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第7話 夕闇よりも暗いもの

神父様に言われた通り、治療を終えると私と克己くんはすぐに教会を後にした。
私たちを見送る神父様の顔色は相変わらず悪く、まるで神父様の方が怪我人のようにも見えたほどだった。
九条の屋敷に戻り、ひとり神父様の言葉を思い出す。

「あなたを襲った組織の目的はわかりません。けれど、一度失敗してなお引かないということは明確な意図を持っているとしか思えません。私から鳴海さんにも何か手を打ってもらえないか相談しておきます。だから、解決するまではどうか屋敷から出ないと約束してください」

神父様はなんのためらいもなしに『組織』という言葉を使っていた。
きっと、神父様自身は気づいていないのだろう。
けれど、度々やってくる黒いスーツの男性たちについてなんの知識もない私からすると、それは強い違和感のある言葉だった。
『組織』だなんて言われると、すごく大きなことのような気がする。
それに、鳴海さんとは一体誰のことだろう。
神父様の知り合いの警察関係者かそれに近い誰かかもしれないと考えながら、その人に連絡がいくことでまた九条家に迷惑がかかるのではと不安になる。
大事にしたくないからと、克己くんにも黙っていてもらうようお願いをしたというのに、事態は黙っていれば済む範囲を越えようとしていた。
帰り際、神父様が克己くんに何か話していたことも気がかりだった。
もしかしたら、きちんと九条家の人に話すように言っていたのかもしれない。
並んで歩く間、克己くんは何か考え事をしているかのようにあまり口を開かなかった。
──話した方がいいのだろうか。
きれいに整えられたベッドの上に勢いよく転がると、お日様の匂いがした。
脳裏によくお世話をしてくれる女中さんの顔が浮かぶ。
この屋敷では、自分で布団を干すことがない。食事の準備をすることも、掃除をすることも。
すべて、九条家に仕えている人々のお仕事だ。
初めのうちは申し訳ない気持ちでいっぱいだったというのに、今では大分慣れてしまっている。
神父様に家族はいくつあってもいいのだと言ってもらい、いくらか気持ちが軽くなっていたとはいえ、うっすらと罪悪感のようなものが胸に広がった。

「……もう少し落ち着いたら、会いに帰ろう」

せめて、私が帰っても安全だと確認ができたら、一度お母さんのところに帰ろう。
きちんと話せば、きっと九条さんもわかってくれるはずだ。
体を起こし、机に置かれている時計に目をやる。まだそう遅い時間ではない。
心配をかけたくないという気持ちに嘘はないけれど、このまま黙っていても問題を先延ばしにするだけだ。
ちゃんとこの問題に向き合おう。そう決心をしてドアを開けると、

「遅い」
「克己くん!? どうして……ずっとそこにいたの?」

屋敷に戻った時、克己くんとはすぐに別れていた。
それなのに今、克己くんは腕組みをして私の部屋の前に立っていた。「遅い」ということは私が出てくるのを待っていたことになる。

「行くんだろ」
「え、あの……」

まだ状況を呑み込めずにいると、克己くんは大きなため息をついて歩き出そうとしていた足を止めた。

「……ユーリ神父から、あんたの力になってやるように言われた」
「神父様に……?」

帰る際、克己くんと神父様が二人だけで話していた時の光景が浮かぶ。

「今日のこと、相談する気になったんだろ?」
「どうしてそれを……」
「あんた、自分で気づいてないかもしれないけど、全部顔に出てるから。行くならさっさとしろよ。あんまり遅くなると迷惑になる」
「う、うん。……克己くんも一緒に行ってくれるの?」
「……ユーリ神父に頼まれたからな。それに、あんただけだと余計ややこしくなりそうだし」
「そっか。優しいね、克己くんは」
「っ……頼まれたからって言っただろ! いいから、行くぞ」
「うん」
「……あの人は今日戻らないから、上総のとこな」

ぶっきらぼうな口調ではあったけど、先を歩く克己くんの耳は少し赤くてそのことになんだか胸が温かくなった。
ありがとう、とその背中に言うと、「ふん」と克己くんらしい返答があった。

「どうしたの、二人して」

部屋を訪れると、上総さんは嫌な顔一つせずに私たちを室内へと招き入れてくれた。
眠る前だったのか、寝間着に上着を羽織っただけの寛いだ服装に、朝にすればよかったかなと申し訳ない気持ちになる。
克己くんも同じ気持ちなのか、ソファに腰を下ろした後も落ち着かなげに指を組み合わせては解いてを繰り返していた。
対照的に、上総さんは浮かれたようににこにこしていて、少しだけおかしい。
きっと、私と一緒とはいえ、克己くんが自分の部屋を訪ねて来てくれたことが嬉しいのだと思う。

