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第十一話 不協和音のワルツ

パーティーは始まってしまった。それも最悪の形で……。
宣戦布告とも取れる花束に仕込まれた爆弾。本来ならばそれを受け取った時点で中止にすべきだった。けれど、ほんの些細な勘違いから爆弾はパーティー開始の合図となり、来賓たちは悪意の花束へ知らず拍手を贈った。
開始時間まではまだあったため、その場にいた来賓は多くはない。それでも、一度始まったと認識されたものを中止にするのは、始まる前に止めるよりも遙かに難しい。
そうして、いつ誰がどんな形で“客”としてここにやって来るかわからないまま、私たちは笑顔を顔に貼り付けて来賓を迎え入れていた。

「千佳、疲れただろう。そろそろ一段落するから、会場の方へお行き。ああ、忍と一緒にね」

何があるかわからないから。
言外に含められた言葉に、精一杯の笑顔を作って頷き返した。胸の中は不安でいっぱいだ。それでも、誰かにそれを悟られたくはなかった。
上総さんに心配をかけたくないというだけじゃない。言わばそれは、意地だのようなものだ。
こんな形で人を脅す人間に屈したくはない。その意地だけで、私は二本の足でしっかりと立っていた。

「参りましょう、お嬢様」
「はい」

綾崎さんにエスコートされる形で、上総さんと克己くんから離れる。克己くんはちらりと心配げな視線を寄越していたけれど、すぐに来賓への対応へと戻った。
こうして少し離れてみると、二人はやはり良い兄弟に見える。よかったな、と思える自分に気づき、少し笑った。まだ余裕はあるようだ。

「安心いたしました」
「え?」
「そのご様子なら、ダンスが始まっても体が動かないということもないでしょうから」

眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ笑った。綾崎さんにも心配をかけてばかりで、少し申し訳ない。

「練習の成果の見せ所ですから」

強がって見えるかもしれないと思いながらも、ぐっと胸の前で拳を作って見せる。途端に、綾崎さんは眉根を寄せ、

「お嬢様、その雄々しい振る舞いはいかがなものでしょうか」

低く囁いてから、笑ってくれた。

「ああ、そろそろ旦那様のご挨拶ですね。その場でお嬢様のご紹介予定ですので、壇上に向かいましょう」
「……はい」

一段、高くされた場所に視線をやる。知ってはいたけれど、会場の中は華族や位の高い方ばかりで、見回すだけで眩暈を起こしそうになった。
だから敢えて周りを見ず、真っ直ぐに歩く。ちょうど反対側から九条さんが歩いて来るのが見え、この時ばかりはほっとした。いつもは緊張してしまうのに。

「……なんともないか」
「はい、私は」
「そうか」

私へと向けられた言葉はそれだけだった。それでも、私を気遣ってくれているあたたかさは伝わるのだから、不思議だ。

──いつか、この人をお父さんと呼ぶ日が来るのだろうか。

段を上がる時、ふとそんなことを考えた。
今すぐにだって呼んで良いことはわかっていても、ふんぎりがつかない。でも、いつか。
今、私を取り巻いている不穏な空気が全てきれいになって、お母さんとも話せて、全部がすっきりしたら……呼べるかもしれない。
前を歩く九条さんが、壇上の中央で足を止めた。舞台というほど高くはない場所なのに、人々の視線がこちらを向くのがわかる。
壇上のすぐ近くには、上総さんや克己くんだけではなく、鳴海さんや夏目さんの姿も見えた。おそらく、何かあった時のために備えてくれているのだろう。
何も起こらないでほしい。祈るような気持ちで、九条さんが口を開くのを待った。

「……皆様、本日はお忙しい中、私どものためにご足労いただきまして誠にありがとうございます」

九条さんや私に危害を加えるならば、今が絶好の機会だ。それくらい私にだってわかる。
だから、九条家の娘だと紹介された時には、心臓が口から飛び出しそうなほどに緊張していた。頭を下げたその瞬間、あのスーツ姿の男達に襲われるかもしれないから。
けれど、それは杞憂に終わった。

大きな拍手に見送られながら壇上を降りた時、緊張の糸が切れたのか、足がよろめいた。その姿を来賓達から隠すように、誰かが腕を引く。

「立派だったよ」

エスコートするような素振りで手を引いてくれたのは、鳴海さんだった。

「こうしてドレス姿を見ると、千佳ちゃんも華族だったんだなぁってしみじみするね」
「私は、未だに実感がないですけど……」
「まぁ、そういうものかもね。それにしても、すごいご馳走だよ。もう食べた?」

