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第四話 兄弟

桜の花が咲いたら──。

毎日ダンスのレッスンを受けながら、私は秘かに上総さんに言われたお花見を楽しみにしていた。
ずっとお屋敷に閉じこもっていると、やはり気分が滅入ってしまい、どうしても視線は外へと向く。
窓から庭の桜を見つめると、大きく膨らんでいるわりに蕾みはまだ開きそうになかった。
私が毎日見過ぎているせいもあるかもしれない。
お花見の日程は桜次第ということもあり、日にちを決められてはいない。
上総さんは律儀に私の予定も聞いてくれたけれど、日々のレッスンさえ都合をつけられれば私は問題がない。
むしろ、一番忙しそうなのは上総さんで、最近は夜遅くまで仕事をしているらしくあまり姿を見かけることすらなかった。

「お嬢様、どうかされましたか?」
「あ、いえ……」

また桜を見つめてしまい、私は慌てて視線を窓から引きはがした。
ダンスのレッスン中ではあったけれど休憩中ということもあり、綾崎さんは紅茶のポットを手に静かに微笑を浮かべている。

「今年は桜が少し遅いんでしょうか?」
「ああ、桜ですか。九条家の桜は八重ですから、もう少しですね」
「……八重、だったんですね」

道理で蕾みの色が濃く、大きいはずだ。
花開くのが遅く感じることにも納得した。

「今週はあたたかくなるそうですから、土曜日あたりが見頃になるのではないでしょうか」
「土曜日……」

すぐにレッスンの予定を思い浮かべると、それを見透かしたように綾崎さんが言う。

「お花見のことでしたら、上総様から伺っております。その日は一日、お休みにしてほしいとのことですからご安心ください」
「! いいんですか?」
「ええ。ただ……」

綾崎さんの鋭い目が、眼鏡の奥できらりと光る。

「その後の授業が地獄になるかどうかは、お嬢様の日頃の努力次第になりますが……」

にこりと綺麗な微笑を向けられ、私は慌てて椅子から立ち上がった。

「どうされましたか? まだ休憩時間が残っておりますが」
「……練習させてください」
「かしこまりました」

綾崎さんのレッスンは普段から十分に厳しい。
その上、地獄だなどと言われたら、休もうという気が一瞬にして消えてしまった。

「ですが、お嬢様。少しの間、お待ちいただけますか」
「え?」
「この時間でしたらすでにお帰りだと思いますので」
「誰がですか?」
「ダンスのお手本を見せてくれる方が、です」

口元に静かな笑みを浮かべると、綾崎さんは一礼してからレッスン室を出て行った。
仕方なく、私は鏡の前でポジションの練習をすることにする。
けれど、ひとりでポーズを取ったところで合っているのかどうか、いまいちわからなかった。
お花見のことばかり気にしているけれど、お花見の日が近づくということは、舞踏会の日も近づくということ。
それを考えると気分が沈んでしまいそうで、慌てて頭を振った。
とにかく、練習しなければ上達もしない。
大きく深呼吸をしてから、また鏡へと向き直った。

「視線を上に向けて……背を……」

どうも不格好にしか見えない自分の姿を見つめていると、静かなノックの音が聞こえた。

「お待たせいたしました、お嬢様」
「いえ、そんなには……え?」

綾崎さんの後ろに見えた人影に、思わず言葉を呑む。

「克己くん? あの、じゃあもしかしてお手本を見せてくれる人って……」
「ええ、克己様です」
「忍、俺は……」
「克己様、先ほどの話をもう一度した方がよろしいですか?」
「……っ……」

文句を言う気で口を開いたとしか思えないのに、克己くんは綾崎さんの一言で黙り込んだ。
どうも、克己くんは綾崎さんに頭が上がらないらしい。

「克己様はワルツがお得意ですから、お手伝いいただけるようにとお願いしたのです」
「そう、ですか」
「……一度だけだからな」
「お嬢様に見本をお見せできれば十分ですから」

なんで俺が、と克己くんはぶつぶつ言っていたけれど、覚悟を決めたのかレッスン室の中央まで進み出た。
教えてもらうということは私も踊るのかと慌てて一歩出ようとした。
けれど、綾崎さんに視線で制される。