「簡単なものしか出せないけど、いい?」
「あ、そんなおかまいなく……」
「忍がいれば美味しいお茶の一つも出せたんだけどね」

そう言いながらも、上総さんは慣れた手つきで玉露をいれて私たちに出してくれた。
ほんのりと甘い、優しい香りが部屋に広がる。

「……忍は? いつもならまだ仕事してる時間だろ」
「いつもならそうだけれど、今日は早く片付いてね。せっかくだから早めに休んでもらったんだ」
「ふうん」
「小腹でも空いているの? それならちょうどいただきものの……」
「別にそんなこと言ってないだろっ」
「そう?」

少しずつではあるけれど、距離を縮めている二人を見ると自然と頬が綻んだ。
そんな和やかな雰囲気の中、どう切りだそうかと考えていると上総さんの方から話題を振ってくれる。

「それで、何を相談しにきたんだい?」

きっと、上総さんには最初からわかっていたんだと思う。
あまり楽しい話をしにきたのではないということが。
けれど深刻な空気を作ってしまうと話しづらいだろうからと、気を遣ってくれたのだろう。
一度、克己くんの顔を見ると小さく頷かれた。
それに背を押されたような気持ちで、私は夕方からの出来事を包み隠さず上総さんに話した。
一通り説明し終えるまで、上総さんは一切口を挟もうとはせず湯飲みから立ち上る湯気をじっと見つめていた。

「……黙っていて、すみませんでした」
「こいつだけが悪いわけじゃない。俺も、強く説得しなかった」
「克己くんは悪くないよ。私がそうお願いしたんだし」
「外に連れ出したのは、俺だ」
「二人とも」

静かな上総さんの声に、私たちは揃って背筋を伸ばす。
それくらい、何か気圧されるものがあった。
怒られることも当然覚悟している。それだけに、上総さんがソファから立ち上がって私たちの後ろに静かに立った時には言い様のない恐ろしさのようなものがあった。
普段穏やかなだけに、上総さんが怒っている姿なんて想像もつかない。
ちらりと隣を盗み見ると、克己くんも私と同じように固まってしまっていた。
私が巻き込んでしまったばっかりに怒られるだなんて申し訳ない。
怒られるべきは私だけだと上総さんに言おうと顔を上げようとした時、ふわりと頭を後ろから抱き寄せられた。

「なっ、おい、何だよ!」

どうやらそれは私だけではなくて、克己くんも同じように後ろから抱きしめられているらしい。
克己くんはしばらく上総さんの腕を外そうと抵抗していたけれど、上総さんが頑として離す気がないとわかると大きくため息をついて抵抗を諦めたようだった。

「無事でよかった」

心なしか、上総さんの声は震えて聞こえる。
心配になって顔を上げようとしたけれど、まだ頭ごと抱きかかえられているのでそれも敵わない。
ぎゅっと抱き寄せられているので、自然と克己くんとは額が触れ合うような距離になっていて、少しだけ気まずかった。

「それはこいつだろ。俺は関係ないんだから離せよ」
「克己もだよ。現場に居合わせたんだから、そのまま二人で連れ去られていた可能性だってある」
「俺をさらっても邪魔になるだけだろ」
「目的が千佳だけだったら、そうかもしれない。けれど、それなら余計に危なかったかもしれない」
「……?」
「千佳をさらうだけなら、克己の身の保証はないのだからね」
「っ……」
「千佳も、怖かったね。傷はもう……?」
「……はい、神父様に」
「ああ、それなら安心だ。かわいそうに」

上総さんは一頻り私たちを抱きしめると、そっと手を離した。
後ろを振り仰ぐと、そこにはいつもの穏やかな微笑みがあった。

「話してくれてありがとう。本当に無事でよかった。二人とも、大切な家族だからね」

嘘偽りのない上総さんの言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
上総さんはソファに戻ることなく、考え事をするように顎に手をやった。

「ユーリ神父がおっしゃった鳴海さんというのはおそらく、街で探偵事務所を開いている人のことだと思う」
「ご存知なんですか?」
「噂程度だけれどね。そうだな……。父には僕から話しておこう」
「……あの人に言って何か意味あるのか」