今は、鳴海さんの軽口に救われる。

「いえ、まだです」
「そりゃ勿体ない。そう締め付けの強いドレスでもなさそうだし、好きなものを摘まんでおきなさいよ」

なんなら取って来てあげようかと言う鳴海さんの申し出は丁重に断り、壁の方へと歩み寄る。そこには、夏目さんの姿があったから。
鳴海さんは夏目さんの姿を認めると、あとは任せたとばかりに料理の方へと歩いて行った。

「……あの人はあれでいいのか?」

私の護衛が仕事なのではないかと、夏目さんは言いたいのだろう。わずかに寄せられた眉根は、不満というより理解に苦しむと物語っている。

「たぶん、視野の広い人なんだと思います」

実際、鳴海さんは全く関係ないことをやっているようで、いつも周りをよく見ている。頭の後ろにも目があるんじゃないかと思ったほどだ。

「夏目さんはその……お仕事大変ですよね」

すみません、と続けようとした言葉は、声になるより先にグラスを渡されることで遮られた。
繊細なデザインのグラスを、透明な液体が満たしている。

「ただの水だが、飲むといい。俺が汲んだものだから心配ない」
「……ありがとうございます」

口をつけるものまで、気遣われている。申し訳なさと感謝の気持ちを水と一緒に流し込むと、水はよく冷えていてとても美味しかった。

「何か食べたいなら、綾崎さんから直接……」
「あ、大丈夫です。まだお腹は空いていないので」
「そうか」

夏目さんは元々口数が少ないこともあり、会話はあまり弾まない。それなのに、隣にいるととても気持ちが落ち着くから不思議だ。
けれど、いつまでも壁の花になっているわけにもいかない。私自身がどう思っていようと、このパーティーの趣旨は九条家の娘の紹介──つまり、多くの人に挨拶をすることが私の今日のお勤めになる。
こうして立っているだけでも、ちらちらと向けられる視線を感じていた。幸い、給仕姿の夏目さんと話しているせいか、誰からもまだ声をかけられてはいなかったけれど。

「……大変だな」

それらの視線に気づいて、夏目さんがぽつりと漏らす。同情なんかじゃなくて、本当にただ「大変だな」と思っているその声音にほっとした。

「大変みたいです」

他人事のように言うと、ちらりと視線で微笑まれた。
そろそろ行かなければと思い始めた頃、室内にワルツの音楽が流れ始めた。ダンスの時間が始まるのだろう。
できれば、一番初めに踊る人は知り合いがいい。
そんな贅沢な考えでそわそわ室内を見渡すと、こちらを見つめている強い瞳とぶつかった。克己くんだ。
そこでふと、思い出す。

「……夏目さん」
「どうした?」
「夏目さんと上総さんは幼なじみなんですよね?」
「ああ」
「それじゃあ、克己くんが初めて舞踏会に出た時のことも……知ってたりしますか?」

以前、上総さんに言われたことを、今になって思い出した。本当なら綾崎さんに聞いてみると良いと言われたことだけれど、その綾崎さんは九条さんの傍についていて話しかけられそうにない。
九条家と夏目家の間にいつから確執があるのかは知らないけれど、知っていたらいいなくらいの気持ちで聞いてみた。

「ああ、知っている。あの時は上総に無理やり引っ張って来られて俺も出席したからな」
「そうだったんですね。あの……その時、何か変わったことがあったんですか?」
「変わったこと……?」

ほんの数秒、夏目さんの視線が空を彷徨う。

「……変わっているかはわからないが、上総が楽しそうだったことならあったな」

たぶん、そのことで間違いない。勢い込んで尋ねると、夏目さんはこっちに向かってきている克己くんにちらりと視線を向けてから、幾分声を低めて話してくれた。

「克己が、上総と踊ったんだ」
「え? ……あの、それはどうしてそんなことに? 女の子がいなかったんですか?」
「いや、たくさんいた。ただ招待客の中の一人……俺たちより少し年上だろう男が、克己にダンスを申し込んだんだ。克己はそれを断るために、上総にダンスを申し込んだ」
「それはえっと……克己くんは女の子の格好をしてたとかでしょうか」

男の子に女の子の格好をさせて育てると丈夫に育つ。そんな話をどこかで聞いたことがある。克己くんは養子だけれど、九条家での教育方法に従ったとかだろうかと、首を捻る。

「いや、男子の正装だったな。だが、申し込んだ相手は確か異国の子供で、克己のことを大層気に入ったらしく、性別は気にしなかったらしい」
「それは……自由ですね」
「ああ」
「……克己くん、怒りませんでしたか?」
「怒ってたな」
「ですよね」

