楽しみにしていて

辛い時ほど上を向け、とわたしに言ったのは誰だっただろうか。

握り締め過ぎて白くなってしまった拳を広げると、一気に血が流れ始めて赤と白が入り交じった手の平はまるでひき肉のように見えた。
案外えぐいなとそれを見下ろしていると、何もかもがどうでもいいような気分になっていく。
手をつけていない山積みの宿題も、鉛筆で何回も上からぐちゃぐちゃに書き消した進路希望表も、昨日言われた心ない言葉も、全部が同列のような気がしてくるから不思議だ。

頭の中で、そういうもやもやしたものを全部まるめてゴミ箱へと投げ入れた。
乱暴に投げたせいか、一個だけゴミ箱に入り損ねてころころと脇へと転がっていく。

何が溢れ出てしまったんだろう。

拾い上げて広げると、それは昨日、大して仲の良くない知人から踏みつぶされたわたしの自信だった。
くっきりと足跡がつき、見るも無惨になって涙の跡が見える、わたしのちっぽけな自信。

もちろん、目に見えるはずなんてなくて、わたしは頭の中でそれらの想像をスイッチを切るみたいにして消し去った。
感情もこんな風に切り替えられたら簡単なのに。

こんなどうしようもない気持ちを抱えて、わたしは大人になっていくのだろうか。
大人っていうのはみんな、そうやって大人になっていったのだろうか。
そういえば、わたしを踏みつけたことにすら気づいていないあの人も大人だった。

あんな大人になるのなら、子供のままがいい。

あーあ、と大きくため息をついて、立ち上がる。
屋上の角っこ、給水塔の上には心地よい風が吹いていた。
空は晴れて、青空はどこまでも広がっている。
大きく両手を広げてみたけれど、きっとわたしは飛べはしない。

そんなこと、知っている。

大人にはまだなれない。子供にはもう戻れない。
この曖昧な時間をわたしは持て余していた。

一個なくしてしまった自信は進路希望表の第一希望をぐちゃぐちゃにして、山積みの宿題に伸びる手を止めた。
関係ないみたいな出来事は、実は全部繋がっているなんて、あの人はきっと一生気づかない。

だから、わたしは考える。

点と点を結んで続いた線の、ずっとずっと先。
続いていたなんてわからないずー……っと先を、消してやる。

一個ずつ連鎖していって、最後に消えるのはあなたの自信。

気づいた時にはもう遅い。

だって、あなたはわたしを踏みつけた。
だから、今度はわたしが導火線に火をつける番。

想像するだけで、軽やかな笑い声が漏れた。
うん、と伸びをして、給水塔の上から大きくジャンプする。
重い音が響いて、わたしの足は屋上へと着地した。
足はじんと痺れたけれど、痛くはない。こんなのちっとも、痛くない。
そんな痛みを気にするよりも、今はやることができたのだから。

──楽しみにしていて、その時を。


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