びなさい」

詳しい説明があるのだろうとそのまま待ってみたけれど、九条さんは私に向けた視線をすでに食事へと戻している。
そういえば、綾崎さんが九条さんから説明があった後からどうという話をしていた。
たぶん、今の一言がそれなのだろうけど、簡潔すぎて説明の意味をなしていない気がする。
もう少し説明をしてほしいと思いはするものの、わずかに眉をしかめた九条さんの様子を見ていると、声をかける勇気はどこかへ消えてしまう。
明日から、何を学ぶというのか。
わかったのは、本当に明日もこの家にいるということだけだった。
明日のことは明日になってみればどうにかなる。
仕方なく何を学ぶのか聞くことは諦めて、その代わりではないけれど、あの写真の女性について聞いておこうと私は口を開いた。

「少し、お伺いしてもいいですか?」

誰に聞いたらいいのかわからず全員に話しかけるつもりで言うと、半ば予想していた通り、頷いてくれたのは上総さんだけだった。

「わからないことだらけだろうから、何でも聞くといいよ」
「ありがとうございます。あの、先ほど見せていただいた写真なんですが……」
「ああ、母のだね」
「はい。その方は今どこにいらっしゃるんですか?」
「…………」

上総さんの顔から、ずっと浮かべられていた笑みが消えた。
それを見て、この質問はしてはいけなかったのだと理由はわからないけれど理解した。
まるで空気の密度が変わってしまったかのように、食堂の中が急に息苦しくなる。
今、質問を取り下げればどうにかその場を取り繕うことができるのではと、慌てて口を開こうとした時、ずっと黙っていた克己くんが席を立った。

「ご馳走様」
「克己、もういいのかい?」
「もう食べ終わってる」

確かに、克己くんのお皿は綺麗に片付いている。
けれど、ひとりだけ先に食堂を出ようとすることに驚いた。
うちでは、自分が食べ終わってもお母さんが食べ終わるまでは待つのが当たり前だった。
そうしないと、ひとり食卓に残される人が出てしまう。

「……なに」
「えっ……あ、いえ……」
「……人の顔まじまじと見てる暇があるなら、さっさと食事済ませれば?」
「克己! そんな言い方しなくてもいいだろう。千佳はこの家に来たばかりなんだから、もう少し優しくしてあげたらどうかな」
「腫れ物に触るみたいに?」
「っ……誰もそんなことは言ってない。とにかく、せめてみんなの食事が済むまで座っていなさい」

克己くんは上総さんに言われてもきつい視線を返すだけで座り直そうとはせず、結局そのまま食堂を出て行ってしまった。
私に当たりが強いのは仕方ないにしても、兄である上総さんへ向けられた視線の強さに胸がざわつく。
兄弟仲がよくないという一言では片づけられない壁のようなものが、そこにはあった。
それに、立ち去ってしまうまで、克己くんは一度も九条さんと会話を交わしていなかった。

この家族は、どうなっているのだろう。

私が知っている『家族』とは何か異なっているような、そんな気がした。

***

翌朝、私は綾崎さんのノックの音で目を覚ました。
昨夜なかなか寝つけなかったせいか、目が覚めた時にはいつも起きている時間を一時間以上過ぎていた。
慌てて身支度を整えドアに向かうと、綾崎さんは手に布で包まれたものを持って待っていた。

「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます。遅くなってしまってすみません」
「……問題ございません。お湯などは問題なくお使いになられましたか?」
「お湯……あ、いえ、お水で……」

私の泊まった部屋には贅沢にも水道が引かれていて、そこでさっと顔を洗ったところだった。
綾崎さんは一瞬室内に目をやり、すぐにまた視線を戻した。

「お召し物はこちらをお使いください」
「……ありがとうございます」

昨日の夜も、袴のままでは寝づらいだろうと服を借りていた。
色々とよくしてもらえるのは有難かったけれど、寝間着も、おそらく今渡された服も私には見合わない高級なもので気が休まらない。
しばらくここにいるようなら、一度自宅まで服を取りにいけたらいいのに。
そう思うと同時にお母さんの顔が浮かび、ずきりと胸が痛んだ。