「お嬢様はそちらでご見学ください」
「え、でも……」
「女性パートを客観的にご覧いただくのが目的ですから」

一歩下がってみて首を傾げる。
女性パート、ということは男女ペアで踊ることになるけれど、ここには私以外女性がいない。
まさか、と視線を中央に向けると、克己くんは綾崎さんに手をホールドされていた。
気がつくと室内にはワルツの音楽が流れていて、一歩、綾崎さんがリードをして踊り出す。
激しく仏頂面ではあったけれど、克己くんは綾崎さんのリードに従順で、優雅に足を運んでいた。

「これが、ワルツ……」

初めて目の前で見るペアのダンスは、美しかった。
本来の形とは少し違うかもしれないけれど、拍手を贈るのに申し分のない素晴らしさだったと思う。
一曲踊り終えた時、克己くんは軽く息を弾ませていた。
手が痛くなるくらい拍手をすると、すぐにじろりと睨まれる。

「しばらくレッスンされていないわりには、良い出来だったと思います」
「……協力してやったのに上からかよ」
「二回ほど足を踏まれましたので」
「っ……仕方ないだろ。女役なんか普段やらないんだから」

綾崎さんは小さくため息をつくと、私へと向き直った。
その途端、克己くんがドアの方へと歩き出す。

「あ、克己くん!」
「……もう用は済んだだろ」
「そうじゃなくて、ありがとう」
「……別に」

少しだけ驚いたような顔をした後、克己くんは足早に部屋を出て行った。
もしかしたら、照れていたのかもしれない。

「ご覧になってみていかがでしたか?」
「すごくわかりやすかったです。流れというか、形がわかった気がします」
「では、忘れてしまわないうちに練習いたしましょう」

手を差し出され、さっき見たばかりの克己くんの姿を思い浮かべながら、ポジショニングをする。

「では、始めます」
「よろしくお願いします」

再び流れ出した三拍子の音楽に合わせ、一歩目を踏み出す。
気持ち、背筋がいつもより伸びたような心地がした。

***

克己くんの協力のおかげもあり、我ながらダンスの腕はめきめきと上がっていると思う。
この分なら、舞踏会に出ても男性の足に怪我を負わせるようなことだけは避けられそうだ。
そう思い始めた頃、ようやく九条家の桜が咲き始めた。
一つ花開くとそこからは早く、庭が濃いピンク色へと染まり出す。
廊下から桜の咲き具合を確かめていると、少し離れた場所から笑い声が聞こえた。

「花見を楽しみにしてくれてるのかな?」
「上総さん……」

振り返ると、上総さんが柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
私の後ろから同じように窓の外を覗き、

「この分なら週末がちょうどいいね」

鷹揚に頷く。
喜んだのが顔に出ていたのか、上総さんが笑みを深くした。

「忍には伝えておくから」
「……克己くんは来てくれそうですか?」
「んー……どうかな。でも、たぶん大丈夫だと思うよ」

ダンスのお手本を見せてもらってから、克己くんには会っていない。
もう一度お礼を言っておきたいこともあり、来てくれそうだと聞いてほっとした。

「じゃあ、また週末に。晴れるよう祈っておいて」

足早に去って行く背中を見送りながら、上総さんのことが少し心配になる。
少し、痩せたのではないだろうか。
忙しいところにお花見だなんて気を遣わせて、迷惑をかけているのかもしれない。
せめて何かお手伝いをできないかと思い立ち、私は綾崎さんを探すことにした。

屋敷内を掃除していた女中さんに聞き、綾崎さんの部屋へと向かう。
綾崎さんの部屋は私が使わせてもらっている部屋からそう遠くない場所で、今まで一度も部屋に出入りするところを見たことがないことが不思議だった。
ドアをノックすると、すぐに中から返事が返って来る。

「千佳です。今、少しよろしいですか?」

ドア越しに声をかけると、返事よりも先にドアが開いた。

「どうかされましたか、お嬢様」

ドアの隙間からは、たくさんの本が覗いて見えた。
綾崎さんは書き物をしていたらしく、机の上に何かの書類が広げられたままだ。

「お仕事中すみません。お花見のことでご相談があるんですけど……」
「ああ、今週末になったと、先ほど上総様から伺いました。ご心配されずとも今のお嬢様でしたら、一日程度レッスンをお休みされても支障はないかと存じます」
「本当ですか? よかった……」
「御用はそれだけですか?」
「あ、いえ。そのお花見なんですけど、私にも何か手伝えないかと思って」
「お気持ちには感謝いたしますが、身内のみの小さな会だと伺っております。料理などは私がご用意いたしますし、お嬢様の手を煩わせるわけには……」
「それなら、その料理を手伝ったらいけませんか? 皆さんお忙しいのに、私だけ何もしないというのが気になってしまって」
「……お嬢様は九条家の御方なのですから、そのようなことを気にされる必要はございません」
「駄目、ですか……」

