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ひらり、ひらりと舞うそれは

「追いかけてくるんです。今もほら、聞こえませんか?」

そう言う彼女の声があまりにも真剣で、何も聞こえなかったけれど笑い飛ばせず耳を澄ますふりをした。私のそうした態度はあまり上手いものではなかったと思うのに、彼女はその色素の薄い瞳を期待にきらめかせている。二重のくっきりした瞳は全体的に存在感の薄い彼女の中で、そこだけ強く存在を主張していた。
(どうにも弱ったね……)
耳を傾けたところで、私には何も聞こえない。
彼女の目がついと上に上がり、あ、と思う間もなくしょげたように毛足の長い絨毯に落ちていく。急いでその期待を拾ってあげようとしても、すでに濃茶の毛が覆い隠してしまっていて見つけられなかった。

「……いいんです。友達に言っても、聞こえるって言われたことないから」

まだ夜には肌寒い梅雨時期だというのに、彼女は白い腕を剥き出しにしていた。ノースリーブのワンピースは消えてしまいそうなほど真っ白で、線の細い彼女によく似合っていたが存在を希薄にもしていて不安を誘われる。彼女が、光を背にしていたからそんなことを考えたのかもしれない。
そこそこ広い研究室は明かりをつけていないので、どこかほの暗い。けれど、足元まである大きな窓から差し込む光は目を細めるほどに眩しく、明かりをつける必要は感じられなかった。
彼女はその窓の前、まとめられた分厚い深緑のカーテンに、そっと手を触れて立っている。
強く掴めば折れてしまいそうな二の腕。ゆるやかなカーブを描く長い髪が、その細い腕にかかっていた。うつむいても額の出た髪型のおかげで、彼女の顔は完全には隠されずそのことにほっとする。

美しい子だと、思う。

容姿の問題だけではなく、所作が目を引くのだ。
言ってしまえば職業を間違えてると同業に言われそうだが、彼女が動く時、周りの空気も体という存在を得て彼女に寄り添うように優しく色づく。何もない空間に手を滑らせるその動作にも、何か意味があると思わせる空気を、彼女は持っていた。

「すいません、おかしなこと相談しちゃって」

いや、と口の中に籠もるような返事しかできなかったのは、彼女の笑顔の横にパッと淡い桃色の花が咲いたように見えたからだ。
(……もうない?)
瞬きをしてから目を凝らすと、ただ深緑のカーテンがかかった窓があるだけで、花なんてどこにもなかった。当たり前と言えば当たり前だ。ここは私の研究室で、庭じゃない。
(疲れ目かな)
小さく吐息を落とすと、すいません、とまた彼女が呟いた。

「ああ、違う。今のはあれだ……年齢からくる全身疲労のおまけみたいなもんで、君のせいじゃない」
「おまけ……。嬉しくないおまけってあるんですね」
「……そうだな」

(まただ。また花が見える)
指先ほどもない、ほんの小さな薄紅色の花。
彼女が笑う口元あたりにふわりと咲いたかと思うと、次の瞬間には散った花びらの名残を残して消えている。
とうとう寝不足による幻視が始まったのかもしれない。若い頃は徹夜三日目などまだ序の口だったものを、加齢とは憎らしいものだ。

「それじゃあ、先生。また来週。課題、がんばるので厳しく見てくださいね!」
「期待してるよ。ただし、厚さ3mm以上のサンプルを貼り付けたりはしないように」
「……前は5mmって言ってたのに、減ってます」
「きっちり5mmのArbre Registre(アーブル ルジストル)なんて張るからでしょ。あれ未だにひとつだけ別保管なんだから」
「先生。あれはRegistreじゃなくて、Mémoire(メモワール)です。だからあれ以上うすくなんてできないんです」
「推すねえ、その説」
「譲れません」
「……はいはい。とりあえず今回の課題は3mm以内ね。来期の実技までちょっとの辛抱なんだから」

普段はさほど気の強いところを見せないのに、ことこの話になると彼女は折れない。大きな瞳をちょっと吊り上げて食いついてくるところは、子供のようでからかいたい衝動に駆られる。
(子供なんて言ったら怒られるか)
私より十ほど下というだけで、彼女だって立派な大人だ。私のゼミに入れるくらいには。