いただいた服は白いブラウスに淡い色のスカートで、とても品の良いものだった。
選んでくれたのは上総さんだろうか。
綾崎さんは律儀にも私の支度が終わるまで廊下で待ち、昨夜と同じ食堂へと私を案内してくれた。
朝食の準備が整っていると聞いていたのだけれど、食堂には克己くんがひとりいるだけでち辺りを見回してしまう。
しかも、克己くんはすでに食事に手をつけていた。

「……すみません、私やっぱり寝坊してましたよね」

後ろにいる綾崎さんにこっそり言うと、

「旦那様と上総様は仕事で朝がお早いため、食事は別となります。克己様は気が向いた時のみいらっしゃるので、お時間は特に決まっていません」

淡々とした返事をされた。
仕事で時間がずれるというのはわかるけれど、気が向いた時だけご飯を食べるというのは私には理解できない。

「お嬢様も時間を変更なさりたい場合はおっしゃってください」
「い、いえ、私はいつでも大丈夫です」

昨日と同じように克己くんの横に座り、ひとまず挨拶をしようと横を向いた。
その途端、克己くんが立ち上がる。

「ご馳走様でした」
「えっ……あ、あの……」
「……なに」
「なにって言うか……おはようございます……」
「…………」

克己くんは無言のまま私を見下ろした後、ふいと背を向けた。
挨拶もしてくれないなんて。
何も私が食事を終えるまで待っていてほしいと言ったわけじゃない。
唖然としている間に、克己くんはドアの方へと歩いて行ってしまった。
けれど、食堂から出る前に、綾崎さんに呼び止められる。

「克己様、本日の授業は午後からでお間違いございませんか」
「……全部覚えてるくせに何の確認なわけ」
「ご予定が変わっていないかの確認でございます」
「あ、そ」

またすぐに歩き出そうとした克己くんだったけれど、綾崎さんが前に出てそれを遮った。

「……忍、邪魔なんだけど」
「申し訳ございません。少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「いいも何も、話聞くまでどかないんだろ」
「…………」

綾崎さんは口元の笑みを深くすると、一度私の方を振り返る。
すっかり部外者な気持ちで二人を眺めていたため、どきっとした。

「本日より、お嬢様の教育が始まります」
「だから?」
「専門の教師をお呼びするもの以外は私が担当いたしますが、ピアノに関しては克己様にお願いするようにとのことです」
「……上総か」

吐き捨てるような物言いに、はっとする。
今、克己くんは確かに上総さんのことを呼び捨てにした。
それも、ひどく嫌そうに。

「どうせ楽器なら何でもいいんだろ。それなら忍が教えればいい」
「しかし……」
「俺は教える気なんてない。……そもそも、この家で弾く気もない」

早口に言うと、克己くんは綾崎さんを押しのけるようにして食堂を出て行ってしまう。
乱暴に開けられたドアを、綾崎さんはことさら丁寧に閉めたように見えた。

昨日、聞けなかった『学ぶこと』は、食事が終わるとすぐに何のことかわかった。

「午前中いっぱいはこちらの九条家の歴史について書かれた書籍に目を通していただきます。昼食後、午後からはダンス、語学の予定です」

机と本棚しかない部屋に連れて行かれたかと思うと、私の目の前にうずたかく本が積まれていく。
これが、九条の娘として学ぶことなのかと思うとぞっとした。

「楽器については何かご希望がございますか? もしすでに嗜んでらっしゃるものがあればそちらをご用意いたします」
「いえ、嗜むも何も……」

そもそも、どうして楽器の演奏まで習うのか私にはさっぱりわからない。

「旦那様がチェロ、上総様がバイオリン、克己様がピアノを習得されております。何かご興味のあるものはございますか?」
「あの……楽器も、九条の人間として覚えておくべきことなんですか……?」