必要ないと言われることは予想していた。
それでもと食い下がると、綾崎さんは微苦笑に目を細める。

「そんなにがっかりなさらないでください。……朝が多少早くなってもよろしいなら、食事の準備をお手伝いいただけますか?」
「いいんですか!?」
「早起きがお辛くないならば、です」
「がんばります」
「わかりました。では、当日は朝四時にお部屋に伺いますので、すぐに台所に来られるよう準備をしておいてください」
「四時……」
「おや、おかしな顔をされてどうされましたか」
「い、いえ! よろしくお願いします」

深々と頭を下げると、

「お嬢様のお料理の腕前が佐保様似でないことを祈っております」

笑みを含んだ声で言って綾崎さんは部屋のドアを静かに閉めた。

「佐保さん似……?」

どういう意味かはわからない。
けれど、佐保さんの話を口にしてくれるのは綾崎さんくらいなので、不思議と胸の中があたたかくなった。
お花見の準備を手伝う時に、佐保さんの話ももう少し聞けたらいい。
そんなことを考えながら、私は次の授業のために足早に学習室へと向かった。

***

そうして迎えたお花見当日、正直、朝のことはよく覚えていない。
なんとか四時前に起き、綾崎さんと共に台所に行ったまでははっきり覚えているのに、その後のことは寝起きの頭には刺激が強すぎたのかぼんやりとしか思い出せなかった。
午前中に予定されたお花見のため、綾崎さんと共に料理をしたはずなのだけれど。

「おはよう、千佳。忍に聞いたよ。今朝は大活躍だったそうだね」
「おはようございます、上総さん。活躍できていたのならいいんですけど……」
「?」
「あ、いえ……晴れて、よかったですね」
「そうだね。青空に桜が映えてとても綺麗だ」

空を振り仰ぐと、上総さんの言う通り青空に桜の花はよく似合っていた。

「朝食を軽くしておいて正解だったね。千佳の手料理が食べられるなんて楽しみだな」
「あの、そんな期待はしないでくださいね? 綾崎さんが作ってくれたものはいつも通り美味しいと思うんですけど」
「大丈夫。千佳が作ってくれたものもきっと美味しいよ」

庭にはテーブルと椅子が人数分用意され、続々と料理が運ばれてきている。
料理を運ぶのも手伝うと言ったのだけれど、何故か綾崎さんに真顔で止められてしまい、私は一足早く庭で待っていた。

「そういえば、今日は上総さんのご友人もいらっしゃるんですよね?」
「うん。そろそろ来るんじゃないかな? 時間には正確だから。ああ、ほら。噂をすれば」

小さく笑い、上総さんが門の方へと歩き出す。
視線を向けると、ちょうど誰かがやって来たところのようだった。
軍服を着た長身の男性は、上総さんと二、三、言葉を交わすと庭へと上総さんに連れられてやって来る。

「紹介するよ、千佳。こちらは僕の古くからの友人で、夏目彰雄」
「はじめましてこんにちは。……千佳と申します」

九条と名乗っていいのかわからず、口ごもりながら頭を下げると、彰雄さんも無言のまま頭を下げてくれた。

「前にも話したけど、この子が僕の妹だよ。可愛い子だろう?」
「そうだな」

なんの躊躇もなく肯定された褒め言葉に驚いていると、上総さんがくすくすと笑う。

「大丈夫だよ、千佳。彰雄は無愛想だけれど怖くはないから。ただ、驚くほど無口だけれど」
「はぁ……」

驚いたのはぴくりとも動かない表情にではなかったけれど、言ってしまうと墓穴を掘りそうなので曖昧に頷いた。
ほんの少し、頬が熱い気がする。

「立ち話もなんだし、座ろうか」

上総さんに促され、私たちはテーブルを囲うようにして椅子へと腰を下ろした。
会話がしやすいようにとの配慮か、上総さんは私と彰雄さんを隣に座らせて自分は正面へと座った。

「彰雄の家はすぐ近くなんだよ」
「そうなんですか?」
「近いと言えば近い」
「十分、近所だろう? 外を出歩けるようになったら、千佳を連れて行ってあげるよ」
「……俺の家だが」
「行ったら、歓迎してくれるだろう? 立派な日本家屋だから、見るだけでも楽しいよ。彰雄の集めてる石とかもよくわからないけど、面白いから」
「……上総」
「ああ、ごめん。石集めてるのは内緒なんだっけ」
「…………」