勝ち気な目をした、けれど可愛らしい男の子が、外国の男の子に声をかけられる。たぶん、その子は克己くんと仲良くなりたかっただけなのだろうけど、克己くんはプライドを傷つけられてきっと怒ってしまったのだろう。
そしてその場を治めるために上総さんが間に入って、最終的に上総さんと克己くんというペアが踊ることになった。
たぶん、その頃は今よりもずっと克己くんも頑だったはずだ。上総さんとまともに口をきいていたかも怪しい。そんな状態でも、克己くんは上総さんを頼った。その事実が、上総さんをどんなに励ましたことだろう。
きっと、大人たちは今私が感じているような胸の温かさを感じながら、幼い二人の兄弟を見守ったのだろう。
そんなきっかけを作ってくれた異国の男の子に、お礼を言いたいような気すらした。

「私も見たかったです」
「何をだい?」
「っ!」

突然、横から話しかけられぎょっと顔を向ける。

「上総さん……びっくりしました」
「ああ、ごめんね。楽しそうに話していたから、一区切りついてから話しかけようと思って」

夏目さんは気づいていたらしく、静かな瞳のままだ。

「今、克己くんの昔話を聞いていたところなんです」
「ああ、あの話か。ふふ、あれは嬉しかったなぁ」

本当に嬉しそうに笑う上総さんに、幼い頃の姿が重なって見えた気がした。

「ねぇ、克己」

ちょうどやってきた克己くんに上総さんが声をかけると、克己くんは嫌そうに顔を顰めた。

「なんの話だよ」
「それはね……」
「やっぱいい。どうせろくでもない話だろうし」
「ひどいなぁ」
「そんなことより、始まるぞ」

ため息混じりに言いながら、克己くんが私の方へと手を差し伸べる。それが、ダンスの申し込みだと気づいたのは私よりも上総さんの方が先で。

「克己、ここは公平にくじ引きで決めよう」
「なんでだよ。上総は踊りたがってる女が列になって待ってるだろ」
「それは克己も同じだよ。なんなら、振り返ってみるかい?」
「……遠慮しとく。つか、俺の方が先に声かけただろ」
「それを言うなら、先に話していたのは僕だけどね?」
「……兄弟で取り合ってどうするんだ?」
「「兄弟だからだ」」

冷静な夏目さんの言葉に、上総さんと克己くんが同時に口を開く。その息が合った様子に、思わず笑ってしまった。
この時間が、ずっと続けばいい。このまま何も起きず、誰も傷つかず、賑やかなままパーティーが終わればいい。
そうして、終わった後に心配して損したね、とみんなで笑い合う。そんな明日を過ごしたい。
そう思っていた時、私たちに近寄る男性の姿があった。

「お話し中、失礼します。あなたが──……九条家の一人娘、千佳さんでよろしいですか?」

その人は、見るからに上質な茶のスーツに身を包み、自信に満ちた瞳をしていた。

「鷹司……晴臣様……」
「名前を知ってもらえていたとは、光栄です」

にこやかに言うその人はけれど、ちっとも意外そうな顔はしていなかった。むしろ、名前くらい知っていて当たり前だろうと思っているのではないかと思わせる圧力のようなものがある。
確かに、鷹司家と言えば、この場では知らない人はいないだろう。それでも、この自信は一体どこから来るのか。
私が呆気にとられている間にも、時間は平等に過ぎていたらしい。気がつけば、目の前に手を差し出されていた。

「一曲、お願いできますか?」

私以上に困惑した顔をしていた克己くんが何か言おうとしたけれど、上総さんが優しくそれを止めた。その動作を見るだけでも、断るという選択肢はないのだとわかる。
相手は鷹司家の長男。九条家の、それも今日、娘だと公式に発表された私が、この手を取らないわけにはいかない。
鷹司さん自身が嫌だとかそんな感情はないのに、その手を取るのには勇気がいった。何故なら、いつの間にか大勢の注目を浴びていたから。
それだけ、鷹司家は人の関心を引く家だということだろう。