おそるおそる問いかけると、綾崎さんの目がすっと細められる。
口元には笑みが浮かべられたままなので、余計に怖い。

「九条伯爵家の人間としてどこに出しても恥ずかしくないような教育を。というのが旦那様のご希望です」
「はぁ……」
「今後、お嬢様には社交界やダンスパーティーなど多くのお誘いの声がかかるはずです。今から学んでいただくことの多くは、そうした場で必要となる言わば基礎のようなものだとお考えください」

基礎、と言われて積み重ねられた本を思わず見つめてしまう。

「楽器に関してはしばらく保留といたしましょう。まだお嬢様がお戻りになられたことは公にされてはおりませんので、いくらか時間もございます」
「……私は、本当にこの家の人間なんでしょうか」

綾崎さんに聞いても仕方ないことだとは思ったけれど、問いかけずにはいられない。
それほど、私が育ってきた環境とは何もかも違いすぎた。
お母さんや怜二に迷惑がかかると言われてこの家に留まることにしたけれど、どうしても自覚がわかない。
たぶん、無視されるだろうと思った問いかけに、綾崎さんは意外にも答えをくれた。

「私には真実はわかりかねます。けれどあなたは……佐保様によく似ておいでです」

どこか懐かしそうに見つめられ、綾崎さんの目が私ではない誰かを見ているのだとわかる。
おそらくそれは、あの写真の女性だろう。
あの人は佐保という名前なのか。
佐保、佐保さん。
心の中で名前を呼んでみたけれど、私の中には綾崎さんが見せたような懐かしさは少しも生まれそうになかった。

綾崎さんによる九条家にふさわしい人間になるための教育は、夕方まで続いた。

「疲れた……」

初めて習ったダンスのせいで足は痛いし、急に詰め込んだ知識はすでに頭から抜け落ちていこうとしている。
部屋の中にいると息が詰まりそうで、私は中庭に置かれていた椅子で休むことにした。
それにしても、と思う。
華族と言えば華やかで優雅な世界だとばかり思っていたけれど、とんでもない。
これだけの努力をしてやっと、その世界では生きていけるのかと思うと今までの自分の偏見が恥ずかしかった。

午前に学んだ内容で、九条家の成り立ちと現在の立ち位置のようなものは、ぼんやりとではあったけれど理解したつもりだ。
九条家は、明治になってできた新華族ではなく、古くからその家柄を守ってきた名門中の名門だった。
知れば知るほど、自分が九条の血を引いているとは思えない。

明日も、それ以降もずっと、こんな生活が続くのだろうか。
夕食までは休憩にしていいと言われたけれど、あの冷え冷えとした食堂にまた行くのかと思うと空腹でも気乗りしなかった。
お母さんの焼いた、卵焼きが食べたい。
なんの変哲もないものだけれど、ふわふわしていて少し甘いあの味が、無性に恋しい。
それに、私が逃げてしまった後、怜二はどうやってあの人たちから逃れたのかをまるで聞いていない。
どこか怪我をしていないかが心配だった。

「……帰りたい」

誰もいないだろうと思って呟いた声はしかし、庭を通りかかった克己くんに聞かれてしまった。
克己くんは今学校から帰って来たところらしく、学生服を身にまとっている。

「あの、今のは……っ」

慌てて否定しようとしたけれど、真っ直ぐな瞳に見据えられて口を閉じる。
言ってしまったことは取り消せないし、嘘をついたわけでもない。
言葉を呑み込んだまま見つめ返すと、克己くんはふっとその視線を門の方へやった。

「門のところ不審者がいたけど、あれあんたの知り合い?」
「不審者、ですか……?」
「今、忍が捕まえてる。……千佳ってあんたじゃないの」
「!」

慌てて走り出した私に道を譲るように、克己くんが脇に避ける。
その横を通り過ぎようとした時、

「帰れる場所があるなら帰ればいいのに」

どこか傷ついたような声音が聞こえた。
反射的に足を止めたけれど、克己くんはすでに屋敷に向かって歩き出した後だった。
今のは、私に向けられた言葉だったのか、それともただのひとり言だったのか。
まだ出会って間もないものの、克己くんらしくないと感じた声に戸惑ってしまう。
けれど、門の方から揉めるような声が聞こえて、私は慌ててまた走り出した。