彰雄さんと話している上総さんは、普段よりも少し幼く見えた。
もしかしたら、こちらが本当の上総さんなのかもしれない。
古くからの友人というだけあって、二人の間の空気は穏やかで傍で話を聞いているだけでもほっとした。
彰雄さんも口数こそ少なかったけれど、あまり動かない表情の中に上総さんに対する優しさのようなものが感じられる。
いいな、と何の脈絡もなしに思う。
しばらく会えていない幼馴染みを思い出し、少しだけ胸が痛くなった。

「……どうかしたか?」

ふいに彰雄さんに顔を覗き込まれ、慌てて顔の前で手を振る。

「いえ、何も!」
「え? 千佳がどうかしたの?」
「……いや、気のせいだった。それより上総、克己は」

さりげなく彰雄さんが話を逸らしてくれたことに気づき、心の中でお礼を言う。
きっと、無意識のうちに私が顔に出していたのだろう。
そんな小さな変化に気づくなんてという驚きと、彰雄さんの優しさに自然と笑みが漏れた。

「朝、声はかけておいたんだけど……。昼はここでしか出ないと嘯いておいたから、たぶん来るとは思うよ」
「またお前はそういうことを……」
「克己は素直になれないだけだから、このくらいしてちょうどいいんだよ。それでも来ないようなら忍に呼びに行ってもらうから大丈夫」
「…………」
「彰雄は克己には甘いね」
「不憫なだけだ」
「どこが?」
「上総を兄に持ったことが」
「……酷いと思わないかい、千佳」

はいともいいえとも言い切れず笑って誤魔化すと、上総さんも笑って流してくれる。
いつものことはわからないけれど、きっとこれが上総さんと彰雄さんの当たり前の会話なのだろう。

「克己くん、早く来てくれるといいですね。そろそろお料理も出揃うみたいですし」
「そうだね。それにしても……」

テーブルの上に所狭しと並べられた料理を見て、上総さんが感嘆の声を漏らす。
明らかに、私が手伝った時の三倍の料理があった。

「すごい量だね」
「五人で食べきれるでしょうか……」
「五人? 今日は四人だよ」
「え? でも上総さんと彰雄さん、克己くんに綾崎さんと私で……五人ですよね?」
「ああ、忍は席にはつかないよ」
「……そうなんですか?」
「給仕なんていいと言ったんだけどね……」

少しだけ、寂しそうに上総さんが目を伏せる。
仲が良いとは言っても、使用人と雇い主の壁のようなものがあるのだろうと思うと、ちくりと胸に何かが刺さる感じがした。

「お酒があれば、席につかせることもできたのだけどね」
「え……」
「今日は克己がいるからお酒は抜きだし、仕方ない」

克己くんはお酒が弱いのだろうかと思っていると、上総さんは悪戯に目を細めて彰雄さんへと顔を向ける。

「それよりも彰雄、ちゃんとお腹は空かせて来てくれたかい?」
「昨日から食事を抜けと言ったのはお前だろう」
「えっ……!」
「なんだ」
「いえ、あの……まさか、本当に断食を?」
「一日くらい問題ない」

驚きに返事をできずにいると、彰雄さんは首を傾げた。
失礼だと思ったけれど、それが「待て」を言いつけられた大型犬のように見えて思わず笑ってしまう。

「……上総、どうして千佳は笑っている」
「それは、彰雄が面白いからじゃないかな」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」

上総さんが思っていたよりも悪戯が好きなことがわかり、そのこともまた嬉しかった。
おしゃべりを楽しんでいるうちに、綾崎さんがお茶を手に顔を見せる。
綾崎さんは彰雄さんに丁寧に一礼してから、上総さんの方へと顔を向けた。

「そろそろ準備が整いますが……」
「そうだね。……じゃあ、お願いしてもいいかな」
「かしこまりました」

何を話していたのかはよく聞こえなかったけれど、おそらく克己くんのことだとは思う。
来てくれるといいけれど、と屋敷を見上げた。

「克己が来るまで、だんごはお預けにして桜を楽しんでいようか」
「はい。それにしても見事な八重ですね」
「八重は一本でも派手だけれど、こうして数本並べるとまた別世界のような心地がするよね」
「本当に……」