「……慎んでお受けいたします」

ようやく手を重ねると、焦れたわけでもないだろうに強く手を引かれた。よろめくようにして数歩前に出ると、そのまま腰を抱かれる。

「とろくさい奴だな」
「え?」

ぼそっと耳元で聞こえた呟きに、耳を疑う。

「もう少し、中央に行きましょうか」
「あ、はい……」

聞き間違い、だったのだろうか。確かに、今話しているこの声で「とろくさい」と言われた気がしたのだけれど。
横目で鷹司さんの様子を窺っても、おかしなところはなかった。
しかし、そう思えていたのはまだ上総さんや克己くんの姿が見える場所でのことだった。

「さてと……そろそろいいか。お前、本当に九条家の娘なんだろうな?」
「……はい?」

ワルツの音楽に合わせ、腰を引き寄せられる。頭は混乱していても、あれだけ毎日叩き込まれただけあって、足が勝手にステップを踏んだ。

「聞こえなかったのか? それとも頭の方もとろいのか?」
「……失礼ですが、あなたは鷹司晴臣さんですよね?」
「今更その質問をしてどうする」
「だって……」

あまりにもさっきと態度が違いすぎる。それとも、華族社会とはこういう裏表が当たり前の世界なのだろうか。だとしたら、人間不信になりそうだ。

「言っておくが、家の人間に告げ口しても意味はないからな。あいつらが見てる前じゃ、俺はご立派な鷹司家長男の顔をする。お前の方が失礼なことを言うなと叱責されるのが落ちだ」
「……つまり、こちらがあなたの素なんですね」
「そうとも言うな。お固い華族の連中に合わせてやってるんだ。礼を言われてもいいぐらいだ」

話している間も、晴臣さんはよどみなく私をリードしてワルツを踊る。むしろ、そのことに感心してしまった。
それに、今の態度の方がこの人には似合っている。初めて会った時に何か違和感を感じていたのはきっと、この正体とも言うべき素顔が見え隠れしていたからだろう。そう思うと、この人もまだ詰めが甘いのだと微笑ましくすら思えた。

「……おい、何を笑ってる?」
「いえ、華族と付き合う方も大変だなと思っただけです」
「馬鹿にしているのか、うちを」

──成金と呼ばれる、鷹司家を。
爵位を持たないことがこの人の劣等感を刺激するのだと、すぐにわかった。
それぐらい、わかりやすく瞳が鋭くなった。

「初めに私を馬鹿にしたのはそちらでしょう?」
「なんだと? 庶民出のくせに生意気な口を……」
「その庶民出にちょっと馬鹿にされたくらいで怒るのが、鷹司家のご長男なんですか」
「っ……いちいちむかつく女だな」

強気に出られたのは、今この場での会話は表沙汰にされないという確約のようなものがあったからだ。ここでのやり取りは、私だけではなく鷹司さんにとっても人には言えないことだろうから。
それに、口では随分と偉そうなことを言ってはいるけれど、この人のリードはとても優しい。だからきっと、心根は悪い人ではない。そんな気がしていた。

「くそ、華族の娘だなんて言うから、ああいうのを想像してたら……」

ああいうの、と言う鷹司さんの視線を追うと、赤と緑のドレスが見えた。あやめさんやぼたんさんのことを言っているのだとしたら、また違った意味でこの人の手には終えなかっただろうと密かに思う。

「それで、私が九条家の娘なのか確認してどうする気だったんですか?」
「……本当に、お前であってるのか?」
「一応、そういうことみたいです」
「なんで本人が自信なさげなんだ」
「すみません……」
「はっ、そこは謝るのか。変な女だ」

くるりとターンで体を回転させた時、近くで踊る上総さんの姿が見えた。何度か交差する視線が、大丈夫かと問いかけてくる。ターンの合間というほんの一瞬のことなので、笑顔を返すのが精一杯だった。
鷹司さんも九条家の人間が近くにいる時には口を開かず、上品な笑みで唇を結んでいる。長年、猫をかぶっている人の習い性のようなものだろう。
そうしてステップを繋げているうちに、ワルツは終わりに近づいていた。その最後の時に合わせたように、

「まぁいい。お前が真実、九条家の娘だと言うのなら──」

鷹司さんが口を開く。
音楽は最後の一音を残して空気に解け、軽く息を弾ませた男女のペアはお互いの顔を見つめ合っていた。
私もその例に漏れず、自信に満ちた笑顔を見つめていた。

「鷹司家長男として、正式に縁談を申し込ませていただきます」

気づけば、鷹司さんを見つめているのは私だけではなくなっていた。誰もが、驚いたように丸い目をしている。たぶん、私も。
ただ、私には自分へ向けられた言葉の重みが、わかっていなかった。