「だから、千佳の様子を見に来ただけだって言ってるだろ」
「お嬢様とお約束はされておりますか」
「あのな、屋敷から出てこないんだから連絡の取りようがないんだよ」
「でしたら、今日はもう遅い時間ですので、明日以降、早い時間にいらしてください」
「遅いってまだ夕方だろうが」

門のところで言い争いをしている人影が誰かわかると、私は思わず大きな声を上げていた。

「怜二!」

驚いたように顔を向けたのは怜二だけではなく、綾崎さんも表情こそ変えていなかったものの私の方を見た。

「綾崎さん、この人は私の幼馴染みで怪しい人じゃありません」
「……そうでございましたか。それは失礼いたしました」
「あー、やっと納得してくれたか……」

怜二は大きくため息をつくと、私に苦笑を向ける。

「そういう格好してると本当にお嬢様って感じだな」
「これは……何も持って来てなかったからで……」
「馬子にも衣装ってやつ?」

わざとからかうように言われて、私は弱々しい笑みを返した。

「花さんから聞いた。大変だったな」
「……うん」
「一度も、戻って来ないのか?」
「わからない」

戻れるなら戻りたい。
けれどその言葉は、綾崎さんの前で口にすることはできない。
それに、私が戻ればお母さんや怜二に迷惑がかかるかもしれないとは、怜二には言えなかった。

「……お嬢様、よろしければお茶の準備をいたしましょう」
「え、でも……」
「私の勘違いでご友人に不快な思いをさせてしまいました。このままお返ししたとあっては九条家執事として申し訳が立ちません」

おそらく、綾崎さんが言っているのはこのまま怜二を追い返して、九条家のことを悪く言われたら困るということだろう。
怜二もその意味を悟ったらしく、微妙な顔をしていた。

「千佳、俺ももう少し話したいし、この執事さんとやらの申し出に甘えてもいいか?」
「私はもちろんいいけど……いいの?」

怜二は人から指図をされたり、人の意図通りに動かされることが好きじゃない。
きっと断ると思っていただけに意外だった。
すると、怜二は私の気持ちを汲んだように付け加える。

「明日からまた舞台だから、しばらく来られないんだ」
「ああ、そうなんだ」
「花さんの様子も伝えたいし、お前も聞きたいだろ?」
「……うん。お願いしてもいいですか、綾崎さん」
「かしこまりました。それではご案内いたします」

綾崎さんに案内されたのは、私もまだ入ったことのない部屋の一つだった。

屋敷に入るなり、怜二は感嘆の声を漏らした。無理もない。
私も同じことをしたばかりだ。
今通された部屋は幾分小作りではあったけれど、調度品の類は良いものを揃えられている。
綾崎さんは私たちに座って待つように言い置いて、すぐに部屋を出て行った。

「……想像はしてたけど、伯爵家ってすごいんだな」
「私もまだ慣れない」
「そんな1日じゃ無理だろ」
「それもそうだね。……いろんなことがあったから、何日も経ったような気がしちゃって」
「……大丈夫か?」

ふいに顔を覗き込まれ、反射的に笑顔を作る。
そうしないと、すぐにでも弱音を吐いてしまいそうだった。

「大丈夫。慣れない環境で疲れてるだけだから」
「けどお前……」

怜二が何かを言いかけた時、ノックの音がして綾崎さんが再び顔を出す。
綾崎さんは手早くお茶と茶菓子の準備を整えると、丁寧に頭を下げて部屋を後にした。

「……もしかして、気ぃ遣われた?」
「……たぶん」
「偉そうだと思ったけど、ちゃんとしてるんだな。さすがは九条家の執事か」

テーブルの上には、良い香りのする緑茶が置かれていた。
怜二はすん、と鼻を鳴らしてその香りを嗅いで、ちょっと目を丸くする。

「これ、すげーいい茶葉使ってる」
「そうなの?」
「親父のファンにやっぱり華族の人がいてさ、その人が差し入れてくれた高級なやつと同じ匂いだ」
「……すごいよね、本当に」