ぽってりと丸い桜の花が、風に吹かれてふわふわと揺れている。
まだ散り際ではないので桜吹雪は見られないが、八重桜がぼんぼりのように揺れる様もまた可愛らしかった。

「そういえば、彰雄の家にあるのは山桜だったかな」
「ああ」
「今年は見そびれてしまったね」
「ちょうど今、散り際が見事だ」
「ああ……それは綺麗だろうね」

上総さんは目を細め、桜の花びらが散る様を思い描いているようだった。
お茶だけでも先にと綾崎さんがついでいってくれた緑茶に口をつけ、三人で桜を楽しんでいると、玄関の扉が開く音が微かに聞こえた。

「連れて来るのに成功したみたいだね」

足音がする方を見て、上総さんが微笑む。
つられて私も彰雄さんも顔を上げ、綾崎さんに連れられて来る克己くんを見た。
三人で見つめたせいか、克己くんがぎょっとしたように足を止める。

「克己様、皆様御食事をせずお待ちなのですから、お急ぎください」
「…………」

それを綾崎さんに注意され、克己くんは嫌そうな顔を隠しもせずにまた歩き出した。

「お待たせいたしました、上総様」
「ありがとう、忍。克己、好きな席に座って」

克己くんは上総さんに言われる前に、誰からも離れた椅子に無言のまま腰を下ろしていた。
それを見て、上総さんが苦笑を漏らす。
彰雄さんは無言でそんな克己くんを見つめていた。
その無言の視線に負けたように、克己くんが口を開く。

「……なに」
「いや、そこからだと唐揚げが遠くないか」
「別にいらないし」
「克己、肉を食べないと……」
「言っておくけど、俺が小さいんじゃなくてあんたがでかいんだからな」
「普通だ」
「軍ではだろ」

気安い雰囲気の二人を見て、

「お二人もお知り合いなんですね」

上総さんに声をかけると、にこっと頷きが返った。

「よく犬の散歩も一緒に行っているよ。彰雄の家でも飼っているから」
「仲良しですね」
「僕よりよほどね」

困ったように笑われ、私も上総さんの表情がうつってしまったみたいに苦笑する。

「上総様、御食事の準備が整いました」
「ありがとう。忍も席についていいんだよ?」
「ありがとうございます。けれど私は給仕がございますので」
「そう」

言葉の通り、綾崎さんは細やかな気遣いで給仕を始めた。

「それじゃあ、いただこうか。千佳は作ったものはどれかな?」
「えっと……」

どれだろうといくつも並べられた重箱を見回していると、綾崎さんがお皿にいくつか取り分けて上総さんへと手渡す。
そこに載せられた不格好なおにぎりを見て、朝の記憶が一瞬にして蘇った。
努力はしたけれどまったく出来映えに反映されなかった料理の数々を思い出し、青ざめる。

「あ、あの! 無理に食べなくても……」
「無理なんてしないよ。その……ちょっと独創的な形だなとは思うけれど」

心なしか、上総さんの笑顔が引きつって見える。
綾崎さんは彰雄さんにもどれがいいかと聞いて、皿に取り分けていた。
その皿にも、見るも無惨なおにぎりに、煮崩れた煮物や真っ黒になった卵焼きが載せられていく。
上総さんのお皿にはおにぎりだけだったというのに。
何も私が作ったものばかり選ばなくてもいいのに、と非難めいた視線を向けると、綾崎さんが珍しく困ったようにわずかに眉根を寄せた。

「……夏目様がご所望ですので」
「え」
「せっかく作ったんだろう。食べなくては罰が当たる」
「あの、でも……っ」

止めようとする間もなく、彰雄さんは大きな口でおにぎりへとかぶりつく。
はらはらしながら見守っていたけれど、三口ほどでおにぎりを食べ終えると、次は煮物へと箸を伸ばしてくれた。
見た目ほどに味は悪くないのだろうか。
少しだけほっとしていると、同じようにおにぎりを口にしたらしい上総さんが、激しく噎せた。

「っ……げほ!」
「……上総様、お茶をどうぞ」
「あ、ありがとう……っ……」
「だ、大丈夫ですか!? やっぱり味が……」
「そんなことないよ。一生懸命作ってくれてありがとう」

笑顔を見せてくれたけれど、どう見てもやせ我慢だ。
私も急いで自分で握ったおにぎりに手を伸ばし、一口頬張った。
その途端、あまりの塩辛さに同じように咳き込んだ。

「っ! げほげほ!」
「千佳、大丈夫かい?」
「は、はい……」

むしろ、こんなものを食べさせてしまって大丈夫だったのかと、上総さんに聞き返したかった。
けれど、せっかく気を遣ってくれているというのに、その気持ちを無碍にすることもできない。
申し訳なさでいっぱいになっていると、