「あの、お断りします」

だから、自分の一言に会場がどよめいたことに、ぎょっとした。

「お嬢様……!」
「やったな……」

珍しく慌てたような綾崎さんの声に、ため息混じりなのにどこか楽しそうな克己くんの声が重なる。会場中の人が、私たちに注目していた。
何が起こったのかわかっていないのは、私だけだった。

「千佳、こっちにおいで」
「上総さん、あの……」
「大丈夫だよ」

優しく呼び戻してくれる声はけれど、どこか固い。私の周りだけが、ピリピリとした緊張をはらんでいるようだった。

「まさか殿方の申し出を断るなんて……」
「まだ若い娘さんだから……」
「しかし華族としての自覚が……」

耳に入り込んで来るひそひそ声に、はっとした。
華族の娘は、独断で縁談を断ることが許されていない。自分が、その華族の一員だと紹介されたばかりだと言うのに、自覚に欠けていた。いくら庶民の出だと言い訳をしても、この失態を流す理由にはならない。
今、私が独断で申し出を勝手に断ったことで、鷹司さんだけではなく九条さんの顔にも泥を塗ったのだとわかると、顔から血の気が引いた。
しかし、私の顔色を見て笑う人が一人。

「はは! 面白い」

真っ先に怒りそうなものなのに、笑ったのは鷹司さんその人だった。
彼は本当に楽しそうに目を輝かせていた。それは、新しいおもちゃを手に入れた子供の瞳によく似ている。

「晴臣君、妹が失礼しました。しかしそういった話は本人にではなく……」
「ああ、すみません。つい事を急いてしまいました。皆さんも、驚かせてしまったようですが、どうぞ引き続きパーティーをお楽しみください」

鷹司さんの一言で、どこかほっとしたように離れて行く人、見世小屋でも覗くように離れようとしない人とに分かれた。それでも、騒ぎが治まったのは確かだ。

「……ありがとうございます」

丁寧に頭を下げる上総さんに、鷹司さんは鷹揚に手を振る。私も慌てて頭を下げようとしたけれど、それよりも先に鷹司さんが次の一手を打った。

「縁談の申し入れは当主にするのが慣例……ですが、生憎と我が家は華族ではない。それに、そこにいるお嬢様も育ちは違う」
「おい……」
「克己様、お待ちください」

瞳を険しくした克己くんを、即座に綾崎さんが止める。その険悪な雰囲気に気づいていないかのように、鷹司さんは続けた。

「せっかくですから、古い慣習など忘れませんか」
「……と、申しますと?」

探るように慎重に問いかけた上総さんに、鷹司さんが指を一本立てて見せる。

「賭けをしましょう」

今度は、誰も何も言わなかった。
こんなにもたくさんの人がいるはずなのに、鷹司さんの声以外、何も聞こえない。ワルツの音で聞こえなければよかったのに。
そう願ったところで、ヴァイオリンはうんともすんとも言ってはくれなかった。

「今から、私と九条家のお嬢様で賭け事をする。その勝負に私が勝ったならば、私をお嬢様の婚約者にしてください」
「なっ……! 自分を賭けろってことかよ!?」
「まぁ、落ち着いてください」

憤る克己くんを、鷹司さんは余裕の笑みでかわす。

「これはお遊び、口約束でかまいませんよ。それとも、九条家は華族相手でなければ遊びにすら乗れないと?」

いくら口約束と言われても、これだけ多くの人の前だ。本当にただのお遊びで済むはずがない。
やはり、なんでもないふりをしていても、鷹司さんを怒らせてしまったのだろう。この責任は私が取らなければならない。
歯を食いしばり一歩踏み出そうとした時、すっと上総さんが私を後ろに庇うように歩み出た。
いつも、私を助けてくれる背中だ。迷惑をかけたくないと思うのに、いつもいつも、私はこの背中に守られている。
申し訳なさでいっぱいで俯きそうになった私の頭を、くしゃりと後ろから撫でる手があった。

「顔、上げてろ。上総がなんとかしてくれる」

囁くような克己くんの声に、顔を上げる。
横に並んで立つ克己くんは、真っ直ぐに鷹司さんを見つめていた。なんの恐れもなく、怒りもなく。先ほど、カッとしていたのが嘘みたいに静かな瞳をしている。
それも、上総さんへの信頼からなのだと思うと、一人で不安がっているのが逆に申し訳ない気がしてきて、私も気を引き締め直して鷹司さんに向き直った。