「来期も……先生が担当してくださるんですよね?」
「クビにされてなかったらな」

縁起でもないことを言って軽く手を振ると、重いドアを開けようとしていた彼女がくるりと振り返った。勢いのついたスカートが、ふわりと踊る。

「ダメですよ。私、先生の助手になる予定なんですから」
「その就職予定は第十希望ぐらいにしときなさいよ。助手なんて今のところ募集してないんだから」
「……Route(ルート)の研究成果の話じゃないですよね?」

やけに真剣な眼差しに、私の方が戸惑った。
Routeというのは私が長年手がけている、未来へと続くあらゆる事象を現在から推視しようという研究のことだ。授業ではその反対とも言える、記録(Registre)について教えている。
今期扱ったRegistreは樫の木だったのだが、授業が始まってから彼女はずっとこれはRegistreではなくMémoire……つまり、記憶だと言って譲らない。
面白い観点だとは思うが、実証するにはおそらく彼女が私の年に追いつくほどはかかるだろう。

「まだそこまで研究は進んでないな、残念ながら」
「そうですか……。じゃあやっぱり、助手候補めざしてがんばります」
「そう? ま、がんばんなさい。まずは来週の課題からな」
「はい」

それではと丁寧に頭を下げてから、扉の向こうに白い影が消えていった。

「……結局、なんの力にもなれなかったなあ」

彼女との出会いは五年前。出会うというよりは顔を合わせた、という程度のことだったから付き合いの長さとしてはもう少し短い。私が籍を置く大学に入学してし、講義を取り、ゼミに入ったから、かれこれ三年といったところか。
それなりに会話をする方だとも思っていたが、相談というものを受けたのは今日が初めてだった。それなのに。

「声が遅れて聞こえてくるねえ……。どう聞こえてくるんだか」

それが実際声にした後のことなら、医者に行くよう助言しただろう。けれど、彼女の場合は言った覚えのない言葉が、あとからふとした瞬間、聞こえてくるというのだ。それも自分のものだけではなく、たまに人のものも聞こえるという。
(耳がいい……とはまた、違うんだろうなあ)
若者にしか聞こえない音域の音だとか、そういった可能性も考えてはみたがそういうわけでもないらしい。
彼女が悩んでいるというより戸惑っているようだったのが、まだしもの救いだろうか。せめて、戸惑いが悩みに変わることがないよう祈るくらいしか、私にできることはない。

「仕事するかー……。ん?」

軽く伸びをし、仕事に戻りかけた足が止まる。
(なんだ、あれ?)
扉の前に、何か白いものが落ちている。小指の先くらいの大きさの、貝殻のようにも見えた。
彼女が落としていったイヤリングか何かかと、念のため拾い行く。けれど屈んでみたところで、それが薄紅色の花びらだということに気がついた。

「なんで花びらなんて……」

(というか、これ……さっき見えた花の花びらに見えないか?)
幻覚症状の一種だろうと片づけた、小さな花。
それがいま、片鱗とはいえ目の前に落ちている。
(やだねえ。こんなはっきり見えてて幻覚だったら、一度仮眠しないと)

「っ……、なるほど」

深くついたため息が、花びらを揺らした。どうやらまだ仮眠の必要はないらしい。
(ならただの花びらか。大方、彼女の髪にでもくっついてたんだろ)
何もない空間に咲いた花の一部だと考えるよりは、そう考えた方がよほど可能性が高い。
だとするとそのまま放っておいてもよかったのだが、なんとなく気になって伸ばした指先が触れた途端、

『助手になったら、下の名前で呼んでもらえますか?』
「っ!」

耳元で、囁くような彼女の声が聞こえた。
あまりに驚いて尻餅をつき、辺りを見回したが研究室の中には私しかいない。

「は……? え、ちょっとなんだよ。幻聴かあ?」

がしがしと髪を掻き乱し、摘まんだはずの花びらを見た。

「……おいおい、勘弁してくれよ」

指先は、何も持っていなかった。
床を睨むようにして探しても、あの花びらはどこにもない。消えたのだ。

「仮眠……するか……」

またぞろため息をつきながら、立ち上がる。
本当は午前中に仕上げてしまいたいものがあったのだが、何をするにも体が資本だ。いくら医療技術が発展した現代でも、メンテナンスが重要なことに変わりはない。