どうしても声が沈んでしまいがちで、私は慌てて言葉を継ぐ。

「お母さん、どうしてる? 元気にしてる?」
「ん、いつも通り元気にしてるよ。九条家から人が来たらしくてさ、俺なんかよりよっぽど事情もわかってるみたいだったし。ただ、お前のことは心配してたよ」
「なんて……?」
「庶民暮らしをさせてたから、今からお嬢様になれるかどうかって」
「……そう」

きっと、笑って「ひどいな」とかそういうことを言うべきだったのだと思う。
でも、私は悲しかった。
たぶん、「寂しい」とか「帰ってきてほしい」とかそういう言葉を期待していたのだろう。
私が、そうだから。

「……そんな顔すんな。何も花さんから帰って来るなって言われてるわけじゃないんだろ?」
「うん……。でも、お母さんは私が帰っても喜ばないかもしれないって思っちゃって」
「お前な、それ花さんに言ったらはたかれるぞ」

くしゃっと前髪を掻き上げられ、情けない笑顔になるのが自分でもわかった。
お母さんがそんなこと思ってないことはわかっているのに、欲しい言葉をもらえなくて拗ねているなんて、まるで子供だ。

「そんなに不安なら、花さんとちゃんと話せよ。その後で、自分がどうしたいか考えればいいだろ」

怜二の言っていることは正しい。
ただ、ここで拗ねていても何も変わらないのだから。
でも、私がいくら帰りたいと言っても、まだ帰れはしないこともわかっていた。
私が元の家に帰ったら、二人に迷惑がかかるかもしれない。
それなら、いつになったらその時は終わるのだろう。
帰りたいのに帰れない気持ちはぐるぐると出口を失って、胸の底にたまっていく。

「……そうだね。会いに行けばいいんだよね」
「まぁ、今日これからってわけにはいかないだろうから、お前一筆書けば? 花さんに届けてやるから。返事はちょっと遅くなるかもしれないから、お前が来られるなら先に会いに戻ってもいいし」
「手紙……。そっか!」

手紙ならば、二人に迷惑をかけることもない。
幼馴染みの提案に、現金なほど気持ちが明るくなった。

「今から書くから、ちょっと待たせてもいい?」
「どうせすぐ会えるんだから、ささっと書けよ、寂しいって」

心中を言い当てられてどきりとしていると、怜二は少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
けれどそれはすぐに優しいものへと変わる。

「どうせ、この家のやつらに、戻ったら周りに迷惑がかかるとかなんとか言われたんだろ?」
「どうしてそれ……」
「千佳が大人しくしてるってことは、自分以外の人間になんかあるってことだからな。伊達に付き合い長くないっての」
「…………」
「確かに、あの外国連中の狙いがわからないから俺も気休めしか言えねえけど、お前にならどんな迷惑をかけられても俺も花さんも困らない。だからお前は本当に帰って来たくなったら気にせず来い」
「怜二……」
「この屋敷から出してもらえないって言うんなら、また迎えに来てやるから」
「……ありがとう」

帰りたくなったら帰っていい。
大丈夫だと言われて、不安でいっぱいだった胸に希望が差した。

けれど、私も怜二も楽観視しすぎていたのだと、後でひどく後悔することになる。

怜二に手紙を託し、部屋で今日学んだことのおさらいでもしようかと本を手に取った時だった。

「千佳、少しいいかな?」

ノックの音の後に、上総さんが顔を出した。
もう夕食なのかなと思った考えは、上総さんの思いつめた表情を見てすぐに打ち消される。

「落ち着いて聞いてほしい。帰宅途中の道で、音羽君が何者かに襲われた」

手にしていた本が廊下に落下していくのを、私は他人事のように見つめていた。

つづく

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