「……そう。晴臣君が勝った時には、妹を婚約者としてもらいたいというのはわかったよ」
「さすがは九条家のご長男。遊びの仕方もよくご存知だ」
「けどね? 君が負けた時は、何をしてくれるのかな。こちらは虎の子よりも大切な妹を出すのだから、それ相応のものを賭けてもらわないことにはその遊びには乗れない」
「それはそうでしょう。ですからうちは……」
「鷹司家の所有する企業の全株式および経営権、それに鷹司という名前……」
「は!?」
「そのすべてを賭けてもらってもまだ足りないけれど……不足分はつけておいてあげようか」
「お前……っ」
「妹の将来すべてを賭けるのだから、それくらい当然だろう?」

上総さんはあくまでにこやかな表情を崩していない。それなのに、上総さんの周りだけが一足先に真冬を迎えたように冷えきっている。その空気感に明らかに鷹司さんは押されていた。

「普段大人しい奴ほど、怒らせると怖いってよく言うだろ。……あんたも、上総だけは怒らせない方がいいぞ」
「う、うん」

こんな騒ぎになっているのに九条さんが顔を出さない理由が、わかった気がした。

「……調子に乗るなよ」
「おや、どうかしたのかい、晴臣君。化けの皮が剥がれているよ」
「っ……かまうものか。いいか、それだけのものを賭けさせるなら、口約束で済ませてもらっちゃ困る。この場にいる者を証人とし、勝敗が決した暁には賞品は確かにもらうからな」
「賞品、ね……。いいだろう。この勝負、妹に代わり九条家長男、九条上総が受けて立つ」
「望むところだ」

途中から、これも余興の一つだと勘違いしたらしい来賓たちが、やいのやいのと歓声を飛ばし始めていた。その中にはあやめさんとぼたんさんもいたらしく、黄色い声援をあげている。

「それで、首尾よく賭け事に持ち込めた先は、どういう予定なのかな?」
「……勝負の内容を決めさせてもらう。そうだな。内容は──」
「いい案がございますわ!」

一観客だったはずのあやめさんが、急に声を張った。勢いに乗ったように、ぼたんさんも続けて口を開く。

「あれですわね?」
「ええ、あれですわ」
「「利き酒勝負ではいかがでございましょう?」」

急に飛び入り参加してきた双子に、鷹司さんは呆気に取られている。

「今日のパーティーのために、我が家からたくさんのワインをご用意させていただきましたの」
「産地も年代も多種多様なものを取り揃えましたわ」
「我が家が持ち込んだものですから、九条家が有利ということもございません」
「もちろん、まだ厨房の方々にも銘柄はお見せしていないものをご使用くださいませ」
「上総様も良い案だと言ってくださいますわよね?」
「おい、俺はまだ何も……」
「あら、これ以上ないほど、公平な勝負ですわ」
「それとも、何か鷹司家にとっては不利だとでもおっしゃいますの?」
「それとも、急に決まった利き酒勝負では不都合なことがございますの?」
「……そうは言ってないだろ」
「それでは、決まりですわね」
「上総様もかまいませんこと?」

苦笑をしながらも上総さんが頷くと、あやめさんが小さな手を打ち鳴らした。それに合わせて、小間使いの人達が動き出そうとしたが、

「待て! 支度は我が家からも人を出させてもらう。九条家からも一人、誰か出せ」

即座に鷹司さんが制止した。

「勝負事に私情は挟みませんことよ?」

ぼたんさんは不満そうに漏らしていたが、上総さんが綾崎さんを呼ぶのを見るとそれ以上言い募ることはしなかった。

「忍、お前が行っておくれ」
「よろしいのですか」
「お前以外の誰に頼むんだい?」
「いえ……」

言い淀む綾崎さんに、上総さんの瞳が「わかっている」と頷いたような気がした。

「上総さん、私……またご迷惑をおかけして」
「千佳、これはね、お前をダシにされたゲームなんだよ」
「え?」
「お前が何をしようと、しなかろうと、必ず仕掛けられていた落とし穴だ。だから、そんな顔をする必要はないよ」
「でも、私がもっとちゃんとしていればこんな大事には……」
「大事。お前もそう思うかい、克己?」
「……別に。どうせ余裕で上総が勝つんだろ」
「で、でも利き酒だなんてそんな」
「上総がザルなの知らないのか?」
「ざる……?」
「ワインなら忍にお願いした方が勝率が高いと思うんだけどね。どうやら晴臣君は僕と勝負をしたいらしいから」