──追いかけてくるんです。

明るい日差しの差し込むカーテンを引こうとして、ふと彼女の言葉を思い出した。
追いかけてくる。自分の声が、人の声が、後になってその人がいないはずの場所で、聞こえる。内緒話でもするように、そっと。そう、彼女は言っていた。
(もしかして今の……)
幻聴にしても、よく彼女の声を再現していたと思う。それも、彼女が私に言ったことのない台詞を。
脳に記録された彼女の声という素材を使って作り上げたのだろうが、完璧といって良い出来だった。そんなにはっきりと再現できるほど、私は彼女の声を良い状態で記録しているのだろうか。
(いや、考え過ぎだろう)

「……考え過ぎだと、思うんだけどなあ」

勢いよく引いたカーテンの足元、起こった風にひらりひらりとそれは舞い上がった。
(俺のなにを試したいんだか)
研究者としての探究心か、それとも──大人の安っぽいプライドか。

「あー……悩む時間が惜しいわ」

どうとでもなれ。
繊細そうな花びらに、無造作に手の平を突っ込んだ。
その途端、わっと声の洪水が押し寄せる。

『ごめんなさい、先生。困らせるような相談して』
『来期も先生の講義取りたいです』
『今日も寝てないんですか? クマ、できてますよ』
『ふふ、別保管してくれてるんですね。なんか、嬉しいな』
『変な子だって、思いましたか……?』
『今度こそMémoireだって頷かせてみせますからね!』
『クビだなんて、冗談でも言わないでください』
『先生。私の名前いつも呼んでくれないの、どうしてですか?』
『先生。今日私ね、新しいワンピースなんです。似合ってますか?』
『先生。お疲れ様。無理しちゃダメですよ』

──先生、先生、先生。

想像以上の破壊力だ。ぽかんと開いた口を、思わず手で覆った。

「っとに……手加減ないねえ」

手が揺れた頬が熱い。呼吸もどうやら少し浅いようだ。
声という形を持った花びらは、一枚また一枚と彼女の言葉を再生しては雪のように空気に溶けていく。
さっきまでは何も起こらなかったのにどうしてと考え、思い至った。

「……俺が溶かしたのか」

がさつに触れた手が、きっかけだったに違いない。
(どういう現象なんだ)
伝えられなかった言葉が花びらになって舞い、誰かが触れると音になって溶けていく……? そんな話、聞いたこともない。
けれど、これすべてを幻聴だと言ってしまうには、リアルすぎた。

「どうするかねえ」

彼女に、私にも聞こえたよと伝えるべきなのか。
でも、何が聞こえたのかと彼女が訊いてきたらどうする?
十中八九、訊かれるだろう。私だったら、訊く。
適当な嘘で誤魔化すこともできるけれど、そうしたら彼女はまた、花を咲かせるのだろう。この、小さい薄紅色の花を。
(……名前くらい呼んどくべきだったな)
つるりと頬を撫で、一枚だけ残った花びらを見下ろす。
私は、この花びらの声を聞かずとも知っていた。知っていて、ずっと聞こえないふりをしていたものだから。

「溶かすにはもったいないんだけどなあ」

ほんのり透けた、美しい花びら。まるで彼女のようだと思う。
このまま溶かさずに見つめていたい。自分以外の誰かが触れてしまったらきっと、ひどく後悔するだろうに。
(嫌だね、ほんと)
年を取るごとに後悔の痛みに鈍くなる。そのことに苦笑し、優しく……驚かさないようにと花びらへと指を伸ばした。

『……あなたのことが、好きです』

耳元で彼女の長い髪が揺れるような、やわらかな声だった。

「さてと……」

(どうしようか、これから)
自分たちの歩む先の道、可能性の世界。そんなものを研究しているくせに、今この瞬間の行動すら迷ってしまう自分がおかしい。

「とりあえず……花でも買ってきましょうか」

ほんのり甘く色づいた、小さな花の花束を。
それにはきっと、伝えてこなかった私の言葉が詰まっているに違いない。


──fin.


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