ぼそりと呟かれた克己くんの言葉に、上総さんが苦笑する。

「ああ見えて、父さんも二人のことを気に掛けているんだよ。顔に出ないからわからないけどね」
「どうだか」
「そうやってすぐむくれるところなんかは二人ともよく似てるよ」
「はっ!?」
「とにかく、今回の件は一度僕に預からせてほしい。千佳は可哀想だけれど、またしばらくは家の外に出ないようにしてくれるかな」
「はい」
「庭に出る時も誰かと一緒に。いいね?」
「わかりました」

外に自由に出られないのは気落ちするけれど、今ばかりは仕方ない。

「それと克己」
「……なに」
「千佳を襲った連中の顔は覚えているね」
「一応」
「じゃあ、忍に話しておいて。せっかく早く休んでもらったところ悪いけど」
「あの! 顔なら私も覚えてます」

冷たい微笑が脳裏に浮かび、震えが一瞬走る。できれば思い出したくはなかった。
けれど、それで事件が早く解決するならばと顔を上げると、上総さんにぽんぽんと頭を撫でられる。

「そんな顔は忘れてしまいなさい」
「え、でも……」
「大丈夫。千佳が覚えておく必要なんてどこにもない。克己がしっかり覚えていてくれてるから。そうだろう、克己?」
「……そうだな。どうせ覚えてないって言っても、思い出させるんだろうけど」
「ふふ、克己の記憶力がよくてよかったよ。だからね、千佳。いいんだよ、忘れて」

どうして、こんなに優しくしてくれるのだろう。
思わず滲みそうになった涙を、何度も瞬きをすることで追いやった。

「それじゃあ、今日はもうお休み。克己は千佳を送った後で忍のところへ。先に事情は説明しておくから」
「わかった」
「おやすみ、千佳」
「おやすみなさい」

上総さんの部屋を後にし、克己くんに送られて自室へと戻った。
力なくベッドに腰を下ろし、体の欲求のままに横になる。
今日は一日、色んなことがあり過ぎた。思い出そうとしなくても、ぐるぐると目まぐるしく記憶が巡る。
上総さんは忘れていいと言ってくれたけれど、その言葉に甘えてばかりもいられない。

「そういえば……カチオーナクってどういう意味なんだろう」

あの男の人が私に向かって言っていた言葉。
外国語なことはわかるけれど、私にはわからない。

「明日、聞いてみよう」

それが何かの手がかりになるとは思えなかったけれど、気にしたままというのも気持ち悪い。

「……私なんて誘拐してどうするんだろう」

答えの出ないことを考えているうちに、私はいつのまにか眠ってしまっていた。

***

「仔猫」
「え?」
「だから、仔猫って意味だ」

朝食の場で偶然克己くんに居合わせたので、昨日気になっていたことを聞いてみるとあっさりと答えが返ってきた。
正面の席でお味噌汁に手をつけていた上総さんが、私たちの会話に加わる。

「ロシア語だね」
「ロシア語だったんですか……」
「あんたまだ、フランス語もできないんじゃなかったのか?」
「う……それは、うん。難しくて」

きれいな箸使いで魚をほぐしている克己くんは、英語、フランス語、ロシア語が堪能だと綾崎さんからよく聞かされているだけに何も言えない。

「学び始めてからそう時間も経っていないのだから無理もないよ」

優しい擁護の言葉にほっとするけれど、そういう上総さんも語学はしっかりと修得している。
華族というのは、一朝一夕でなれるものではないと思うのはこういう時だ。

「で、それがどうかしたのか? 一つずつにしないと言語混ざるぞ」
「あ、ううん。そうじゃなくて……その……」

例の男性に言われたのだと言うと、克己くんは思い切り嫌そうに顔をしかめた。

「なんだ、それ」
「……つまり、ロシア語に堪能な可能性があるということか。克己は何か聞かなかったの?」
「もう逃げてくところだったからな。けど、ロシア人だと言われても違和感のない顔をしてたとは思う」
「そう。ロシアか。……確か春先に……」
「……上総さん?」
「ああ、いやなんでもないよ。そうそう、二人とも。今日の午後は予定をあけておいてもらえるかい?」
「私は大丈夫ですけど……」
「午後って急に言われてもな。何時?」
「何か用事があるのなら……」
「その心配は必要ありませんよ」