そうだろうか、と思う。おそらく、上総さんが前に出てくれなければ、私が賭け事に参加させられていたのではないかと思う。
とはいえ、当然鷹司さんもこうして上総さんや九条家の人間が前に出ることを予想してはいただろう。ここまで劣勢な勝負になるとまで見えていたかは別として。
私の周りにいる人達は、驚くほど頼もしい。私もいつか、この人達に何かを返したいと強く思う。

「なんだか愉快なことになってるねぇ」

着々と利き酒勝負の場が整えられているところに、鳴海さんがひょいと顔を出した。館内の見回りをしてくれているらしく、高橋さんの姿は見当たらない。

「千佳ちゃんを賭けて利き酒だって?」
「つか、あんたは今まで何してたんだよ」
「何って、そりゃあ……警備とかを?」
「じゃあ、その手に持ってる料理の山はなんだ」
「腹が減ってはって言うでしょ? で、あの鷹司っていうのは、九条家と仲が悪いの?」

鳴海さんの瞳に鋭さが宿る。克己くんもそれに気づいた様子で、真剣な表情を浮かべた。

「資料で読んだだろ」
「紙に書かれたものとその家の人間から聞くのとじゃ大分印象が違うじゃない」
「……鷹司家は会社として付き合いはあるが、別に商売敵ってわけじゃない。むしろ、取引先なんだから喧嘩を売られる筋合いはないはずだ」
「なるほど? じゃああれか、鷹司としては華族との縁故が欲しいから無理矢理にでも機会を作ったってことかな」
「え、そうなんですか? でもこんなことしなくても……」

正式に縁談の申し込みをした方が、九条家の心証も悪くないだろうにと首を傾げる。

「甘いねぇ。九条家は伯爵家だよ? 当然、お嬢さんを嫁がせるならば同等の家柄をと考えるはずだ。そこにお金はあっても爵位を持たない鷹司家からの縁談を持ちかけられたとして、受けると思う?」
「そういうものですか……」
「そういうものですよ。ま、九条家の台所が実は火の車ってんなら話は別だろうけど」
「馬鹿言うな」
「ってことらしいから、こういう手段に出たんでしょきっと」

華族社会の中で爵位を持たない家が対等に渡り合って行くことの難しさは、私にはわからない。けれどもし、鷹司さんが家のためだけにとこんな賭け事をしようとしているのだとしたら、少し悲しい気がした。そこに、鷹司さんの意思があるのなら別だけれど。

「お、そろそろ準備が終わりそうだな」

たくさんのワイングラスが並べられたテーブルの方に視線をやると、そのすぐ近くにあのスーツを着た男の姿を見つけて目を見張った。

「あの人……!」

咄嗟に駆け出そうとした克己くんの腕を、鳴海さんが掴んで止める。

「なんで止めるんだよ!?」
「よく見ろ。あれは鷹司家の人間だ。あいつらじゃない」

確かに、落ち着いて様子を見守っていると、スーツの男性は鷹司さんとやり取りをし、準備を進めているようだった。

「すみません、動揺してしまって……」
「やー、気がたるんでるよりよっぽどいいよ。けどま……仕掛けられるとしたら、大勢の視線が何かに引きつけられてる時だろうな」
「それって……」
「弟くんはお嬢さんの傍にいてやって。俺は全体が見える場所に行くから」
「あ、おい!」

止める間もなく、鳴海さんはひらひらと手を振りながらまた人混みの中に紛れて行ってしまった。
大勢の視線が集められる時、という言葉に、自然と目が今設置されている利き酒のテーブルへと引き寄せられる。
勝負が始まったら、みんな注目するだろう。少しくらい、隣の人がおかしな動きをしていても、きっと気づかない。

「克己くん……」
「わかってる。始まったら、お前は常に俺たちの誰かの姿を視界に入れとけよ。もちろん、俺も傍にいる気だけどたぶん……」
「克己様、お嬢様」

その時、準備が整ったと綾崎さんが呼びに来てくれた。その表情はわずかに陰っている。

「忍、こいつの席は」
「……あちらでございます」
「……やっぱりな」

これを心配していたのだと、克己くんが私を振り返る。

「千佳は言わば賞金だ。その賞金が逃げ出さないよう、特別席が用意されるだろうとは思ってたが……」

綾崎さんにエスコートされてついた席は、利き酒勝負が行われるテーブルの真後ろだった。上総さん、鷹司さんの後ろ姿はよく見えるし、二人を取り囲んでいる来賓たちの顔もよく見える。けれど、賞品と化した私に注意を向ける人は、事情を知っている九条家の人だけだろう。
距離だけならば、上総さんが一番近い。けれど私の座る椅子は即席で作られた台の上に乗せられており、誰かの手を借りないと降りるのも大変そうな有様だった。

