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だから私は空を見上げる

※ややグロ注意


田んぼのあぜ道を歩いていた。
私の横を、涼しげな音を立てながら水が流れている。水路だ。
じりじりと這い上がってくるような暑さにはうんざりしていたけれど、この水音のおかげでいくらか気持ちは穏やかだった。
そういえば、昔はあぜ道を歩くだけで一匹や二匹青蛙に出合ったというのに、何時の頃からか見かけなくなった。あの蛙たちはどこにいってしまったのだろう。

暑さのせいでしおれた下生えを踏む音は一つではない。
私はたまに後ろを確認し、少し引っ込み思案な友人がきちんとついて来ているか確かめてから、また前を向いた。
ああ、よかった。ちゃんとついてきている。そう口元に笑みを浮かべた瞬間、透明な水の中に異様なものが混じり込んでいるのが視界に入った。

血だ。
赤い液体が、水に混じり始める。

足を止め一筋の赤い線を凝視していると、ぎゅっと後ろからTシャツを掴まれた。
はっと我にかえり、すぐ近くにある丸い頭を見る。
真っ青な顔をした友は、「あれ、何……」と視線を向けずにわずかに後ろを指差した。

「あれ……?」

ゆっくりと友の指先を目で追う。

あれは、手だ。

いやしかし、人のものではない。
手首から先だけの手は指の関節の作りからして、木でできた人形の手に見えた。
それは時折沈み込みながらも、水路の水に押されて前へ前へと流れていく。
気味が悪いとかそんなこと考えもせず、私はただその手を追った。

なぜこんなものが、血を帯びながら流れている?

私が追いかけるのを友は止めようとしたが叶わず、Tシャツを掴みながらついて来る。
人形の手がトンネルのような場所に吸い込まれて行き、それ以上追うこともできなくなるとようやく顔を上げた。
すると、すぐ脇へと伸びたあぜ道に膝をついた男性の背中が見えた。

「あの、大丈夫ですか?」

男性は灰色のスーツを着ていた。
スーツで土の上に膝をついているには、それなりの理由があるはずだ。日射病にでもなってしまったのだろうか。
彼はあぜ道に膝をつき、背は伸ばしていたが両腕はだらりと身体の横に垂れている。顔がほんの少し空を見上げているようで、何かを空に訴えているようにも見えた。

「あの、大丈夫ですか」

返事がない。
あれも人形なのだろうか。

眉根を寄せながら一歩近づこうとした時、人形かと思われた男性の体がわずかに傾ぐ。そのせいでその先にあったものが目に飛び込み、「あ」とも「ひ」ともつかないおかしな声が漏れた。

先にあったものは、【元】人間に見えた。

恐る恐る足を踏み出すと、揺れていた男性がまるで人形のようなぎこちなさで半身だけ振り向いた。

「大丈夫なわけないだろう」

彼の顔は半分溶けていた。

「……目の前で部下が溶けて行く様を見せられて、大丈夫だと言うならそれはおかしい。なぁ、教えてくれ。あいつらはそんなに悪いことをしたか?  たかが会社を一日サボっただけだぞ?  『課長、すみませんでした』なんて言葉が最期の言葉だなんておかしいだろ?」

そう言うと、彼はまた空を見上げて動かなくなった。

今、何が起きているのだろう。

私は泣き出しそうになっている友を引き連れ、さらに前へと足を踏み出した。
ひどい匂いだ。
空を見上げている男性は、私たちが横を通り過ぎても視線一つ動かさなかった。もう、そこに命がないかのように。

男性から少し離れた場所には、鉄パイプのようなものと、肉が少し残った人の骨が無数に落ちていた。男性曰く、彼の部下達。
一つの骨の山を過ぎるとまた一つ現れ、またそれを過ぎるとまた山があった。
それを五回ほど繰り返すと、ようやく車の通る道に出た。

「救急車、呼ばないと」

震える友の声に頷き、私は携帯電話のボタンを押した。
しかし、何を間違えたのか繋がった先は携帯電話会社のサービスで、これでは救急車が来てくれない。
そこでようやく、救急車が来たところでなんの役にも立たないことに気がついた。同時に、私のシャツを掴む友の手に小さなマッチが握られていることにも。

ああ、それは一体何を意味するのだろう。

引っ込み思案な大人しい友人。
けれど、名前を思い出そうとしても何も思い出せない。
彼、いや彼女? は一体誰だっただろう。
私が悲しいと思った時にそっと現れる静かな友達。
彼はいつだって、正しい行いを善とした。

そういえば、今日は平日だ。
私はどうして、学校に行かずにこんなところにいる?
学校はどうしたのだろう。……サボったのだろうか。
ついさっき、同じような話を聞いた気がする。

「呼ばないの、救急車」

ああ、なんだか背中が熱い。
手から力が抜け、携帯電話が音を立ててあぜ道へ落ち、弾けるようにして水路へと沈んだ。

「……呼んでおけばよかったのに」

そうすれば助かったよ、あなたは。

私はどうすることもできず、ただぼんやりと青い空を見上げる。
そこには一筋、まるで狼煙のような煙が上がっていた。


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