上総さんの声に被さった聞き慣れないもう一つの声に、私たちは一斉に食堂の入口へと視線をやった。
そこには柔らかに波打つ髪をした男性が立っていた。妙に眠たそうというか、やる気のあまり感じられない目に、ほんの少しだけ持ち上げられた口角の印象がちぐはぐでどういう人なのかまるで掴めない。
深い緑色の着物に袴姿で、下にはシャツを着込んでいる服装から、一見すると書生さんのように見えなくもない。けれど、どう見ても上総さんより年上な雰囲気がある。

「申し訳ございません、上総様。外でお待ちいただくように言ったのですが……」

すぐに後ろから綾崎さんが駆け付け、眠たそうな顔で頭を掻いている男性を下がらせようとする。
それを手で制し、上総さんが腰を上げた。

「かまわないよ、忍。……お呼び立てして申し訳ございません、鳴海さん」
「じゃあ、この方が……」

間近で探偵を見たことがないだけに、ついまじまじと見つめてしまう。
私の不躾な視線に、鳴海さんは片方の眉を器用に上げてから苦笑した。

「探偵をしております、鳴海時人です。よろずもめ事探し物なんでも請け負いますよ。色恋沙汰以外なら、ですがね」
「……上総、午後の用事っていうのはもしかして」
「朝の用事になってしまったけれど、かまわないだろう?」

鳴海さんの軽い口調に何かしら反発を覚えたらしい克己くんを、上総さんがそっと抑える。
腰を浮かしかけていた克己くんは、渋々といった様子で座り直した。

「すみません、鳴海さん。午後にならないと父は戻れないので、今は簡単な話だけでもよろしいですか?」
「いいですよ。ユーリ……いや失礼、神父から連絡をもらって、これは急いだ方がいいと思ったもので急にすいませんね」

上総さんに促され、鳴海さんも食堂の席へと腰を下ろす。
綾崎さんに椅子を引かれても、なんの戸惑いも見せずむしろ慣れた空気が感じられた。もしかしたら、華族といった身分の高い人と関わることになれているのかもしれない。

「それで、そちらが?」

視線を向けられ、私は慌てて頭を下げた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。……千佳と申します」
「九条家のお嬢さん、というわけですか。ではそちらは次男の……」
「……克己です」

にこりともせずに、克己くんも座ったまま頭を下げる。
私たちが挨拶を終えると、上総さんは胸元から名刺を取り出しながら、丁寧に挨拶を交わした。
食堂に入ってきた時から名前を呼んでいたのでてっきり既知の仲なのかと思っていたら、どうやら上総さんも初対面のようだった。

「早速ですが、急いだ方が良いとおっしゃっていたのは……?」
「ええ、それは……」

鳴海さんが眠そうだった瞳を鋭くしたちょうどその時、

「ちょっと鳴海さん! なんで置いてくんですか!」

まさに転がるようにして男性が食堂に姿を見せた。
相当急いでいたのか、白いシャツをきちんと見せるはずのネクタイは曲がり、ベストもよれている。
肩で大きく息をしながら、その人は恨めしげな目を鳴海さんへと向けた。

「……ちょっと洋くん。今すごくいいとこだったんだけど」
「知りませんよ! そもそも、鳴海さんがひとりで行くのが悪いんでしょう? 今日は午後からだって言ったじゃないですか」
「騒がしいねぇ。とりあえず座って座って」
「誰のせいだと思ってるんですか。あ、すみません。約束の時間じゃないのに押しかけてしまって」

すぐ後ろに佇んでいた綾崎さんに、洋くんと呼ばれたその人は何度も頭を下げていた。確かに、そうしたいような空気が綾崎さんからは滲み出ている。

「あー……今入って来たのはうちの犬で……」
「鳴海さん、いい加減その紹介の仕方やめてください」
「お姉さん方には受けがいいでしょうに」
「今、どこにそのお姉さんたちがいるんですか。もう、空気を読んでくださいよ」
「うわ、それお前が言う?」
「……探偵助手をしてます、高橋洋です。鳴海が朝に押しかけまして、ご迷惑をおかけしてます」

高橋さんは一度鳴海さんを睨み付けてから、上総さんに向けてきっちりと頭を下げた。
服装はよれよれだったけれど、そうして見ると笑顔の爽やかな好青年に見える。
その高橋さんのためにもう一度自己紹介を一巡してから、話を先に進めた。