──仕掛けられるとしたら。

鳴海さんの声が、耳にこだまする。

「それでは、お二方ともご準備はよろしいですわね?」

目隠しをされた状態の上総さん、鷹司さんが手を挙げる。それを合図に、利き酒勝負は開始された。
九条家からは綾崎さんが、鷹司家からはあのスーツの男性が歩み出て、黒い布に包まれたワインを二人へと給仕していく。思った通り、集まっている人々の視線は上総さんたちに釘付けだ。
勝負の行方も気になりはしたが、私まで注意を怠るわけにはいかない。そろそろと辺りを見回していると、克己くんや夏目さん、それに出番待ちであるはずの怜ニも、こちらを見守ってくれていた。
そうだ、誰もいないわけじゃない。ちゃんと味方がいる。そう安心した時だった。
初めは、自分の目が霞んでいるのかと思った。けれど、いくら目を擦っても、中央に活けられている花がぼやけて見えることに変わりがない。
そうこうするうちに、花の内側から白い煙が一気に噴射された。

「煙が!」

声を上げたのは間違いだったかもしれない。
急に私が立ち上がったりしたものだから、驚いて花を振り返ったご夫人の誰かが悲鳴を上げた。その悲鳴に恐怖心を煽られた人達が騒ぎ出す。
あっという間に、会場は混乱に陥った。
逃げなくてはと思うのに、前も後ろも逃げ惑う人達で溢れていて身動きが取れない。こんな高い場所にいたら、狙ってくれと言わんばかりだと言うのに。
グラスの割れる音に、女性の悲鳴、男性の怒号。
逃げ惑う人達の中に、人波に押されながらもこちらに来ようとしてくれている上総さんの姿が見えた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに姿を見失う。

「上総さん……!」

叫んだ声は、空しく人々の足音に掻き消された。
せめてこの目立つ台から降りなければと屈もうとした時、誰かに足首を掴まれた。ぎょっと手の先を目で追う。
そこにいたのは、タキシードに身を包んだ彫りの深い顔立ちの男。あの、外国人だった。

「誰かっ」

屈強な体格をしている男は人波にも流されず、そこに岩があるかのように人が避けて行く。手を振りほどこうといくら暴れても、びくともしなかった。それどころか、じりじりと引き寄せられている。

──誰か。

誰かに助けを求めなければ、自分の身すら守れない自分が嫌だった。それでも、身の危険を感じればまた助けを求めてしまう。
それでいいのだと、上総さんにも克己くんにも、それにユーリ神父にも教えてもらった。心配する人のためにも、助けを求めてほしいと。
だから、声を振り絞った。

「助けて!!」

その声が届いたのかはわからない。けれど、助けはやって来た。

「屈め!」

鋭い声に咄嗟にしゃがむと、背後にあった椅子が私の足を掴む男めがけて投げつけられる。一瞬男の手が緩んだ隙に、腕を乱暴に掴まれて台から引きづり下ろされた。人波に流され踏まれるのを覚悟し、目をきつく閉じる。
しかし予想に反し、腕を引いた手は私を肩に担ぐ形で人の勢いを利用して外を目指して走って行く。
視界に広がっているのは、茶のスーツだ。

「な、なんでっ」
「何が」
「どうしてあなたが助けてくれるの!?」
「話してると舌噛むぞ」

鷹司さんは迷う様子もなく、最短の距離で庭を目指して駆けて行く。大分離れられたものの、椅子を投げつけられた男がのそりと起き上がるのが見えてぞっとした。

「念のため聞くが、あいつらは九条家の用心棒じゃないだろうな?」
「違います!」
「なら敵か」

敵か味方かと聞かれれば、間違いなく敵だ。
勢い込んで頷くと、庭に出たところで鷹司さんは私を肩から下ろしてくれた。そしてその前には、すでに見慣れたスーツを着た男が二人。

「鷹司さん、逃げてください。あなたには関係のないことです」

このまま、私の近くにいると、鷹司さんも怜ニのように危害を加えられてしまう。ここまで逃がしてくれただけでも、お礼を言わなくてはいけないくらいだ。
強く言おうとしたのに、声は情けなく震えていた。

「関係はないが、関係しとくにこしたことはない」
「……え?」
「これで、九条家に貸しができたな」

場にそぐわず、鷹司さんは不適に笑う。
そして私を自分の背に追いやると、きっちりと締めていたネクタイを雑な素振りで抜き取った。

つづく


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