「もう一つもらえるか」

低い声が聞こえた。
驚いて顔を向けると、彰雄さんは顔色一つ変えずにお皿を綾崎さんへと差し出している。
綾崎さんの方が困惑したように、けれど言われたままにお皿へまたおにぎりなどを載せていた。

「彰雄さん……」
「普通に食べられる」
「……無理しないでくださいね」
「ああ」

ほんの少しだけ、彰雄さんが口端を引き上げて笑う。
その淡い笑顔にどきりと鼓動が跳ね上がった。

「……忍、お前が作ったやつだけ取って」

けれど、克己くんの遠慮のない言葉にすぐに現実へと引き戻される。
あまりにはっきり言われてしまうと、やはりちょっとだけ寂しい。
決して食べてほしいと言えるような出来映えではないけれど。

「克己様、好き嫌いはおやめくださいと常日頃申し上げております」
「そういう問題じゃないだろ」
「お食べください」

にこり、と笑いながら、綾崎さんは私が作った煮物を少しだけお皿に載せ、差し出した。
克己くんはそれを受け取ると、少し躊躇してから溶け崩れたじゃがいもを口にひょいと入れる。

「あっま……! 何をどう間違えたらこんな甘くなるんだよ!?」
「ご、ごめんなさい!」

すぐに頭を下げると、その同じ煮物を横から伸びてきた手が重箱から取り上げていく。

「保存食に向いていていいと思うが」
「……すごいな、夏目」
「?」

淡々と重箱を空にしていく彰雄さんに、克己くんは尊敬に近い眼差しを送っていた。
私もまた同じように感動していたけれど、彰雄さんの健康も考えて綾崎さんにこっそりと私が作ったものを下げてもらうようにお願いする。
綾崎さんは少し迷う素振りを見せてくれたけれど、新しい料理と入れ替えるようにさりげなく調整してくれた。

しばらくそうしてみんなで食事を楽しんでいると、ふと上総さんが静かに微笑んでいることに気がつく。
いつも穏やかに笑みを浮かべている人だけれど、今は普段よりもずっと幸せそうに見えた。

「どうかしたんですか?」
「ああ、うん……いいなって思って」
「いいな?」
「やっと、兄弟が全員揃ったから」

心の底から嬉しそうなその声に、申し訳ないような心地がした。
私はまだ、完全に九条家の人間になれてはいないから。
けれど、私以上に、上総さんの言葉に反応した人がいた。

「……またそれか」

乱暴に湯飲みを置くと、克己くんが吐き捨てるように言う。
その目は、きつく上総さんを睨み付けていた。
上総さんは怯む様子もなく、少し寂しそうに笑う。

「本当のことなんだからいいだろう?」
「何が本当だ。本当に兄妹なのはあんたたちだけで、俺は違う」
「克己!」

珍しく、上総さんが声を荒げた。
それに反応したように、克己くんが椅子を鳴らして立ち上がる。

「家族ごっこは血が繋がった奴だけで十分だろ」
「またお前はそういうことを……!」
「本当のことだ!」
「血が繋がっていなかろうと、僕はお前を本当の弟だと思っているよ。どうしてわかってくれないんだい?」
「ずっと血眼になって探してた妹が見つかったんだ。俺はもういいだろ」
「そうじゃないだろう? お前も僕の大切な弟だ」
「もういいって言ってるだろ!」

バン、と大きな音を立てて、克己くんがテーブルを叩いた。
そうすることでしか、苛立ちを抑えられないかのように。

「克己、座りなさい」

静かに上総さんが言っても、克己くんは聞く耳を持たずに大股で歩き出してしまう。
何が起こっているのかわからないまでも、このまま行かせてはいけない気がして、私は慌てて克己くんを捕まえようと手を伸ばした。
それがいけなかった。

「離せ!」
「っ……!」

力一杯腕を振り払われ、大きく体が傾ぐ。
お茶の予備を準備してあったテーブルに腰をぶつけ、体勢を立て直そうとした時、克己くんの目が大きく見開かれるのを見た。

「え……?」
「千佳……!」

克己くんの手が、私の方へと伸ばされた。
その繊細な指先と私の間に、大きな影が入り込む。
それが庭に置かれていた天使の像だと気づいた時には、避けられないほどの距離まで影が迫っていた。

つづく


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