「急いで来た理由ですが、お嬢さんのお披露目会を一週間後にされる予定ですよね?」
「え、ええ。それが何か……?」
「それを中止していただきたいと、伝えに来たんです」
「……それは、私の一存では判断できませんが、何か根拠おありなんですか?」

上総さんが慎重に言葉を選んで問いかける。
それに、鳴海さんは微苦笑を浮かべて頷いた。

「簡単にしか伺っていませんが、お嬢さんが誘拐されそうになったのは昨日で間違いありませんね?」
「ええ」
「それも、二回目だ」
「……ええ、それが」
「誘拐というのは、本当に割りに合わない犯罪なんですよ。それを一度失敗しているにも関わらず、もう一度実行した。ということは、通常の誘拐とは異なると考えた方がいい。さらに、お嬢さんは九条伯爵家の娘だとお披露目される日が迫っている」
「まどろっこしい言い方しないで、さっさと言えよ」
「か、克己くん。仮にも年上の方にそんな……」
「いえいえ、お気になさらず。そちらさんは雇い主、こちらは雇われの身。身分の差もありますしね」
「……嫌な奴だな」
「お互い様でしょ」

どうも、克己くんと鳴海さんは相性が悪いらしい。
不穏な空気が流れそうになったところに、綾崎さんが良い香りのするお茶を出してくれた。

「鳴海様、克己様、どうぞ」
「別に俺は……」
「ああ、おかまいなく」
「……お二方とも、どうぞ冷める前にお召し上がりください」
「「…………」」

綾崎さんがにこりと微笑むと、克己くんだけではなく鳴海さんも大人しくカップへと手を伸ばした。
その様子に苦笑をしながら、上総さんが先を促す。

「つまり鳴海さんは、千佳が九条家の娘だと周知される前に手を打った方がいい……逆に言えば、それまでにまた襲われる可能性があると、そう考えていると思って間違いありませんか?」
「さすが、期待の跡取り息子だけはある」
「ちょっと鳴海さん、失礼ですよそれ」
「まぁまぁ。今さら取り繕ってもねぇ? ご当主もいないことだし、少し肩の力を抜かせてもらっても?」
「ええ、かまいません。それで……?」
「とにかく、今上総さんが言った通りですよ。もし俺が犯人でお嬢さんをなんとしても手に入れたいと考えたら、互いに見張りあってるような華族社会に入る前に……とは当然考えるでしょうね。それも間を空けずに手を打とうと考える」
「間を空けず……?」
「そう、例えばお披露目会を中止にするよう脅迫するとか、ね」

脅迫という言葉に緊張が走った。
誰もが口を閉ざした時、高橋さんがおずおずと手を挙げた。

「何よ、洋くん。だからお手洗いは出る前に行っておけって……」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。おれの品性が疑われる発言はやめてください。そうじゃなくて、これですよこれ」

高橋さんはポケットからやや折れた手紙のようなものをテーブルへと置く。

「おれ、遅れて来たでしょう? その時に門に貼ってあったの見つけたんで持って来たんですよ。宛名もないけど、わざわざ門に貼るくらいだから九条家宛てだろうとは思って」
「家人に届けずに門に……? 見せていただいてもいいですか」
「ええ、もちろん」

上総さんが手紙に手を伸ばすと、それを止めるように綾崎さんが一歩前へ出た。

「上総様、何かある可能性もございます。少々お待ちいただいてもよろしいですか」

上総さんが返事をするよりも早く、綾崎さんは慣れた手つきで封筒の中身を確認すると、封を切り、更に中にも危険物がないかを確認してから上総さんへと手紙を戻した。
それを受け取り、上総さんは苦笑する。

「忍、自分もきちんと気をつけないといけないよ」
「ご心配には及びません」
「それでも心配はしてしまうからね」

柔らかく言いながら中の手紙を広げた瞬間、上総さんの表情が凍り付いた。

「失礼」

横から鳴海さんが手元を覗き込み、文章を淡々と読み上げる。

「……前略 九条伯爵様。再三の面会をお聞き入れいただけないため、このような手紙をしたためさせていただきました。さて、一ヶ月後に九条伯爵家で大きなパーティーを開かれるご予定と伺いました。率直に申し上げますが、そちらは何卒中止していただきますようお願い申し上げます。私どもの願いをお聞き入れいただけない場合は、私どももそちらのパーティーに出席させていただければと存じます。九条家当主様の賢明なご判断のほど、ご期待申し上げ候」

ごくり、と誰かの喉が鳴る音が室内に響いた。

つづく

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